なぜ窓辺に寄ったのかは覚えていない。
ただ、不意に窓の外から聞こえてきた声に誘われ、校庭を見下ろしていた。
昼休みだった。
「おう御幸。何見てんだ?」
「ああ、倉持か。ほら、あそこ」
「?」
俺の差した先へ、倉持の視線が動く。
「何だアレ? 大玉⋯⋯?」
「ほらあれだろ、来週の体育祭の」
「ああ、大玉転がしの練習⋯⋯か?」
「多分な」
「練習とか要んのか? ただ転がすだけなのによ」
「いやー、やるのが俺らなら一秒の練習もいらねぇけどな。女子はいるんじゃね? 知らねぇけど」
「ふーん」
女子ねぇ、と呟きながら倉持はその様子を見下ろす。そのうち何かに気が付いた素振りで少しだけ身を乗り出してから、「やっぱそうだ。名前ちゃん見っけ」と言いながら俺を見遣った。
「んだよ、誤魔化しやがって。名前ちゃん見てただけじゃねーか」
「⋯⋯そーだよ悪りぃかよ」
呆気なくバレてしまい、開き直って答える。対する倉持の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいて、一体どんな言葉で揶揄われるのだろうと咄嗟に身構えてしまった。
「⋯⋯何だよ」
「いや、あっちで女子達が噂してんぞ。『御幸くんのあんな優しい顔初めて見たから何見てるのか聞いてきて倉持!』つって。ヒャハハ!」
「は⋯⋯はぁ?」
「俺も気になったから来てみたら名前ちゃんね、そーかそーか」
「⋯⋯何か腹立つなその顔。てか言いふらすんじゃねぇぞ?!」
つーかどんな顔してたんだ俺。
公衆の面前に如何に恥ずかしい顔を晒していたのかと思いを巡らせ、大きな溜め息を溢す。
「そういや御幸は何出んだっけ? 体育祭」
「あー、俺は──」
名前が大玉と戯れているところを眺めながら、取り留めのない話題へと逸れていくかと思われた、その瞬間だった。
「「げ!」」
俺と倉持。両者の声がぴたりと揃う。目の前で起こった間抜けな出来事が俄には信じられなかった。
名前が、──大玉に轢かれたのだ。
その光景に、俺も倉持も面食らう。
どうやら名前は突然思いもしない方向から勢い良く転がってきた大玉を前に避けるどころか硬直してしまったようで、大玉と盛大に衝突し、その衝撃をモロに受け、そうして真後ろに飛ばされて、そのまま地面に落ちた。
離れてはいるが、見間違いではないと思う。⋯⋯後頭部から、いったよな。
「あー、ありゃあ⋯⋯キマったな。行ってこい御幸」
「あんのバカ⋯⋯」
倉持に言われるまでもなく、既に踵を返していた。
◇
「名前ちゃんー! 避けてーーー!」
「ん?」
声の方向に顔を向ける。
次の瞬間には、ばいん、と弾かれた音がした。
何がって、わたしの身体が、だ。
その一瞬あとに今度はゴン、と後頭部に強い痛みが走る。痛い、を認識するのと同時に、「あれ、なんだか、目の前が──」と朧気に思ったところまでは、覚えている。
束の間、どこか真っ暗な空間を彷徨うような心地。何だっけ。何をしてたんだっけ。考えられない。このまま暗闇に浮かんでいたい。
そうして揺蕩っているその最中、「名前ちゃん!」と焦ったようにわたしを呼ぶ声がした。その声に触発されたように思考が手元に戻ってきた感覚。それと同時に、目の前に大玉が迫ってくる映像が浮んで、わたしは血相を変えてぱっと目を見開いた。慌てて防御の態勢を取ろうと身体の前で両手を伸ばす。
「はっ! 避けないと!」
「いや、もう轢かれたよ名前ちゃん⋯⋯」
「え⋯⋯そっかごめん⋯⋯?」
幾人ものクラスメイトが心配そうにわたしを覗き込んでいて、いまいち現状を把握できぬまま取り敢えず謝ってみる。
上から覗き込まれている、ということは。わたしは今寝ている状態なのだろう。加えて“轢かれた”という表現と、目の前に差し迫った大玉の映像と、頭痛と、目眩のように覚束ない自分の身体の感覚と。
なるほどどうやら、轢かれた、以外に表現の仕様がない。
「ねえ大丈夫⋯⋯? 頭すっごい打ってたけど⋯⋯」
「うん、立て、る⋯⋯いや、ない⋯⋯立てないね⋯⋯どうしちゃったんだろう」
差し出してくれた友人の手を握りながら起き上がろうと試みてみるけれど、上手く力が入らない。ぐにゃりと視界が揺れてしまう。気持ち悪い。
再度頭を地に付け、ひとつ息を付く。「私先生呼んでくるね」と走り出しそうな姿を認め、「少し休めば大丈夫! みんなごめんね、大丈夫だから」と言おうとした、その時だった。
ふっと視界に影が差して。太陽を背負った誰かに、改めて顔を覗き込まれる。逆光で輪郭が淡く光り浮かび上がっている。眩しくないのに、何だか眩しい。
「脳震盪だバカ。ちょっと意識も飛んだんだろ?」
「⋯⋯⋯⋯か、」
その声に驚き、咄嗟に上体を持ち上げようとする。しかしそれを物の見事に制される。見事過ぎて頭は僅か一センチ程度しか持ち上がらなかった。
「こら、無理に動くなって。保健室運んでってやるから」
「⋯⋯か⋯⋯一也、くん?」
ここにいるはずのない姿に、目をまんまるくして彼を見上げる。
一也くんは、昼休みに友達と校庭でサッカーとかして遊ぶようなタイプではないし。昼食を食べ終えたらもっちー先輩と話すか、スコアブック見るか、部活のこと考えてるか。大抵はそのどれかだ。兎にも角にも、偶然ここに居合わせたわけではないということだけが確かだった。
「なんで、一也くんが⋯⋯」
「たまたま見てたんだよ、お前がひっくり返るとこ。倉持と」
「やだ、もっちー先輩まで」
「んなことより、どっちがいい? おんぶとお姫様抱っこ」
「⋯⋯は⋯⋯え?」
「? 何だよ、選ばせてやってんじゃん」
「いや⋯⋯あの、なにがどっちって?」
「とぼけてると横抱きにするぞ」
「え、わ、じゃあおんぶで⋯⋯?」
以前は有無を言わさずの米俵担ぎだった。しかし今回は曲がりなりにも頭を打ったということで、その点配慮をしてくれているのだろうか。いやそれにしても。お姫様抱っこって。
されてみたかったような。
されなくてよかったような。
いや、されなくてよかった。恥ずかしくて明日から学校に来れなくなるところだ。
腋窩を掴まれ、ゆっくりと上体を起こされる。不意に、近付く距離。このままその胸に抱きつけたらいいのにな。そんな場違いなことを思う。
「どうだ? 身体起こしても辛くねぇか?」
「⋯⋯うん」
頷くと、さっと背に乗せられる。彼はそのまま軽々と立ち上がり、どことなく余所行きの声で周囲のクラスメイトに話しかけた。
「あー⋯⋯じゃあこいつ連れてくから。もし午後の授業までに戻って来なかったら適当言っといてくれねぇかな」
「は⋯⋯はい⋯⋯」
その場にいたほぼ全員がぽやんと頬を染めながら頷いていたというのは、のちに聞いた話である。
背の揺れを最小限にするように、彼が優しく歩を運んでくれているのがわかる。その首筋に頭を預けてみた。
「⋯⋯名前?」
「⋯⋯ん、大丈夫」
ちょっと気持ち悪いだけ。その一言を飲み込む。
「⋯⋯もう少しで横になれるからな」
「ありがとう、ごめんね。まさか大玉転がしの練習でこんなことになるなんて、心の底から恥ずかしい⋯⋯」
「ははっ、俺らもまさかと思ったよ」
彼が肩を揺らす。密着しているところで直に感じるその振動は、不思議と悪心を和らげた。
「にしてもほんと鈍くせぇなあお前、普通轢かれるか? 大玉に」
「ふふ、ねー、ほんとに。わたしもびっくり」
「暢気かよ。心配したっつーの」
「──⋯⋯」
ありがとう、一也くん。ありがとね。
ぎゅう、と首筋にしがみつく。隆々とした筋肉の感触に、酷く安堵した。
それにしても、だ。
どうしてわたしの身体はいつもいつも思い通りに動いてくれないのだろう。イメージだけならいつだって満点なのに、どうも身体がついてこない。
「⋯⋯ねえ、もしかしてわたしの運動神経って、全部お兄ちゃんが持ってっちゃったのかな?」
「それだ。間違いねぇわ」
◆そのとおりだね◇