黒に染まった撫子を


 乙骨憂太という人物を思い描くと、どんな時でも必ず浮かぶ三つのイメージがある。

 一つ。少し眉を下げて笑う穏やかな空気。
 二つ。視線だけで人を殺せそうな鋭い眼光。
 三つ。里香。


「里香、か⋯⋯」


 里香は昨日、この世を去った。二度目の逝去と言うのが正しいのかもしれない。

 街中が浮足立つクリスマスイブ。
 煌びやかな世界とは程遠いこの地で、里香は、その最愛のもとを発った。

 今しがたの独白が聞こえていたのだろう。「こんぶ?」と不思議そうに首を傾げている棘に、なんでもないよと首を振って答え、名前はドアノブに手を掛けた。


「よし⋯⋯棘、準備はいい?」
「しゃけ」
「じゃあいくよ、せーの!」


 勢いよく開け放った憂太の部屋の扉。パンパーン! と景気よく響いた音は、名前と棘が手にしたクラッカーからだった。僅かに遅れて硝煙の匂いが漂う。


「メリーーークリスマーーーース!!」
「ツナツナーー!!」


 目の前をひらり。紙テープと紙ふぶきが舞い落ちる。その向こうで目を丸くしてこちらを見ている憂太は、入浴後だったのか単に着替えの途中だったのか、パンツ一丁の格好で片足をスウェットに突っ込んでいる真っ只中だった。

 そのままの体勢で硬直し、ぱちりぱちりと何度も瞬いてから、憂太は漸く口を開いた。


「え、っと、僕いま着替え中⋯⋯」
「チキン持ってきたよー! ケーキも! シャンパンもあるよ!」
「明太子! こんぶ!」
「うわぁ全然聞く耳もってくれない。ていうか僕たち未成年だよね⋯⋯?」


 困惑しきった表情で何とかスウェットを履ききってみせた憂太に、名前は明るく声をかける。


「昨日は大変だったけど、せっかくのクリスマスだよ!  Xmas!! 皆でパーティーしよう!」
「えっと⋯⋯」
「真希もパンダももうすぐ来るからね! あ、ちなみに悟は昨日の後処理で不参加だよ。『なんで僕だけ〜〜〜』って泣いてた、ふふ。悟だけじゃなくって、大人は皆出払ってるのにね」


 部屋主の許可など得もせずに、名前と棘は部屋をパーティー仕様に整え始めた。とはいっても元々物が少ない上に非常に整頓されていたので、テーブルの上にご馳走を並べ、急遽調達した馬鹿でかいクリスマスツリーを運び込むことくらいしかすることはなかった。

 本当に急な思い付きだったので、今日の日中に慌てて買い出しに行ったのだが、案の定店にクリスマスツリーは二つしか残っていなかった。手乗りサイズのちいさなものと、今まさに憂太の部屋をこれでもかと圧迫しているものである。

 買い出し係であった名前と棘は迷わず後者を選んだのだが、実際に部屋に置いてみるとどうだ。


「うーん、ちょっと大き過ぎたかな。これじゃあパンダが入る隙間がない」
「しゃけ」
「どうする棘。ツリーを取るかパンダを取るか」
「いくら」
「だよねぇ、やっぱりツリーは外せないよねぇ」
「ちょっとちょっと! そんな酷いこと言わないであげて!」


 慌てたふうの憂太が割り込んでくる。昨日の今日でも変わらず、憂太は優しい。


「でも憂太、クリスマスパーティーだよ? ツリーがないと⋯⋯」
「え、や、でも⋯⋯うーん困ったな⋯⋯分かった、待って! この棚廊下に出すから!」


 憂太は、すごく優しいのだ。







 すぐにパンダと真希も鍋の道具やらロシアンルーレット用のシュークリームやらジェンガやらを持って合流し、パーティーが始まった。

 最初は名前たちの勢いに圧され気味だった憂太もすぐに馴染み──諦めただけなのかもしれないが──、これが美味しい、あれも美味しい、あの巨大なプレゼントの中身は何だろう、と楽しんでくれているようだった。

 どんちゃん騒いで、騒いで、騒いで、そして。気がついたときには、一人二人と床に倒れるようにして眠りこけていた。その様正しく地獄絵図の如く、である。

 なんせあれだけ熾烈を極めた戦闘の翌日なのだ。いくら治療してもらったとはいえ、ダメージは残っている。むしろ昨日の今日でよく頑張ったと言うべきだろう。ちなみにもちろん名前も、真希の太腿を枕にして寝ていた。

 ふと目が醒めたのは、窓が開いたからだ。

 カラカラと窓が刷子を滑り、つんとした冷気が部屋に入り込む。真希を起こさぬようにゆっくりと起き上がる。身体に掛かっていた毛布が滑り落ちた。見ると、周りの皆にも毛布が掛けられている。こんなことをしてくれるのはもちろん、憂太である。

 本当に優しくて、──胸が痛い。

 窓際で空を見上げている憂太にそっと近づく。冬の空気が心地よい。部屋の明かりが落ちているから、夜空がよく見える。澄んだ星がきれいだ。


「⋯⋯オリオン座が見えるね」
「うわっ?! び、びっくりした⋯⋯ごめん、起こしちゃったんだね」
「ううん。むしろ寝ちゃってごめん。毛布ありがとう」
「ううん」


 にこりと笑った憂太の目には疲労が色濃い。そうなのだ。憂太だってまだまだ休息が必要なのだ、絶対に。それなのに。

 ⋯⋯眠れない、のだろうか。

 何と言葉を掛けようかと逡巡していると、憂太が先に口を開いた。


「今日はありがとう。皆僕のこと心配してくれたんだよね」
「⋯⋯皆でクリスマスしたかっただけだよ」
「フフ、そっか」


 窓枠に掛かった憂太の左手に、指輪が輝いている。左手の薬指。今の憂太にぴったりのサイズだ。


「プレゼント交換⋯⋯って言っても僕が買ったわけじゃないけど、包み開けるの楽しみにしてたんだ。明日皆が起きたら開けようね」
「⋯⋯うん」


 こういう時は、どうするのが正解なのだろう。名前は考える。

 憂太は、強くなった。

 きっと名前たちがこんなことをせずとも何ら問題はないのだ。憂太はいずれ、一人できちんと前に進む。

 むしろ、これは憂太と里香の問題だから、名前たちに出る幕はないのかもしれない。却って気を遣わせ、憂太の邪魔をしているだけなのかもしれない。そんな卑屈なことさえ考えてしまう。


「心配かけてごめんね。大丈夫だよ。僕には皆がいてくれるから」
「⋯⋯憂太が守ってくれたから、わたしたちは今日もここにいれるんだよ」
「うん。僕が皆にここにいてほしいから、頑張ったんだよ」
「──⋯⋯」


 ああ、どうして。自分が一番切ないだろうに、こんなに優しいのだろう。名前は唇をきゅっと結び、憂太の言葉を閉じ込めるように目を閉じる。

 ──憂太は、困るだろうか。

 もし今、名前がずっと抱いていた気持ちを渡したら、困るだろうか。

 高専に憂太が来てからというもの、毎日その成長を見てきた。彼の為人ひととなり、そしてその優しさに心を奪われた。ずっと想いを寄せていた。

 しかし憂太には、里香がいた。

 名前と出逢う遥か前から憂太の心には里香がいて、そしてそれは、この先も永劫変わることはない。里香の解呪が成功したら或いは、と薄汚れた考えが過ぎったこともあるが、そんなことは起こり得ない。だって憂太だ。憂太に限ってそんなことは、起こり得ない。

 それに、名前は。
 里香を好きな憂太を。里香を想い続ける憂太を、好きになったのだ。

 変わらない笑みを見せてくれる憂太を見上げ、それから睫毛を伏せる。

 里香と離れられないでいるのは、──名前のほうかもしれない。

 そんなことを思って、両手を強く握りしめた。





【黒に染まった撫子を】終

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