深海に浮かぶ


 繊月の浮かぶ夜半のことだった。


「あっいた、傑! 傑ー!」


 任務を終え高専に戻った傑のもとへ、どこからともなく名前が駆けてきた。傑はおや、と目を丸くする。日付はとうに越え、そこから更に二時間が過ぎている。いくら明日が土曜だからといって、中学生にしては夜更かしが過ぎる。


「名前。まだ起きてたのか。早く寝ないとお肌に悪いよ」
「あは、傑ったらお父さんみたい。まだ高校生なのにいいの? それで。ちなみにわたしはダイジョーブ、まだぴちぴちだから」


 にこ、とぴちぴちの頬を指して笑う名前の目の下に、薄らと隈ができていることに気づく。

 ──そうか。昨日から、悟も硝子もいないんだったか。つまり、眠れずにひとり。夜を越えなければならないというわけだ。

 傑の声色が、自然と一段和らぐ。


「せめてお兄さんと言ってくれ。何分まだ高校生なんでね。それで、なんだい?」
「あ、そうだった。あのね、わたし今度水族館に行きたいの」
「? うん?」


 突拍子のない名前の話に、傑は少しだけ首を傾げた。水族館。話の流れが見えない。

 先を促すと、名前はしゅんと目線を下げた。


「みんなで行きたいんだけど⋯⋯でも硝子ちゃんに言ったらダルいって言われちゃって、悟に言ったら子守なんかしてられっかよって言われちゃって」
「⋯⋯それは相手が悪かったんじゃ?」
「でもわたし、みんなで行きたい」


 ぱっと上がった名前の顔には、頑とした意思が見て取れた。


「念の為聞くけど、“みんな”っていうのは?」
「わたしと、悟と、硝子ちゃんと、傑」
「なるほど。さっきのが私へのお誘いだったというわけか」
「ううん。傑は最初からメンバーだよ」


 傑が断るはずないもん、という物言いに思わず苦笑してしまう。名前にそう思われていることが、素直に嬉しかった。


「ね。傑から説得してくれない?」
「私が。あの二人を?」
「そう。傑が、あの二人を」


 ふむ、と一息。
 その間に二人の顔を思い浮かべる。


「⋯⋯歴代の任務じゃ最高難度だな」
「あははっ」
「一応理由を聞いても? 明確な理由があるのとないのとでは、あの二人に挑む私の気の持ちようがまるで違うんだが」


 むぐ、と名前が言葉を詰まらせる。それを見て「ああ、言いたくなければいいよ」と言おうと開いた唇を、名前がゆっくり制す。


「⋯⋯笑わないで聞いてくれる?」
「もちろん」
「傑の『もちろん』の信憑性すごいね。⋯⋯あのね、夢を見たの」


 そう話し始めた名前の瞳は、近いような遠いようなどこかを見つめていた。


「ちいさい頃、お父さんとお母さんと水族館に行った夢。⋯⋯なんか行きたくなっちゃって」


 両親を失ってから名前は、まだひとりで眠ることができない。幼気な少女の身に降りかかるには余りにも重たい凄惨さだった。

 夢で想い出をなぞったことが、名前の心にどう作用したのかはわからない。余計に哀しくなってしまったのかもしれないし、逆に心が潤ったのかもしれないし、その両者かもしれない。

 それでも名前が“行きたい”という気持ちになったのであれば、それは絶対に叶えたいと思う。


「そうか⋯⋯よし。おいで、予定を立てよう。どこの水族館がいいんだい?」
「あ、だめだよ、傑。引き止めておいてなんだけど、任務終わったばっかりに夜更かしはだめ。ちゃんと休まないと」
「生憎私もまだまだぴちぴちでね。それに、任務のあとは気が立ってしまって毎度なかなか眠れないんだ」


 眠れぬ名前を、このままひとり。部屋に帰すなど誰が出来ようか。上手く人に甘えることのできないこの少女を、たったひとり。夜の中に。

 悟や硝子と違い、傑は名前に睡眠を与えることができない。それならばせめて、日が昇るまで共に過ごそうと思う。午前中には悟が帰ってくる。そうすれば名前も眠れるはずだ。

 それまでは、せめて共に。


「⋯⋯本当にいいの?」
「というか、名前と話していると荒ぶった気が凪ぐから、むしろ私からお願いしたいくらいだ。今日の呪霊は一段と不味かったから余計にね」
「⋯⋯ありがとう」
「こちらこそ。さ、おいで」


 礼と共に溢れた笑顔が子供っぽくて、安心する。子供だなんて言うと名前は怒るが、年相応に笑ったり泣いたりしている姿が名前には似合う。

 出来ることなら、呪術界この世界に染まらずにいてほしい。だなんて無理難題を思い、そしてすぐに掻き消した。



 入り口に置かれた撮影用セットに向かって名前が駆けていく。


「硝子ちゃん、写真撮ろう! 写真! ここから顔出せるよ!」
「うぃ〜〜」
「うわっ、怠そうな返事。昨日ちゃんと寝た?」
「いや酒飲んでて⋯⋯ゲホッ、いってーな、何すんだよ夏油」


 硝子の後頭部に手刀を落とす。
 その衝撃で軽く咳き込んだ硝子は、傑を睨めつけた。傑も傑で呆れた眼差しで返す。


「教育に悪いことを言うんじゃない」
「いーじゃん別に。つか高専で生きていくのに道徳教育も何もねぇだろ。オマエだって良くわかってんじゃん」
「それはそれ、これはこれだ」


 撮影用パネルには海の生物がプリントされ、それぞれの顔部が楕円に切り抜かれている。そのペンギンの頭部分から顔を覗かせたまま成り行きを見守っていた名前は、「もう、こんな序盤に喧嘩しないでよ」と笑っている。

 名前のためを思っての行動だったが、悲しきかな。本人にはまるで響いている様子がない。親の心子知らずとはこのことか。


「⋯⋯で、悟はその顔を何とかしろ」
「あん? その顔だ? 誰に言ってんだよ、目ン玉ついてんのか? こんなイケメンな顔この世に二つとねぇんだけど」


 高専を出てからというもの、仏頂面を一ミリも崩さぬ悟へ苦言を呈す。なんでも昨夜、大事に取っておいた数量限定スイーツを名前に食べられてしまったとかで、非常に機嫌が悪いのだ。

 子供じゃあるまいし。

 そう思いかけて、いや、コイツの中身は良くて五歳児だなと思い直す。


「まったくいつまでもそんなことで⋯⋯名前を楽しませてやるんじゃなかったのか」
「俺が何するまでもなく、アイツもう勝手に楽しそーじゃん」


 仏頂面のまま、悟が顎をしゃくる。その先では名前が硝子と何かを話しながらきゃっきゃと笑っていた。傑は柔らかく苦笑を落としてからちいさく呟く。


「それでも、名前が求めてるのは悟だよ」
「⋯⋯は?」


 サングラスの奥で不可思議に開かれた目を一瞥して、傑は名前の元へと向かう。カメラのシャッターを押してやろうと思った。


「傑も入ってね! 悟ー! シャッター押してー!」
「ああ? 俺は入らなくていいのかよ」
「あは、何だかんだ言って入りたいんじゃん」
「うるせぇよ」


 結局、道行く人にカメラを託し四人で写真におさまった。ちぐはぐな自分たちの姿は、他人には一体どんなふうに見えているのだろうかと。ふと思った。







 それから十分後のことだった。
 いつの間にか一人二人と群れを離れていたようで、気づけば傑の周りには誰もいなかった。忽然と姿を消したという表現がこんなにも当て嵌る場面に遭遇したのは初めてだ。

 傑が順序通りに回っていた──皆の離脱に気づかぬ程度には見入っていたのかもしれない──のは確かだし、人混みに呑まれてはぐれるほど混んでもいない。あと十分もすれば、皆で観ようと言っていたイルカショーだって始まる。

 なのになぜ。

 なぜ、三人ともいないのだ。

 図らずともおおきな溜め息が落ちる。これでは何のために四人で来たかわかったものではない。

 仕方無しに、傑は一人一人の呪力を辿り始めた。








「ハァ〜〜〜〜〜やっと見つけた⋯⋯」
「あ、傑」


 けろっとした顔で手を振る名前に近づき、頭にぼっふんと手のひらを落とす。その衝撃で名前の身長が頭ひとつ分縮んだ。


「っ痛、強い⋯⋯」
「さて名前」
「な、何でしょう」
「私は今、皆が余りにも自由過ぎるもんで非常に困ってるんだが、名前はどう思う?」
「あ、そっか、わたし何も言わないでここ来ちゃったんだ⋯⋯お目当ての展示見つけて衝動的に動いちゃったみたい。その、ごめんなさいと思ってます」
「うむ。よろしい」
「ふふ」


 クラゲだった。

 様々な色彩にライトアップされる広い水槽の中。光を受け様々に色付く大小のクラゲが、ふわりふわりと浮かんでいる。


「⋯⋯綺麗だな」
「うん」
「これを見たかったのか?」
「うん、そう」


 目の前のクラゲを見つめているはずの名前の瞳は、朧気に焦点を結んでおらず、まるでいつかの過去を見ているかのようだった。

 両親と訪れた、在りし日を。


「⋯⋯クラゲに海月って漢字をあてた人、すごいよね。海の月だなんて⋯⋯これがあはれなり?」
「は?」
「ふふ、この間国語で習ったの。昔の人はこういう時に使ったのかなと思って」


 そう呟く名前の声は穏やかだ。
 聞くと、この水槽を前に父親が教えてくれたのだという。海月という漢字。そしてその生物について。その時の一幕が名前には鮮明に残っていて、どうしてもここに来たくなったのだという。


「海月って、目がたくさんあるんだよ。でも脳はないの」
「へえ。じゃあその視覚情報はどこでどう処理されるんだろうね」
「⋯⋯海月の目は、海の目とか地球の目とかってね、言われることがあるんだって。世界が海月を通してその万象を見ている。海月の目の前にいるわたしたちの姿は、今まさに、世界に認識されてるのかもしれないね」
「──⋯⋯」


 不思議な話だ。
 父から聞いたというこの話が、名前の記憶に残るのもわかる気がした。


「わたしの姿は、海月にはどう映ってるのかな。理想のわたしで在れてるのかな⋯⋯」


 返事ができなかった。

 理想と現実。夢と現。呪術師と非呪術師。悟と傑。その狭間でもがいている自分の姿が、まだ誰にも打ち明けていないこの葛藤が、海月に見透かされているかのような心地になった。


「──⋯る?」
「⋯⋯⋯⋯」
「──傑」
「⋯⋯⋯⋯」
「ねえ、傑ってば」


 はっと我に返る。パチンと目の前が弾ける感覚。暫く考え込んでしまっていたようだった。


「ごめんごめん。少し考え事」
「⋯⋯大丈夫?」
「ん? 何がだい?」


 傑の顔を下から覗き込むようにしていた名前の双眸が、まっすぐに見上げてくる。思わず顔を背けてしまいそうになった。

 なぜならば、まるで。

 名前にまで見透かされているようで。


「⋯⋯傑はさ、優しいよね。悟と違って」
「そりゃあ、悟を引き合いに出せば大抵の人間は優しいさ」
「ふふ。でもね、たまに⋯⋯ちょっとだけ、寂しそう」
「⋯⋯私が?」
「うん」


 名前の瞳は真剣だった。その直向きさに負けぬように、微笑み返す。ああ、駄目だな。上手く笑えていないのが自分でもわかる。胡散臭いと評されてしまう表情をしているに違いない。

 それでもその表情のまま、続ける。


「はは。名前の勘違いだよ。私には仲間もいる。名前だっている。何も寂しいことなんてないさ」
「⋯⋯そ、っか」
「ああ。ありがとう」
「ううん。変なこと言ってごめんね。でももし寂しくなったら、この間みたく朝までお話しようね」
「──⋯⋯」


 傑は切れ長の目を細め、名前の頭を撫でた。

 傑がいずれ選ぶことになるであろう道は、必ず名前を裏切り傷付ける。そうすればもう、名前は笑顔を向けてはくれない。失望して、幻滅して、そうしてきっと──泣いてくれる。

 想像したその未来は、傑の喉元にひどく引っかかった。


「⋯⋯名前」
「ん?」
「もし私が──」


 言いかけた、その瞬間だった。 


「あーっ! いた! 傑、悟いたよ! あっち歩いてる!」
「⋯⋯ああ、ほんとだ」
「行こう! もうはぐれないようにしないと! イルカショーも始まるし」


 名前に手を引かれる。
 触れ合った手のひらは、驚くほどあたたかい。

 そういえばもう長いこと、人のぬくもりに触れていないなと思う。

 仲間がいる。掲げる正義もある。なのに、何故だろう。心のどこかが、ぽかりと虚しい。その虚しさが、名前の温もりに触れることでより一層際立ってしまう。

 皮肉なものだ。

 水槽の中では、幾多の海月がふわりふわりと浮かんでいる。それらを一瞥してから、手を引かれるままに足を向けた。










【深海に浮かぶ】終

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