愛の鎖で繋ごうか

 まだ日も昇らぬ冬の早朝。唇の隙間から白い吐息を億劫そうにくゆらせる長身の男の靴音が、黎明に響く。

 曇りひとつない黒いセダンの脇に控えていた名前は、後部座席の扉を開け恭しく頭を下げた。


「おはようございます、五条さん。今日一日よろしくお願いします」


 名前の姿を認めた男、五条悟は、規則的に鳴っていた靴底の音をほんのひと時だけ乱した。


「あっれー、今日って名前だっけ? 伊地知じゃなくて?」
「伊地知先輩はちょっと、その、急病です」
「急病?」
「ちょっと、はい、病気です⋯⋯」
「ふーん残念。虐めようと思ってたのに」


 そう呟く五条の表情からは感情が読み取れない。無論、目元が布で覆われているせいである。目隠しの奥にあるはずの双眸へと視線を送りつつ、名前は胸の内で、昨夜から頭痛悪心嘔吐で寝込んでいる伊地知へと念を飛ばした。


 ──伊地知先輩、今日はわたしに任せてゆっくり休んでください⋯⋯!


 というのも、どれもこれも今日という日のせいである。 

 十二月七日。

 呪術界最強の男、生誕の日である。

 世も世なら「国民の祝日になるべきだよねぇ(五条談)」であるのだが、毎年この日には五条にこれでもかと任務が当たるのだ。五条を以てしても夜遅くまでかかる任務量であり、完全に五条を快く思わぬ上層部の嫌がらせであること明白である。

 そしてこの日には何故か必ず伊地知が五条の担当であり、誕生日が任務で丸潰れで不機嫌どころではない五条から極まりない理不尽を与えられ、命からがら生還する。

 という光景を、名前は毎年見てきた。伊地知があまりにもボロボロで帰ってくるので、呪霊に襲われでもしたのかと心配になってしまうのだが、毎年犯人は五条なのである。

 そして今年ついに、伊地知の身体が悲鳴を上げたのだ。

 後部座席にその長いお御足を窮屈そうに収めた五条は、発車前から既にフルスロットルであった。


「ねー名前、僕朝ご飯まだなんだよね。なんせこんな早朝から任務だからさー。なんかちょーだい」
「はい。和洋揃えてますがどんな気分ですか? あ、時間がないので車中でお願いしますね」
「やだ。美味しいカフェ寄ってよ」
「ごめんなさい。寄りたいのは山々なんですが、なんせ早朝でお店がやってないんです」
「そんなのなんとかしてよ。じゃなきゃ僕頑張れないもーん」
「な、なんとかって⋯⋯?」
「知らなーい、なんとかするのは名前だもん。あ、着くまで待てないから甘いカフェオレとフルーツサンドちょーだいね」
「あ、それならありますよ! イチゴとバナナとオレンジ、どれがいいですか?」
「マスカット」
「⋯⋯はい」


 出発前に名前の魂が抜けてしまいそうだ。

 昨夜、急遽伊地知のピンチヒッターに任命されてからというもの、夜を徹して準備をしてきたが、この時点で五条のほうが何枚も上手である。

 しかしそうも言っていられない。五条がきちんと任務を遂行してくれるようサポートするのが補助監督としての仕事であり、腕の見せ所である。今日の五条にご満足いただけるエスコートが出来るのであれば、一国の主くらいはおもてなしできるスキルがあると言っても過言ではない。そのくらいの気持ちでなければやっていけない。


「⋯⋯時間がないので取り敢えず出発しますね。わたしのオススメはイチゴです」
「マスカットって言ったじゃん」
「んぐう⋯⋯」


 踏みつぶされたような声を出しながら、ゆっくりとアクセルを踏む。
 
 結局イチゴのフルーツサンドを頬張っているらしい五条をバックミラー越しに窺う。「うんまっ、何これどこの? 僕も今度買いに行こーっと」と綻んだ口元を見て、静かに安堵の息を落とす。

 遠くの空が、微かに白み始めていた。





 名前は、五条に心酔している。

 理由はひとつ。

 かつて五条に、その命を救われたからだ。

 あれは数年前。名前が補助監督として臨んだ最初の任務での事だった。先輩補助監督の指導の元、十分に安全策を講じて呪術師のサポートを行っていたのだが、呪霊が想定よりも強く、戦闘に巻き込まれてしまったのだ。このとき戦っていた呪術師は、呪術師には戻れぬほどの重症を負い、先輩補助監督は名前を庇い右手首から先を失った。

 それでも全員が生き延びることが出来たのは、助けに来てくれた五条のお陰に他ならない。

 飛び散る血飛沫と、聞き取れないノイズのような周囲の音。地獄があるのならこんな感じだろうか。そう思った世界の中で見た五条の背中に、名前は誓いのように思ったのだ。

 いつかこの世界で死ぬのなら、この人のために死にたい、と。

 



「ねえ名前、今日なんの日か知ってる?」
「ええ、存じております。国際民間航空デーですよね。エンジンかけた時に車のナビが教えてくれました」
「マジブッコロ」
「ゔっ」


 ハンドルを握る名前の脳天に、五条の手刀が炸裂する。涙の滲んだ目を何度もしばたきながら、名前は心の中で五条へと詫び、それから高専へと思いを馳せる。

 恐らく今頃高専では、虎杖たちが五条の生誕を祝うパーティーの準備をしている。彼らは何日も前から準備をしており、名前も買い出しを手伝ったり、ケーキの手配などをした。

 本当は今朝、五条の姿を見たその瞬間に祝福の言葉をかけたかった。だが、その後の対応を上手く出来る自信がなく、言えなかったのだ。五条のあの瞳に映されながら「ありがとー。ねぇところでプレゼントは?」と問われれば、名前はきっと、「えっとその⋯⋯実は夜にご用意が⋯⋯」と言ってしまう。

 あの目に、弱いのだ。

 すべてを見透かされている気がして。心のうちまでもが丸裸にされてしまっているようで。
 
 だから今夜、すべての任務を終え高専に戻った五条を、虎杖たちが迎えてくれるその時に。一緒に祝おうと決めている。故に、今日は何がなんでも絶対に日付を跨ぐ前に帰ってみせるのだ。





「ちょっと五条さん早くー! 早く終わらせてーー!」
「何、そんな急いで。まだ任務あったっけ?」
「ないですないです、これで終わり! だから早くー!」
「? もーいーじゃん、これで終わりなら」
「でも一刻も早く任務から解放されたいじゃないですか!」
「えー、それ、僕と早く離れたいってこと?」
「んん全然違います⋯⋯」
 

 呑気に呪霊をいたぶっている五条に、名前はがっくりと項垂れる。こりゃあ駄目だ。そう思いかけるが、すぐに虎杖たちの顔が浮かび、名前が諦めるわけにいかないと思い直す。五条を幾度もせっついてなんとか車に押し込む。

 シートベルトを締めつつエンジンをかけ、片手でシフトレバーを下げながらもう片手でスマホを操作する。
 
 タタタ、と液晶の上を指先が物凄い速さで駆け抜ける。虎杖に【ごめーん! やっぱり間に合わないかもーーー!】とメッセージを放り投げ、膝の上に機械を乗せると同時にブレーキから足を離し、アクセルを踏む。

 キキキィと急発進した車は、数分で市街を抜け、どこぞの山道へと差し掛かる。なんで最後の任務地が高専からこんなに離れてるの、とか、どうして車で山越えしなきゃならないの、特級呪術師の移送なんだからヘリでも飛ばしてよね、とか。ぶつくさ思っていたその時、ピコリとメッセージの返信。名前は一瞬だけ視線をずらし、その内容を確認した。
 
 
【うあーやっぱりかー。まあそうだよな、あの任務量だし。けど仕方ない事だからさ、気をつけて帰ってきてな。こっちは何時でもダイジョーブだから】
「⋯⋯」


 健気に尻尾を振って帰りを待っている姿を想像し、ぐんと車が加速する。蛇行する山道を頭○字Dかと見紛う車捌きで走り抜ける名前の耳に、「ハハッ、名前ってこんなテク持ってたんだ」と五条の呑気な声が入る。


「持ってませんそんなの! 必死なんですから話しかけないで下さい!」
「さっきから何をそんなに急いでるのか知らないけどさー、まぁ事故っても僕は死なないし。着くまで何か話そうよ」
「わたしは死ぬんです⋯⋯!」


 五条悟は、交通事故では死なない。だが名前は、交通事故でも死ぬ。それはこの世に生を受けた時からの不変の真理なのだ。しかし、そんな真理に従うわけにもいかない。あのとき失っていたはずの命。この命は五条のために散らすのだと、心に固く誓っている。

 ──酔狂、かもしれない。

 この気持ちはもしかすると、紙一重なのかもしれない。環境や条件が少しでも違えば、狂気とさえなったかもしれない想い。
 
 しかし、それでいい。それでいいのだ。

 そんな名前の心中など知らぬ五条は、名前の言葉に口を尖らせた。
 

「あ、心外だな。僕が一緒にいるんだから、名前だって死ぬわけないじゃん。まるで僕が名前を助けないみたいに言わないでよ」
「えっ、あ、そういうつもりではなかったんですが⋯⋯ごめんなさい」


 少し食い違ってしまっていた意図を理解し、運転席で小さく頭を下げる。

 そんな寂しそうに言わなくても、五条が名前を、仲間を、無条件に助けてくれることなど知っている。だってあの日だって。そうして名前を助けてくれたではないか。そうして名前の心を、奪ったではないか。

 
「ハハッ、名前って真面目だよね。ただの意地悪にそんな真面目に返さなくていいよ」
「ええ⋯⋯何ですかそれ⋯⋯」


 呆れた表情でバックミラーを見る。対角線上に座り、窓の外に顔を向け座っている五条が映っている。その五条が、やおら口を開く。


「ねぇ名前。いま何時?」
「えっと⋯⋯二十三時四十五分です」
「そう。じゃあまだ間に合うね。あ、名前。ここで停めて」
「承知しました⋯⋯⋯⋯って、え?」


 五条からの注文に脊髄反射で首肯してから、遅れてその意味を理解し、焦って聞き返す。

 
「だから、ここで停めてって」
「えっ?! ここですか?! すっごい山道ですよ?! 何もないですよ?!」
「いいから。停めろって」
「はい⋯⋯」


 有無を言わさぬその圧力に抗えるはずもなく、路肩に車を寄せる。車が停まる。ガチャリとドアを開け、五条が降りる。

 こんな山中で、一体何を。

 五条の動向を見守っていると、運転席側に回ってきた五条が、窓をコンコンと叩いた。


「何してるの、名前も降りて」
「えっ?」
「ほら早く」
「ま、待って下さ、きゃ」


 ドアを開けられ、シートベルトも外され、ひょいっと車外に連れ出される。

 途端、冬の風が吹き付ける。寒い。生き物の気配もなければ街灯ひとつもない、正真正銘の山道だ。その暗闇と翳りに、自然と足が竦んでしまう。しかも背の低いガードレールしかない崖に向かって手を引かれるものだから、名前はいよいよ顔を青くした。
 

「ご、ごめんなさい五条さん! 何か気に触ることをしてしまったなら、このわたくしめのちっぽけな一生を懸けて償わせて頂きます故、どうかこんなかたちで命を失うことだけはご勘弁を⋯⋯!」


 土下座をする勢いで頭を下げると、振り返った五条が「は?」と口を開けた。

 
「何言ってんの? 僕傷付くんだけど」
「⋯⋯? この崖からわたしのこと突き落とすんじゃないんですか⋯⋯? あいたっ」


 脳天に再び手刀が突き刺さっていた。結構どころか非常に痛い。両手で頭頂を押さえながら、涙目で五条を見上げる。


「何が楽しくて自分が助けた命を奪うんだよ」
「え⋯⋯じゃあなんでこんな場所⋯⋯」


 あの日、名前を助けてくれたことを、五条は覚えてくれているのか。それを知るだけで、心がきゅうっと音を立てる。

 その切なさを隠すようにして真意を問うと、崖の縁で手招く五条が遥か向こうを指さした。


「見て、ほら」
「──⋯⋯うわ、あ」


 目の前に広がる景色に、名前は感嘆の息を漏らした。

 山間に開けた空間。深い暗闇の中に、遠くの街で煌めく光の粒が瞬いている。橙や白、時折三原色のネオンが混ざり揺らめくそれは、あまりにもまばゆい。まるで、闇ばかりのこの世界の中で、掻き集めた僅かな光を詰め込んだようだ。


「⋯⋯すごくきれい」
 

 無意識にぽつりと零す。
 
 運転に集中するあまりまったく気が付かなかった。山頂にほど近いこの場所からはどうやら、市街が一望できるらしい。こんな夜景は、初めて見た。

 風の音以外何も聞こえない。一緒にいる時はいつも良く喋る五条も、何も喋らない。名前の胸の中で、とくりとくりと心臓だけが音を立て、動いている。

 こんな景色を、五条と二人。隣で見られるなんて。不意に日常から隔絶されたことで、普段隠している想いが溢れてしまいそうだ。


 ──五条さん。好きです。大好きです。わたしの命、あなたのために使ってください。


 なんて。誕生日の祝いの台詞には重た過ぎる。

 出かかった想いを飲み込んで、名前は半歩だけ、五条に近付く。


「⋯⋯寒いですね」
「そーだね」

 
 五条の誕生日、一日中傍にいられて幸せだった。今日の主役は五条であるのに、しかも名前が嘘を上手くつけないせいでまだ誰からも祝福されていないというのに、名前だけが一人勝手に幸せな心地に陥っている。随分と身勝手だ。

 早く祝いたい。五条にとって名前や虎杖たちがどのような存在なのかは本人のみが知るところであるが、名前たちにとって五条は、とても大切な人なのだと。皆で五条に知らしめたい。

 けれど、今だけ。少しだけ。

 五条の隣を独り占めしても許されるだろうか。あと数分だけ。この時間を噛み締めても許されるだろうか。そんなことを思う名前の視線の先で、散らばった光が瞬いている。





 隣に佇む鈍感な補助監督を、五条は愛おしさ半分、呆れ半分で見下ろしていた。

 何故、気付かないのだろう。

 五条はこんなにも、名前への好意を振り撒いているというのに。

 今朝、担当が名前に変わったと知ったその瞬間、五条は決めた。今日一日は、名前を独り占めしてやろうと。

 名前が何事かを急いでいるのは初めから気付いていた。が、名前の言う通りに任務を熟していては、一日の終わりが随分と早くに訪れてしまう。たいしたスケジューリングだと感心したが、素直に感心したまま終わる五条ではない。今日は名前を連れ回して、一日デート気分を味わうのだから。

 そうして任務の途中途中で目ぼしい場所が目につき次第、ご飯はここで食べよう、このお店入ろう、アイス食べよう、ゲームセンター行きたい、ねぇあっちも見ちゃだめ? 云々と散々我儘を言ってのけた。

 そのたびに「次の任務が」と難渋を示す名前の腕を引き、一方的に恋人気分を味わった。

 きっと名前は、今日が五条の誕生日だということを知っている。挙動や言動の端々に垣間見える不自然さが、それを示唆していた。ということは今夜、五条のために何かを企ててくれているのかもしれないと予想はついたのだが、そしてその想いを決して無駄にはしたくないのだが、如何せん名前と二人で過ごす時間を手放すことができなかったのだ。

 いつの任務だったか。名前が言っていた。「五条さんに救われたこの命、五条さんのために使って死ねるのなら本望です」と。その台詞を聞いて、五条は気付いたのだ。その言葉の裏に隠された恋慕と、狂信にも似た覚悟。

 ──名前は、僕のものだ。

 その瞬間に芽生えたのは、異質な独占欲。それを自覚して初めて、五条は自分の気持ちに気が付いた。

 とうに名前を、好きになっていたのだと。

 その時すぐにでも名前を欲しても良かったのだが、お互い別々の長期出張が入ったり何だりと忙しく、実は今日顔を合わせたのだって二ヶ月ぶりのことだった。

 だから誕生日という今日この日に、名前に会えたこと自体が、五条にとっては非常に喜ばしい事だった。天の采配──否、伊地知の采配?──に感謝をしつつ、思う。そろそろ、この真面目で鈍感で忠誠的な補助監督を、捕まえようと。“五条のため”との理由でどこかで野垂れ死なれる前に、五条の手で囲ってしまうのだ。

 何せ今日は誕生日だから。欲しいもののひとつくらいは強請っても、許されるだろう。

 ゆっくりと手を伸ばし、寒風に煽られ赤く染まった頬に指先を添える。


「名前。僕ねぇ、欲しいものがあるんだけど」
「はい、何でしょう。わたしでご用意できるものなら何なりと」
「──名前の命」


 ちいさく息を吸ったあと、短く呟かれた言葉。その言葉が名前の耳に届くまで、随分と時間を食ったように思う。

 長い沈黙を挟んでから、名前は目を丸くして五条を見つめる。

 
「僕のために、死んでくれるんでしょ」
「⋯⋯ええ、もちろん。そのためなら何だってします」
「じゃあそれは、僕のために生きると同義だ。僕の隣で息をして、僕の腕の中で心臓を動かして、いつか来るその日まで、僕の愛の中で生きる」


 頬に触れていた手で、名前を引き寄せる。

 
「そうして僕の傍で、死ぬまで生きて」
「⋯⋯っ」


 “好き”という言葉で名前を繋ぎ止められない自分も大概、どうかしているのかもしれない。しかし、この世界の中で。どうかしていない人間など存在しない。

 堪らず抱き締めた名前の身体。腕に収まったその体躯は、微かに震えている。


「返事は?」
「──⋯⋯いつまでも。仰せのままに」
「うん」


 遠く視界の隅で、光が煌めく。静寂が驚くほど心地よい。寒かったはずの風に、冷たさを感じない。名前の体温があたたかいせいだ。
 
 さて、何かいい雰囲気だしこのままホテルでも行っちゃおうかな、と五条が考えたその刹那、「さ、それでは早く車にお戻り下さい。飛ばしますから」と素晴らしい切り替えの早さを見せた名前に、五条は「ちょっとー、そんな派手に雰囲気ぶち壊さないでくれる?」と笑うのだった。

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