惑わされて、夏
 夏、は、わたしたちにとって特別なものだ。
 夢の舞台、甲子園。ただそこに届きたくて、たった一度の青春を捧げている。毎日汗と土に塗れて。朝から晩まで。

 だから、野球と関わっていない同年代の女の子たちが夏をどんなふうに過ごしているのか、わたしは知らなかった。





 一学期も終わりが近いある日のこと。
 朝練を終え教室に入ると、入り口に近い席で固まっていた女の子五、六人が顔を上げた。


「おはよー名前ちゃん」
「おはよー。皆集まってどうしたの?」
「これこれ!」
「? どれどれ?」


 輪の中心にある机の上。広げられていた雑誌を示され、覗き込む。


「もうすぐ夏休みでしょ? 今年はどんな水着がいいかなーって話してたの。彼氏とでもよし、友達とでもよし!」
「みずぎ⋯⋯?」


 みずぎ、という音と、水着、という漢字が結びつくまでに絶妙な間を要してしまった。


「あはっ、やだ、名前ちゃん。水着なんて初めて聞きました、みたいな返事しないでよ」
「ふふ、ごめん、久しぶりで」


 水着なんて。最後に着たのはいつだろう。小学六年生のプール授業だろうか。

 誌面に視線を落とす。ファッション誌の水着特集と思しきそのページでは、たいそう露出の多い水着を身に着けたモデルたちが、弾けるような笑顔で並んでいた。


「わ、皆こんなの着るの?」
「えー、普通だよ? ねえ?」


 同意を求められた先で、数人がうんうんと頷いている。そ、そうなのか。今時はこれが普通なのか。そんな中年のおじさんみたいなことを考える。


「わたしスクール水着しか着たことないから⋯⋯」
「えー、もったいない! 名前ちゃん絶対似合うよー」
「ほらこれとか」
「ひえ」


 胸とお尻しか覆ってくれない水着が目に飛び込んできて、喉の奥から変な声が漏れる。こんな姿で人様の前になど、とても出られそうもない。


「うーん、でも、ビキニなんて着せたら怒っちゃうタイプかなあ、名前ちゃんの彼氏」
「えっ?!」


 突然登場した一也くんの存在に目を丸くする。しかしそんなわたしには目もくれず、「きゃ! そんな嫉妬もいい!」などと頬を覆っている子までいて、わたしは困って眉を下げる。


「あの、ほらわたし、夏は部活が忙しくてプールとか海とかは行けないんだ。まあ夏も冬もないんだけど」
「あっ、そうだった、名前ちゃん野球部じゃん⋯⋯けど見るだけならタダだよ! 気分だけでも!」
「そ、っか⋯⋯?」


 そんなふうに言われてしまうと、それも悪くはない気がしてくるから不思議だ。


「そーそー。あ、これとかいーじゃん、完全なるビキニじゃないけど出るとこ出てるし、エロいし」
「エロっ⋯⋯?!」
「名前ちゃんならこっちもいいよねー。こんなの見たら男はかぶりつきそう。名前ちゃんの彼氏はどっち好きそう? 結構えっちな人?」
「えっ、ち⋯⋯?!」


 見る間に真っ赤になったわたしを見て、皆の口角が上がっていく。もしかすると、何かしらのいわゆる“えっち”なエピソードが出てくることを期待されているのかもしれないけれど、そのご期待には到底沿えそうにない。

 ていうか、こんな、こんなの。一体どんな反応が正解なんですか。


「あの、ごめん、わたし、あんまりこういう話慣れてなくて⋯⋯」
「ううん、いいの、いいの、むしろごめん、なんか浄化されてくわ⋯⋯」


 限界まで赤く染まった頬。それを見兼ねた隣にいた子が、ノートで扇いでくれる。

 ふわりと香る。夏の匂いだ。
 さっきまでグラウンドにいたのに。野球に触れていたのに。

 もう、恋しい。

 ノートから生み出される風にはためき、ページが一枚捲れる。そのページはデートのシーンを模した構造になっていて、メンズモデルも一緒に写っていた。


「そういえば名前ちゃんの彼氏ってさ、ちらっと見たことしかないけどイケメンじゃん? 身体もめっちゃ鍛えてるんだろうし、水着着たらやばそーだね」


 その一言に、わたしの脳内で何かがスタートを切った。水辺で水着を纏う一也くんの姿が、脳裏を駆け巡る。

 割れた腹筋。おおきな背中に太い二の腕。引き締まった下腿。惜しげもなく素肌を晒して、サングラスをかけて。


「⋯⋯一也くんのサングラス⋯⋯いいな⋯⋯」
「おーい名前ちゃーん、サングラスもかっこいいんだろうけど、そろそろこっちの世界に戻っておいでー」
「⋯⋯は、ごめん、わたし」
「ううん、いいの、いいの、名前ちゃんはそのままでいて」


 そんなこんなでもうそろそろ朝のホームルームの時間になるかと思われた、その時だった。


「名前ー、忘れもん」
「「「きゃあ!!!」」」


 ──一也くんだった。

 先程わたしが入ってきた入り口から、一也くんがひょこりと顔を出していた。

 噂をすればなんとやら。突然のご本人の登場に、わたしたちは悲鳴に近い声を上げて飛び上がった。

 何故かばさばさと雑誌を隠す友人。何かを取り繕おうとしたのか、「おはようございます! わたしたち名前ちゃんのクラスメイトです!」と見ればわかる謎の自己紹介を始める友人。「うわ、近くで見るとかっこいー」と暢気に一也くんを見上げる友人。

 一言で言えばカオスのこの状況に、一也くんは面食らった──と言うよりもはや若干ひいた──様子で、「な⋯⋯何だ?」と口にした。無意識なのか、身体が半歩分下がっている。


「ううん! 何でもない!」
「? そうか⋯⋯?」
「うん! 何でもないの!」


 あせあせ、わたわた、しどろもどろ。
 なんとかこの場を切り抜けようと務めるわたしの顔を、何かに気が付いた素振りを見せた一也くんが、覗き込む。


「あれ。お前なんか顔赤いぞ。もしかして朝練のときから体調悪かったか?」
「えっ、ううん、これは」
「お前はすーぐ無理するからな。自己申告は信じねぇぞ」


 瞬きほどの出来事だった。

 すっ、と彼の手が伸びてきて。ぺたりと額に密着する。「んー、熱はねぇか」なんて斜め上へと視線を向けながら呟くその姿に、周囲の女の子たちから黄色い声が上がる。


「「「きゃあ!!!」」」
「うお、だから何だよ⋯⋯?」


 彼女たちの声に、一也くんの身体がびくりと強張る。再度半歩分下がってから、困惑を含んだ問うような視線が向けられる。

 とはいえそんな目で見られても、わたしだって急に皆の前で触られて困惑してるんです。と、今しがた彼が触れた額に指先を添え、俯く。


「いっ、今のは一也くんが自分で招いたんじゃ⋯⋯」
「は?」


 一也くんの中ではあくまでも「体調確認」にカテゴライズされていたのだろう。まるで意味がわからない、といった顔で首を傾げている。

 ──そうだ。そういえば。思い返せば以前捻挫したときなんかも、人目も憚らす米俵のように担がれたっけ。

 と、少し昔を懐かしむわたしの耳に、「いいなー名前ちゃん」なんて声が入る。恥ずかしさが極まったわたしは、それを隠すように勢い良く問う。


「ところで一也くん! ご用件は!」
「ああ、そうだった。これ部室に忘れてたぞ。授業で使うだろ」
「わたしの筆箱! そっか、あのとき仕舞うの忘れて⋯⋯ありがとう! 助かった!」
「おう⋯⋯てか何だよそのテンション」
「いいの! ちがうの!」
「はあ?」
「あ! もうすぐチャイム鳴るよ! 戻んなきゃ! わざわざありがとね!」


 釈然としていなさそうな彼を送り出そうとしたその時、彼が「あ、」と口を開く。


「そーだ名前。こっちも忘れてた」
「ん?」
「これ、この間食いたがってただろ。期間限定だっつって。朝練のあと購買でたまたま見かけたから、つい買っちまった」
「え⋯⋯ありがとう⋯⋯」
「ん。じゃーまた後でな」
「うん⋯⋯」


 手のひらにちょこんと乗せられたのは、期間限定のチョコレート菓子だった。自分では食べないのに、覚えててくれたんだ。

 ほっこりとお菓子を見下ろすわたしの周りでは、クラスメイトが思い思いに呟いていた。


「おやつで大人しくなった⋯⋯か、可愛い⋯⋯」
「わたしこのカップル一生推す⋯⋯」
「あたしも⋯⋯」





◇惑わされて、夏◆

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