刃と呼ぶにはあまりにも

 高級ホテルのスイートルームを物色しながら、名前は「うわー、この部屋が経費で落ちるの?」と口にしていた。


「まぁね、ほら僕特級だから?」
「えー、いーなー」
「名前は違ったんだ」
「うん、普通の部屋だった」


 数分前、荷物を置きに行った自分の部屋を思い返し名前は溜め息をつく。
 

「ほんと、この業界も意地悪っていうか嫌味っていうか、同じ任務で同じ土地のホテルに泊まるのにさ、こんなふうにあからさまな差付けなくてもよくない?」
「まぁね、でもほら僕だから? 気持ちよく過ごすには言った者勝ち的な、ね」


 この五条の言葉を聞き、名前はすぐに今回の任務の諸々を手配をしてくれた伊地知──そういえば出発前に「すみません苗字さん、お部屋はこれが限界で⋯⋯」と謝られていた。事情を知らなかった名前は「? うん、行ってくるね。明日のお迎えよろしくね」と返していた──に労いの念を送った。「特級だから」とか「最強だから」とかではなく、「五条悟の我儘だから」が正しいのだ。

 しかしそれはそれ、これはこれ、である。こんなスイートにお目に掛かれることもそうないので、ここぞとばかりに部屋を探検、もとい物色する。

 そんな名前の背中に向かって、五条が呼びかけた。
  

「ねー、名前」
「ん?」
「招き入れてから聞くのも今更だけどさぁ、密室に男と二人きりなんていーの?」
「あっはっは」


 思わぬ五条の言葉に盛大に笑ってから、名前は笑みの余韻が残る表情のまま答える。

 
「ぜーんぜん。問題ないよ」
「一応聞くけど、どーして? 僕だって男なんだよ?」
「だってわたし、悟がそんな人間じゃないこと知ってるもん」
「──⋯⋯」


 おちゃらけた表情のまま、五条は束の間、言葉に詰まった。
 
 名前の言葉はいつもこうだ。
 
 特別感も何も醸し出さない、本当に些細な日常の会話とまるで変わらない口調で、悟にとっての特別をこれでもかと与えてくる。

 いつも、こうだ。

 身構えも心構えも許されない。不覚とはこういうことをいうのだと身を持って思い知らされる。あまりにも無防備な状態で与えられるそれは、もはや凶器と呼んでも過言ではない。

 名前の言葉に刺された胸からはいつも、じくりと生暖かなものが流れ出る。それは恐らく心と名前がつくもので、気が付いた時には五条の胸をいっぱいに湿らせているのだ。

 
「──あ、豆挽く機械ある!」


 そんな五条には気付かず名前は楽しそうに室内の巡回を続けていて、その途中でコーヒーミルを見つけたようだった。
 

「ちょうどお茶の時間だし、使ってみてもいい? 初めてなの」


 



 
 ガリガリと粗い低音が響く。珈琲の香りが部屋に立ち籠める。楽しそうにレバーを回す名前の様子を、五条はソファに凭れながらゆったりと見ていた。

 どちらも話さない。珈琲豆が砕ける音だけが満ちる、短くも穏やかな時間だった。

 たまに、こんな時間がずっと続けばいいのにと思うことがある。争いなんてなくなって。最強の名も捨てて。ただの一人の人間として、名前の隣で時を過ごす。そんな時間が。


「⋯⋯⋯⋯」
「どーしたの、ぼーっとして。はい、どーぞ」
「あれ、早いね」
「そう? 初めてだから大分もたついちゃったけど」


 気付けば目の前の机には湯気の立ち上るカップがふたつ。そして不思議そうに首を傾げる名前が、横から顔を覗き込んでいた。五条は「考え事してただけだよ」とあしらって、角砂糖へと手を伸ばす。名前も隣に腰を下ろし、コーヒーミルクを加えようとしたところで──「え?」と目を見開いた。


「えっ、ちょっと、そんなに入れたら⋯⋯」
 

 五条のカップで、ぼちゃりぼちゃりと液面が跳ねている。次々と止めどなく投入されていく角砂糖を、名前は呆然と見送る。そして途中で我に返ったように「⋯⋯あ、そっか、いいのか」と呟き、五条を見上げて笑った。
 

「ふふ、びっくりした、一瞬狂っちゃったのかと思っちゃった」
「はい、怒んないからもう一遍言ってみ?」
「? 『狂っちゃったのかと思っちゃった』?」
「アハ、誰が狂ってるって?」
「あはは、怒るんじゃん。怒んないって言ったのに。だってこんなにお砂糖入れてるの見たら誰だって狂ったのかと思うよー」


 止まっていた手を動かして、名前は今度こそコーヒーミルクを注いだ。とぽりと小さな音が鳴って、液面がやわらかな色に変わっていく。

 
「でもそうだったね、悟はそうやって脳を補完してるんだった。棋士がケーキ食べるみたいなね」


 いつか聞いた話を思い出し一人納得した名前は、「では、いただきます」とカップに手を伸ばす。カチャリと鳴った音は軽い。柔らかそうな唇をカップの縁に押し当てて、名前は一口こくりと飲み込んだ。

 その一部始終を、黒布に隠れた五条の視線が追っている。

 それに気付いているのかいないのか、名前は一瞬だけ五条を流し見して、それから徐ろに口を開く。
 
  
「⋯⋯ねぇ、悟ってコーヒーに明るかったりする?」
「いや、別にー」
「そうだよねぇ。わたしも全然。ね、悟も飲んでみてよ。豆挽いて丁寧に淹れてみたわけだけど、何か違いわかる?」


 促され、五条もカップに口をつける。角砂糖を幾つも飲み込んだ液体が黒黒と揺れ、五条の口内に流れ込む。一度喉を上下させてから、五条は唸ってみせた。

 
「うーん、正直あんまりわかんないかな」


 五条の言葉を受け「わたしも」と肩を揺らした名前の隣で、五条はもう一口飲み下した。


「でも、美味しいよ」


 そう笑った五条の横顔を、名前がじいっと見上げている。
 
 
「違いの分かる分からないを聞いておいてあれだけど⋯⋯そもそもそんなにお砂糖入れててお砂糖以外の味ってするの? お砂糖の飽和溶液じゃん」
「ハハ、するする」
「ほんとかなぁ⋯⋯試しに一口飲んでみたいけど、甘さで喉も胸もやられちゃいそう⋯⋯」


 その場面を想像したのだろう、名前は喉のあたりを掻きむしるような動きをして「きぃーっ、甘い、凭れる!」などと騒いでいる。五条は「何馬鹿なことしてんの」と呆れてから、長い脚を組み背凭れに凭れ掛かる。

 
「まぁ僕くらいの甘党になると、強い甘味の中の旨味がわかるんだよね」
「⋯⋯はい?」
「ほら、パンピーには辛すぎて痛みしか感じないような激辛料理でも、味わって食べれる人間がいるだろ? そんな感じ」
「えっと⋯⋯何の話?」


 くりんとまあるく目を見開いて、名前は五条を見上げる。ぽけっとしたその表情を、五条は指先で小突いた。

 
「ハハッ、阿呆ヅラ」
「なんですって」


 唇を尖らせた名前の後頭部を宥めるように──恐らく無意識に──ぽんぽんと撫でて、五条は「つまり、」と口を開く。 

 
「──美味しいよ、本当に。ってこと。ありがとね」
「⋯⋯そう? それならよかった」

 
 名前の気のせいかもしれない。いつもと同じ声音なはずなのに、僅かにだけ哀愁を含んだような五条の呟きが、妙に記憶に残った。





【刃と呼ぶにはあまりにも】終

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