愛だってさ
「高島せんせーーー!」

 
 カツカツ。コツコツ。
 廊下に響いていた大人の女性の足音が、わたしの声で止まる。振り返った先生は、一度眼鏡の位置を直して「あら」と口を開いた。

 
「苗字さんじゃない。こんにちは」
「こんにちは、よかった見つかって。あの、先生、今日の練習中と⋯⋯あと多分練習後も少しだけ残ることになるかと思うんですけど、お時間ありますか?」
「? どうしたの?」
「一緒にチョコ作りましょう!」
「え?」


 明日にバレンタインを控えた今日、わたしたちマネージャーは、部員に贈るチョコを作ることになっていた。部員数が多いので、どうしても効率重視の量産タイプにはなってしまうのだけれど、その分気持ちだけはたくさん込めるのだ。

 
「誘ってくれてありがとう。声掛けてもらったの、初めてよ。⋯⋯でも私はいいわ、貴女たちで──」
「じゃあまたあとで! 先生と一緒にお料理できるの楽しみにしてますねー!」
「って、ちょっと待っ⋯⋯」


 苗字さん?! と声が追いかけてきた気がしたけれど、聞こえないフリをした。たまには部の女の子全員で、きゃっきゃとお料理──勿論いろんな話をしながら──をしたかったのだ。
 




「先生しつもーん! 先生は誰かにチョコあげるんですか?」
「⋯⋯ほら、やっぱり聞かれた。だから遠慮したのよ⋯⋯なのに苗字さんが」
「あははっ」


 幸子先輩のど直球な質問に、高島先生が頭を抱える。「私だって相手がいる時はいるのよ。まぁ今はいないけど」なんて呟きながら、先生は、鞄から何かを取り出した。
 
 
「せ、先生⋯⋯? それ、何ですか⋯⋯?」
「お爺様直伝、すっぽんドリンクよ」
「「「すっぽん?!」」」


 驚いた皆の素っ頓狂な声が揃った。
 各々が手を止め見つめる中、先生は特に気にした様子もなく、慣れた手つきですっぽんドリンクなるものの蓋を開ける。そしてその中身を、溶かしたばかりのチョコレートに混ぜようとしているのだ。


「わっ、ちょ、先生! それ大丈夫ですか?!」
「ええ、とっても身体にいいのよ。あなたたちもどう? 飲んでみない? 沢山あるから」
「い、いえ、もう少し大人になってからにします⋯⋯」
「あら、そう?」


 先生は「残念ね、お肌にもいいのに⋯⋯別にお酒じゃないし年齢制限はないわよ?」などと言いながら、その液体を、──とぽりと注いだ。
 
 わたしだって、すっぽんが人間の身体に何かしらの良い効果を与えてくれるということくらいは流石に知っている。けれど、何もそういう意味で聞いたのではない。


「「「大丈夫かな、あのチョコレート⋯⋯」」」


 目の前で、すっぽんが混ぜられたチョコレートが順調に出来上がっていく。わたしたちはただ、そのチョコレートの贈られる先を案じるよりほかなかったのだ。



 

「──っていうことがあったんだよ」
「っぶーー! まさかこれとか言わねぇよな?!」
「ふふ」
「いや、ふふじゃねぇのよ」


 翌朝の朝練後。部員全員にラッピングしたチョコレートを配ったあと、一也くんに昨日の奇っ怪な出来事を話していた時のことだ。スポーツドリンクを口に含んでいた一也くんが、漫画のように吹き出したのは。

 
「大丈夫だよ。高島先生が作ったのは、あっち。あっちで大人たちに渡ってます」
「⋯⋯ああ、そう、ならいーけど」


 わたしが示した先では丁度、高島先生の手から監督、部長、コーチへとすっぽんチョコレートが手渡されているところだった。
 
 
「万が一、部員が未知のエキスでお腹壊したら大変だから⋯⋯『野球しかやってこなかった球児にはすっぽんチョコはまだ早いです! 耐性が!』とか適当なこと言って、監督たちに贈ることにしてもらったんだよ」
「未知ではねぇし監督たちを生贄にすんな」


 そう笑ってから、一也くんは手元のチョコを眺めた。


「俺、あんま甘いの食えねぇだろ。だから去年は、確かゾノだったかな⋯⋯食える誰かにあげたんだよ。これ、名前が作ったの入ってんの?」
「んー、皆で作ったやつだから⋯⋯五分の一くらいの確率でわたしのが入ってるかも」
「えー、お前自分で作ったやつくらい覚えとけよ」
「えー、わかるかなぁ」


 一応見せてもらおうと手を伸ばした時だ。彼が何気なく、「名前が作ったやつなら食うのにな」と呟いた。それを聞き、目を丸くして彼を見上げる。
 

「一也くん⋯⋯甘いの得意じゃないのに食べてくれるの?」
「は? 当たり前だろ」
「やったぁ、嬉しい!」
「? 何が?」 
「わたしからも渡したくて、別に用意してきてるの。あとで教室に届けに行く!」
「別に? 作ったのか? 名前が?」
「うん。別に、作ったの、わたしが。昨日だけ寮じゃなくて家に帰って⋯⋯あっ、大丈夫だよ、いっぱい練習したからちゃんと食べれるもの完成したから!」
「いやそんな心配はしてねぇけど⋯⋯大変なことしなくていーのに」


 しかしそう言いながらも、彼の目は嬉しそうに和らいだ。やめてほしい。そんな顔を見せられては、自惚れてしまうではないか。期待してしまうではないか。

 もしかして、わたしからのプレゼント待ってくれてたのかな、なんて。

 



 昼休みに入ってすぐ、一也くんの教室へ向かう。入り口で中の様子を窺うと、もっち先輩の姿が目に入る。それなのに、一也くんはいない。珍しい。休み時間は大抵一緒にいるのに。

 彼の姿を探し教室内を見回していると、わたしに気付いたらしい先輩が立ち上がり、声をかけてくれる。
  
 
「よぉ名前ちゃん。御幸なら便所だぞ」
「わ、タイミング悪かった」


 わざわざ入り口まで近付いて来てくれた先輩を見上げ、「どうしようかな。ここで一也くんのこと待っててもいいですか?」と訊ねる。

 その瞬間、先輩に気不味そうな表情が走った。それはほんのひと瞬き分ほどの変化だったけれど、違和感を覚えるには十分な変化だった。

 
「あー⋯⋯どうかな、アイツなかなか戻って来ねぇかも」
「?」
「クソしてくるっつってたからよ」
「ふ、ふふ、それ申告して行ったんですか?」
「そーそー。そんなのコッチは聞きたくもねぇってのによ。アイツがそんなこと言うなんて、よっぽど切羽詰まってたんじゃね?」
「あははっ。じゃあそっとしておきます。また出直しますね」
「おう」


 身を翻し、少し教室を離れてから足を止め、窓際に寄る。窓枠に頬杖をつき、ぼうっと外を眺めて考える。

 先輩は、一也くんの御手洗い事情を話すかどうかを迷ってあんな顔をしたのだろうか。──いやまさか。ほぼ毎日寝食を共にしていて、今更どんな繊細さだ。

 でも、じゃあ、何を──

 と考え、ふと視線をずらして。見つけてしまったのだ。先輩のあの表情の理由を。

 この廊下と垂直に交わるもう一方の廊下の奥。ここと同様にくり抜かれた窓の向こうで、一組の男女が向かい合って言葉を交わしていた。

 普段であれば、特に気にするような光景ではない。ことに今日はバレンタインデーであるし、皆各々の青春をいくらでも謳歌してもらって構わない。けれど、今問題なのは、男女のうちの男の方が、わたしの彼氏様だということだ。かなりの距離があるというのに、一瞬で“彼”と認識できてしまう自分──こと広いグラウンドで野球をしていれば重宝する能力なのだけれど──が、この時ばかりは恨めしい。


「そっか⋯⋯もっち先輩、だからあんな顔して⋯⋯」

 
 気を遣ってくれたのだ。一也くんが女の子に呼び出されたことを知ったら、わたしが嫌な思いをするかもと思って。せっかく付きたくもない嘘、付いてくれたのに。

 ごめんなさい。見ちゃった。

 視線を引き剥がし、その場を離れる。何も見たくなかった。相手が誰なのかとか、一也くんがどんな顔をしているのかとか。

 何も、見たくなかった。

 
「⋯⋯見たくなかったな」


 わたしだけではないのだ。一也くんのことを格好いいと思ったり、近付きたいと思ったり、好きだと思ったりする女の子は、わたしだけではない。どこかで何かが違えていれば、一也くんは今頃、別の誰かと笑っていたかもしれないのだ。

 そんな当たり前の現実を目の当たりにして、今更その重大さを思い知る。

 とぼり。行く宛もないその足取りからは、今朝、淡く抱いた自惚れや期待は綺麗になくなってしまっていた。

 

 

「なーにしてんだお前は」
「うわぁ、一也くん! なんで! っていうか気配消さないでよー、びっくりした!」
「いや気配なんて消せねぇし⋯⋯お前がぼーっとしてるせいだよ」
 

 グラウンドが見える、窓際だった。

 移動教室などで使われる──逆を言えば普段は使われない──教室が並ぶ棟の奥側にひっそりとある階段。その最上階の踊り場は、ひと気が少ない上にグラウンドがよく見える、密かなお気に入りの場所だった。
 
 本当は自分の教室に戻るつもりだったのだけれど、これまでぬるま湯に浸かっていた自分が何だか情けなくて、無性にグラウンドが見たくなって、ここに来ていた。

 そこに突然、一也くんが出現したのだ。
 
 
「お前が教室来てたって、倉持が。けどお前の教室行ってもいねぇし、誰も見てねぇっつーから、じゃあここかなって。正解だったな」


 隣に並び、同じようにグラウンドを見下ろす彼の横顔は、ついさっきまで愛の告白を受けていたのであろうその横顔は、いつもと変わらないように見える。

 
「朝話してたやつ、俺に持ってきてくれたんだろ?」
「あ⋯⋯一也くんのぶん⋯⋯わたしたった今、いじけて自分で食べちゃった⋯⋯」
「は? いじけて?」
「なーんて、ほんとは持ってるけど」
「はぁ⋯⋯?」


 身体の影に隠していた小袋を掲げてみせる。一ヶ月ほど前から、何度も練習した。家族にも何度も味見を頼み、ようやく太鼓判を押してもらった。

 自分でなんて、食べられるわけがない。


「どーした? 変だぞ、お前」


 不思議そうに首を傾げる彼を見上げ、逡巡する。
 
 見て見ぬフリをして、何も聞かないのが“良い彼女”なのだろうか。身の内から心を蝕んでいく嫉妬心を噛み殺し、聞き分けが良くて理解のある彼女を演じるのが、彼のような人と長く付き合っていくには必要なのだろうか。それとも、最終的に自分のところに帰ってくるなら“火遊び”には目を瞑る、くらいの覚悟が必要なのだろうか。

 だって、こんなのは序の口だ。

 いつか彼は、プロの世界に足を踏み入れる。高校の比ではない。女性を含む多くのファンが彼を求めるようになる。声援。憧れ。好意。数多の感情が彼に向く。そんな世界で生きていく彼の隣で、わたしは、わたしを保っていられるのだろうか。


「名前⋯⋯? ほんとに変だぞ」
「⋯⋯っ」


 心配そうな声音で、彼がわたしの頬に触れる。あ、まずいな。そう思った時には既に、弾かれたように身を引いてしまっていた。驚きに目を丸くする彼の顔を見て、間髪入れずに謝る。後悔が押し寄せる。

 彼にこんな顔をさせて、わたしは一体何をしているのだろう。あることないこと勝手に考えて、目の前でわたしを見てくれている一也くんを、蔑ろにして。

 大切な人を傷付けるような杞憂など、する価値もないのに。


「違うの、ごめんなさい、わたし勝手に不安になっちゃって」
「⋯⋯何が」
「その、さっき⋯⋯」
「⋯⋯何だよ?」
「チョコ⋯⋯貰ったの?」
「あー⋯⋯そーいうことか」


 どこか気不味そうにして、彼は一度顳顬を掻く。それからわたしに向き直って、先程と同じように、頬の同じ場所に触れた。


「お前、それでいじけてたの?」
「⋯⋯うん」
「ははっ、かわいー嫉妬だな」
「なっ、かわ」


 何故彼はそんな顔で笑えるのだろう。
 こちとらちっぽけな嫉妬から始まり、ついにはまだ見ぬ未来にまで嫉妬している始末だというのに。

 そんなわたしの胸中知ってか知らずか、彼は頬を撫でながら続ける。

 
「あのなぁ、貰うわけねぇだろ。一応俺も人の子だから、話は聞くけど。そういうのは受け取れねぇってきっぱり断ってる」
「⋯⋯そ、っか」
「案外知らないヤツもいるみてぇなんだよな、お前と俺のこと。まぁ知ってても、『彼女がいてもいい!』とかってワケ分かんねぇこと言うのもいるけど──」


 ハッと彼が言葉を区切る。言い過ぎたな、と顔に出た直後「悪りぃ、余計なこと言った。今のナシ」と取り繕ってくれたけれど、時既に遅しだ。「彼女がいてもいい」だなんて。とんでもない事を聞いてしまった。

 一体どういう意味だろうか。彼女がいるのは知っているけれど、想いだけは伝えたいということなのか。それとも、浮気相手でも構わないということなのか。

 まるで可愛くない感情ばかりが浮かんできてしまう。苦しい。息が詰まる。吐き出せない。想いの逃げ場がほしくて、彼の肩口に額を預ける。彼はそれを受け止めるようにわたしに腕を回し、後ろ髪を撫でてくれた。

 言って良いぞと言われた気がして、少し、楽になる。


「⋯⋯こういうこと、たくさんある?」
「まあ⋯⋯人並みには?」
「ふふ、人並み」


 案外知らないヤツもいる、とか、彼女がいてもいい、とか、そんな話が出てくる時点で人並みではないし、聞かなくたってわかる。彼はモテる。何をわざわざ、当たり前のことを聞いているのだろう。


「ごめんね、一也くん。きっとこの先もこういうことたくさんあるのに⋯⋯ちょっと、心を鍛えます」
「そんなことしなくていーよ。それより、もし不安に思うことがあったらすぐに言え。思った一秒後に言え。今みたいに一人でいじけるな」
「言ったら、嫌じゃないの?」
「ぜーんぜん。むしろ嬉しいけどな。⋯⋯そんで、その度に何回でも言うから。俺がお前以外を見ることは、絶対ねえからって。お前が安心できるまで、何回でも」
「⋯⋯一也くん」
「な。お前はそろそろ、俺の愛に自信を持て」
「ふふ、愛だって」


 彼の口から語られるには似つかわしくない。今頃照れてそうだなぁと顔を上げると、案の定きまり悪そうにした彼とばっちり目が合う。「いじけてるお前に、大サービスだよ」と言って、彼は、少し強引にわたしの唇を塞いだ。




 
◆愛だってさ◇


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