コペルニクスは何色だろうか
「あれ、名前は? 帰ったか?」


 小湊と前園と室内練習場にいたはずだった。

 自分の自主練を終え、もう随分遅くなったから早めに帰れよ、と名前に言いに来た俺は、そこに名前の姿を見つけられず問うていた。


「苗字ならついさっきまで居ったんやけどな、そこに。ボール放ってくれてたんやで」
「うん、知ってる。そんで?」
「もうそろそろ切り上げようか、って話してた矢先に、突然何かに気付いたみたいで⋯⋯どっか行っちゃいました。ボール抱えて」
「? ボール抱えて? けどここにカゴあんじゃん」
「手に抱えられるだけ抱えて行ったんです。『最後にわたしが片付けるからカゴは置いておいてね』って言い残して。苗字さんってその⋯⋯たまにそういう時あるじゃないですか。何て言うか、少し不思議な時」
「それは分かる」
「だからあんま気にしとらんかったけど⋯⋯どこ行くんか聞いとくんやったな」
「いや、サンキュ。探してみる」


 あいつ、一体何したかったんだ。首を傾げながら練習場を出る。ボールを抱えていたということは。取り敢えずグラウンドの方へと足を向けてみる。

 その道すがら、ぽとりとひとつ、転がっているボール。それを拾い上げ、まじまじと視線を送る。名前が落とした、か。何となくそんな気がしてあたりを見回す。

 すると案の定。


「ん、あっちにも⋯⋯」


 少し先に、もうひとつ。落ちているボールを見つける。まるで名前の足跡を辿っているような心地になり、一言。
 

「ヘンゼルとグレーテルかよ⋯⋯」


 そんなことを呟く。

 行き先はどうやら俺がよく素振りをする土手の上らしい。名前の痕跡を辿るというのは、不思議な感覚だった。名前の落とした欠片を拾って。名前の温度を目指す。

 悪くない。いや、むしろ──心地よい。

 坂を上り、見晴らしのいい土手のてっぺんに上がる。
  
 
「何してんの」
「うわあっ?!」


 上がった先でしゃがみ込んでいた名前の背中に声をかける。名前はびくりと肩を跳ねさせ、それと同時に名前の手元から幾つかのボールがころりと転がり出る。
 
 
「あ、崩れちゃった! もう、急に声掛けるから」 
「何、ボールなんて積み上げて。何の欲求不満だよ?」
「あはっ、違う違う。お月見だよ。ボールのお餅積み重ねてたの。一也くんもやってたんでしょ?」
「は?」
「え?」
 
 
 こいつはまーた何を言ってんだ、と呆れる俺と。さも不思議そうに俺を見上げる名前。少しの間のあとに「これって野球少年の伝統なんじゃないの? 十五夜にこうやってボール積み重ねて、野球のお願い事するの」と真面目な顔が俺を見る。


「⋯⋯分かった、鳴のやつだな。変なこと吹き込んだの」
「え?! 嘘なんだこれ!」
「ははっ、まさか鳴も今の今まで信じてたとは思ってねぇだろうな」


 心底驚いた様子の名前は「わたしずっと信じてたよ〜〜〜毎年やってたし⋯⋯」と頭を抱えている。

 その隙に、手のひらに収めていた硬球をふたつ、名前の前に転がっているボールの群れに戻す。ヘンゼルとグレーテルの光る小石、ならぬ見慣れた硬球だ。


「今日って十五夜だったんだな」
「うん。わたしもさっき室内練習場の窓からたまたまこの月が見えるまで忘れてた。思い出したらいてもたってもいられなくなっちゃって」


 ゆっくり動いた名前の視線を追いかける。
 晴天だ。曇りなき夜空の高くに、ぽっかりと月が浮かんでいる。明るい月の周りだけ夜空の密度が薄まり、どこか朧気だ。

 俺でも思う。美しい夜だ。


「綺麗だねー⋯⋯」
「──⋯⋯」


 静寂が広がる夜に聞くこいつの声は不思議だ。静かに静かに。凪いだ水面に広がる波紋のように。優しく鼓膜を揺らして、心をふるりと振るわせる。

 しばらく月を眺め、それから名前は再びボールを積み上げた。今度は上手くピラミッド型に並んだそれは、名前のどんな願いを聞いたのだろう。
 
 
「ねえねえ、御幸家では月では誰が何してるの?」
「? 兎が餅搗いてんじゃねぇの? 俺にはそう見えたことねぇけど」
「我が家ではね、兎がキャッチボールしてるんだよ。わたしにもそう見えたことはないんだけど」
「は⋯⋯」


 呆けた俺を見て、名前が笑う。

 適当言いまくるにも程度ってもんがあんだろ、と鳴に向かって心中で零す。幼き日に聞いたのであろう鳴の言葉を未だ覚えている名前を、あいつは知っているのだろうか。

 その時ふと、名前の指が空を指す。
 

「あそこ、あれ、あの丸いの、コペルニクスっていうんだって。あれが月のボールなんだよ、ウチでは」
「⋯⋯どれ?」
「見えにくいかな⋯⋯これこれ」


 名前はさっとスマホの画面を操作し、月面の画像を見せてくる。そこには。銀に輝く月面と。神秘的な模様を織りなす月の海。名前の指先は、そのうちのひとつ、ちいさな六角形のクレーターを示していた。

 今一度見上げる。──眩しい。見事な正円をかたどって浮かぶ月は、眩しいと思うほどに輝いている。眩しくて。そんなちいさなクレーターなど、とても見えない。


「⋯⋯明る過ぎて見えねぇな」
「ふふ。一也くんみたいだね」
「まーたお前はそうやって」
「ほんとのことだもん」


 それはまるで。──名前のようだ。そう、俺は思う。
 
 俺にとっての名前。名前にとっての俺。こんなに近くにいるのに。いつまでも、目が眩む。

 奇跡みてぇなもんなんだろうな。

 そんなことを思う。
 
 月と、俺たち。互いが静かに時を紡ぐ。三十八万キロメートル離れたこの距離は、一秒余りで光が届くという。

 ちょこんと膝を抱え月を映す名前と。その傍らに立ち、ポケットに手を突っ込んで見上げる俺と。

 月から見た俺らは、どんなふうに見えるんだろうな。


「なあー、名前」
「んー?」
「あのさ⋯⋯あ、やべ、悪りぃ」


 ころころころ。
 名前へと向き直ろうとして足をずらしたその時、つま先がピラミッド型のボールを掠めてしまって。いや、蹴ってしまって。そこそこ勢い良く崩れ、そのまま土手を転がり落ちていく。


「あ! そんな! 待ってー!」


 ころころ。ころころ。幾つものボールが転がり落ちる。名前は楽しそうに笑いながら、同じく転がるように駆け下りていく。俺もゆっくりと後を追う。


「転ぶんじゃねぇぞー」
「うん! あ、一也くんそっちの! そっちの拾って!」
「ああ」
「ついでに片付けるのも手伝ってもらえると嬉しく存じます!」
「うん。けど次は横着しねぇで何かに入れて運べよ。じゃねぇといつか落としたボール踏んで転びそう」
「あははっ、横着したのバレてた」
 
 
 笑い合いながら全てを拾う。名前一人の往路では抱えきれなかったボールが、それぞれの腕にしっかりと収まる。
 
 土に汚れたボールが月明かりに照らされる。それは酷く真白に光って見えた。



  

◇コペルニクスは何色だろうか◆

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