夏のせいにしたかった
とある団地の一角。
大晦日を迎えた倉持家のドアが、カチャリと開いた。
「あ、帰ってきた」
リビングで正月特番を見ながら蜜柑の皮を剥いていた名前は、玄関に現れたその姿を見て「おかえりー」と声をかけた。
「んだよ、来てたのか。暇だなお前も」
重たそうなエナメルバッグをどさりと降ろし制服のネクタイを緩めたのは、この家の長男、倉持洋一である。
洋一の言葉に名前は唇を尖らせる。
「わあ失礼。せっかく待ってたのに」
「頼んでねぇ」
「ひっどー。ねえおばちゃん聞いた? いまの」
名前の問は洋一の母に向けられたもの。
台所で料理をしていた手を止めリビングに出て来ていた彼女は、エプロンを巻いたその腰に両手を当てながら何度も頷いた。
「聞いた聞いた。ほんっと酷い。アンタそんなんだから彼女もできないのよ」
「うるせクソババア」
「お前はまたそんな口利きよって」
割って入ったのは洋一の祖父である。名前の正面に座る彼は、洋一を窘めてから皮の綺麗に剥けた蜜柑を一粒口に放り込んだ。
「ジジイは変わらず元気そうじゃねぇか」
「当たり前じゃ、ピンピンしとるわ。名前ちゃんがよぉ相手してくれるしなぁ、若い子と接するんは元気をもらえる」
「あ? 相手?」
「話し相手にもなってくれるし、肩も揉んでくれる。名前ちゃんの趣味とやらの少し不味い手作り菓子もよぉ持ってきてくれるしの」
「ちょっ、じーちゃん! たまにはそこそこ美味しいでしょ!」
「ワハハ」
豪快に笑う祖父に、洋一は「おいジジイ、コイツの手作りなんて食ってたら寿命縮むぞ。もしかしたら死因になったりしてな、ヒャハハ!」などという暴言を吐いている。
母に向かってババア。
祖父に向かってジジイ。
対名前に至っては「お前の料理は人を殺す」である。
よくもまあこんなに口が悪いものだと思う。青道に入学してからある程度改められたはずの口調も、実家に戻った途端にこれだ。
名前は頭を抱えた。
なんでこんなヤツのこと、例えまやかしでも──好きなんだろう。
名前の家は、倉持家の真下にある。
階上からの喧しい足音。洋一を怒る祖父の怒鳴り声に、特徴的な甲高い笑い声。倉持家は良くも悪くも賑やかで、その生活音は真下の名前の家にもよく聞こえてきた。
それが日常だった。
洋一が寮生活を始めたことで訪れた静かな生活に違和感を感じてしまう程度には、日常だった。
団地がゆえ、子どもの歳が近い家庭同士の付き合いは自然と増える。名前と洋一も腐れ縁のようなものだった。
一方の家庭の保護者に仕事や用があれば、もう一方の家庭で子どもを預かり夕食を共にすることも多々あった。いわゆる持ちつ持たれつの関係だ。おかげで名前は、親の不在で寂しい思いをしたことなど一度だってない。
その名残だろうか。
洋一が千葉を離れた今でも、名前は時折、用もなく倉持家を訪う。会いたい。話したい。その欲望に、名前は忠実だった。
たったひとつ。
そこに洋一がいないということだけが、たったひとつの相違であり、酷く大きな相違でもあった。
洋一は、春についに甲子園の土を踏むという。
昨日まで行われていた冬合宿の、その地獄っぷりを話す洋一の横顔を見つめる。少し会わないうちに大人び、男らしい顔つきになった。
名前はたいして変わらないのに、洋一はどんどん進み、甲子園まで手に入れてしまった。
少し、胸が苦しい。
二割が漠然とした不安や焦燥。残り大半、八割が嘘っぱちの恋煩いというところか。
⋯⋯ちょっと納得ができない。
そんな感情が八割も占めているだなんて、納得ができない。そのことに言い訳をしたくて、考える。
どれもこれも、洋一の。グラウンドでの姿がかっこいいせいだ、と。
はじめてその姿を目にしたのは、確か小学生の終わり頃だった。
洋一の母と一緒になんとなく観に行った、小さな小さなグラウンド。息をするのさえ重苦しい真夏。プールやかき氷などとは程遠い場所で、名前は麦藁帽の下の瞬きの隙間にその姿をみた。
ひとたび走らせれば、いずれはチーター、韋駄天、足に加速装置etc、それらの名を恣にする俊足。守らせれば天下一品。その足一つで、いくつもの盤面を覆す。
その姿が、かっこいいせいだ。
足の速い男子が運動会後にめちゃくちゃモテるみたいな。体育祭後に急に女子の視線を集めるようになる運動部のエースみたいな。
つまりきっと、ゲレンデマジックの類である。
だから、いつか洋一が野球から離れる時が来たのなら、なくなるはずの恋なのだ。
なぜならそこに残るのは、口の悪さによらず心根は意外と優しくて、よく人のことを見ていて、気が利いて、なんだかんだ言いながら家族や仲間を大切に想っていて、そして。
こうして我が物顔で倉持家に入り浸っている名前を普通の顔で受け入れてくれる、そんな洋一だけだ。
──って、マジで?
ここで名前は、今一度頭を抱えた。
──これって、まやかしの恋心なんかじゃなくない?
気づいてしまって、後悔した。
何故、気づいてしまったのだろう。
学校も違ければ、そもそも洋一は東京で寮生活。会う機会など年に数回で、その上洋一は絶対に名前のことをご近所さん、よくて幼馴染としか思っていない。
不毛な恋であることなど、誰に何を言われるまでもなく明白だ。
「⋯⋯、⋯⋯い」
「──⋯」
「オイって」
「えっ、何?」
「いやこっちの台詞。急に真剣にぼーっとして、何だよ? 腹でも痛ぇの? 正月だからって食いすぎなんじゃね」
真剣にぼーっとするとは一体。
そしてお腹のお肉を摘もうとしないでいただきたい。
脇腹に向かって伸びてきた手を咄嗟に掴む。掴んで、これまた後悔した。
おかしい。こんなに大きくてがっちりとした手だっただろうか。手に触れただけで、こんなに心臓は騒ぐものだっただろうか。
おかしい。こんなの、おかしい。
「⋯⋯? 顔赤ぇぞ。もしかしてホントに具合悪いのか?」
名前が掴んでいない方の手で素早く額に触れられ、何故だか泣き出したいような、逃げ出したいような、悔しいような。
一言ではとても表せぬ気持ちに襲われ、心の置きどころがなくなって、気づけば名前は、それらを目の前の洋一に──ぶちまけていた。
「⋯⋯っ洋一の! ばーーーーか!」
「はぁ?!」
◇夏のせいにしたかった◆
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