人魚の背骨

 不規則に、歪に揺らめく波間の光がよく似合う。彼女はそんな女性ひとだった。


「なあ、名前ちゃん」
「ん?」
「そろそろ俺と付き合わない?」





 名前は若い女性には珍しく、御幸が入団した球団で雑務兼広報の下っ端を務めていた。人当たりがよく、ここでは若年ということもあって、よく多方面から助っ人の声が掛かっては馬車馬のように働いている。

 雑務といっても本当に幅が広いようで、御幸たち若手の選手と接する機会も多く、名前を知るのにそう時間は掛からなかった。変に選手に媚びたりしない自然な態度が心地よく、気づけば御幸も砕けた態度で接していた。聞けば高校大学は某強豪校のマネージャーをしており、そのままプロ野球の世界へと流れ込んだのだという。

 恒例の沖縄キャンプにも毎年駆り出され、これまたあちこちから良いように使われている姿を見るのも、今年で三度目だった。

 そんなキャンプ中の休養日のことだ。
 選手各々が各々でリフレッシュをするなか、ホテルの会議室で書類と睨めっこをしていた名前を見つけた御幸は、半ば拉致するかたちで連れ出した。


「ちょ、御幸くん、どうしたの」
「せっかくの休養日なんだから息抜きしようぜ」
「うん、ぜひしてください。わたしはまだ仕事があるから⋯⋯あ、もしかして車出してほしいの? それなら付き合うよ」


 御幸の思惑とはポール間十往復分程遠い返答に、眉を寄せる。皺が刻まれた眉間を示しつつ、さらに顔を顰めてみせる。


「違ぇよ。名前ちゃんこーんな難しい顔してたからさ。いいから休もうぜ、少しだけ」
「⋯⋯確かに疲れは溜まってきたかもだけど、そこまで酷い顔してないもん」


 仮にも女の子なのに、とぶうぶう垂れながらも大人しく手を引かれる名前を、御幸は満足そうに見下ろした。





 圧巻だった。

 かの有名な水族館。メインの大水槽を前に、御幸と名前は言葉を失い立ち尽くす。


「すっごいね⋯⋯」
「うん」


 素直に頷いた御幸は、深めに被っていたスポーツキャップの鍔を持ち上げ、その身の丈の何倍もある水槽を見上げる。

 幾筋もの揺らめくように差す光。天辺で灯る眩さ。濃淡を変える青い水。水中を昇る泡。人間とはまみえるはずのない、多種の海の生物。


「すごすぎて、ちょっと怖い⋯⋯吸い込まれそう」


 そう呟いた名前の瞳の中では、ゆらりゆらりと光が揺蕩っていた。不規則で歪な波間の光を受けた横顔が、何故か、切なくて。抱き寄せたくなる衝動をぐっと堪える。

 堪えて、御幸は無言で水槽へと視線を戻した。








 何十分が経っただろうか。
 一向にこの場から動こうとしない名前に、いよいよ声をかける。


「⋯⋯ねぇ、いま何見てんの?」
「えっ、何って⋯⋯魚?」
「はは、ほら、疑問系じゃん」
「⋯⋯ごめん、ちょっと考えごとしちゃってた」


 途中から名前は何を見るでもなく、ただ水中のどこかをぼんやりと瞳に映していただけに見えたのだ。

 別に責めているわけではないし、名前の言葉の先を促したわけでもないし、そしてわざわざ問うつもりもないのだが、御幸の視線からその心境──考えごとって?──を読み取ったらしい名前は、特に躊躇する様子もなく続けた。


「わたしね、カナヅチなの」
「うん?」
「だから小さい頃は人魚姫になりたかった」
「ぶふっ、うん」
「あ、笑った」
「いや、うん、可愛いなと思ってさ。そんで?」


 笑ったままの表情で問うた御幸を、むうと膨らませた頬で見上げてから、名前はもう一度水中へと視線を戻した。今度はおおきなマンタを追っている。


「でも、人魚姫は叶わない恋をする女の子だから。叶わないのに、命をかけて王子様の幸せを守れる女の子だから。わたしには、なれないなあって。大人になってから思ったの」


 すっと伸びた背筋が美しい。いつも堂々と顔を上げた美しい姿勢が好きだ。真っ直ぐに伸びて、そのくせ美麗な曲線を描く。


「⋯⋯名前ちゃんは、してんの?」
「?」


 御幸は訊ねる。名前は意図を掴みかねたようで、首を傾げた。


「叶わない恋。してんの?」
「⋯⋯ううん、してないよ」


 微笑んでちいさく首を振った名前に合わせて、髪がふわふわと揺れた。

 ──知っている。

 数ヶ月前、噂では婚約の話も出ていた相手と破局したということも。それまでどんな方法で誘っても、二人きりの誘いは決まって「観たいドラマがあるから」と困った顔で断っていたのに。それからは時々応じてくれるようになったことも。

 御幸を見るその瞳に、少しずつ特別な好意が混ざってきたことも。

 知っている。


「なあ、名前ちゃん」
「? なあに」


 弱っているときに優しくしてくれたから、とか。寂しさを紛らわせたかったから、とか。きっかけはそんな理由でもいい。名前の視界に男として入れたのであれば、それでいい。


「俺は、そんな恋させねぇよ、絶対に。だからそろそろ──俺と付き合わない?」


 ⋯⋯かちり、こちり。

 まるで時が止まったように硬直した名前は、十秒ほどで我に返り、恐るべき俊敏さで慌てふためきながら周囲を見回した。

 その様子を御幸は可笑しそうに眺める。


「大丈夫、近くには誰もいないよ。平日だからかな」
「ちょ、っと、有名人なんだから発言には気をつけて! キャンプ中なんだしどんなファンがその辺にいるか⋯⋯ほんとはわたしとここに居るのだって──」
「はい、うるさいうるさい。今日は休養日なの、休養日。俺が自由にしていい日。分かる?」


 御幸の手でむぎゅりと口を塞がれたまま、名前はどこか納得がいっていない表情で、渋りながらも頷いた。


「わ、かったけど⋯⋯でも、なんで⋯⋯付き合うって?」
「え、だって名前ちゃん、俺のこと好きでしょ。俺はずっと前から名前ちゃんが好きだし」
「⋯⋯え」
「俺の気持ちには⋯⋯さすがに気づいてくれてるよな。名前ちゃんの気持ちは違うの? それとも気づいてねぇの?」
「や、⋯⋯え?」


 名前はぽかりと口を開け、御幸を凝視した。名前の目の前を巨大なサメが泳いだが、名前はぴくりとも動じず御幸を見ている。


「⋯⋯だってわたし、最近失恋して」
「うん」
「しばらく恋愛はしたくないって思ってたの」
「うん。そうやって蓋してたんだな」


 ふた、と片言のように呟いて、名前は暫し回想の中へと潜って行ってしまった。御幸とのこれまでの日々を思い返しているのだろう。

 そんな名前の様子を眺めたり、自在に泳ぐ魚を眺めたり。そうして待っていると、不意に名前が御幸のシャツの裾を引っ張った。

 驚きからか、きまりの悪さからか、気恥ずかしさからか。睫毛を伏せたままで、名前はぽそぽそと告げる。


「⋯⋯自分でもびっくりなんだけど、自覚をしたのは、いま、みたい」
「はははっ、鈍!」


 くしゃりと頭を撫でる。初めて触れたその髪は、御幸のてのひらを柔くくすぐった。許されるのなら、今すぐにでも抱きしめたい。


「⋯⋯好きだよ、名前ちゃん。俺と、付き合ってください」
「⋯⋯っ」


 真っ直ぐに見つめた瞳が、じわりと潤んで盛り上がる。その涙が、名前の心に空いていた隙間を誰かの代わりに埋めただけのものなのか、気持ちを認識したことへの嬉しさからなのか、そのほかの意味があるのか、御幸には分からなかった。


「⋯⋯わたし、いいのかな、こんなにすぐ、」
「すぐってほどの期間でもないんだろ。てか失恋後に新しく恋しちゃ駄目とかってあんの? 自分の気持ちに嘘ついてまで?」
「あるわけじゃないけど、ほらなんていうか、気持ち的に⋯⋯?」


 そう言いながら、名前はくすくすと肩を揺らし始めた。「ふふ、自分の言ってること馬鹿らしくなってきちゃった」と笑っている。その笑みを口元に残したまま、名前は、真摯な眼差しで御幸を見上げた。


「こんなの御幸くんにも失礼だよね。⋯⋯こちらこそ、よろしくお願いします」


 それを聞いた御幸は、ひと息おおきく吸い込んで、それを一瞬止めてから長く吐き出した。


「⋯⋯は〜〜〜駄目かと思った、よかった」
「⋯⋯変に引っ張ってごめん」
「はは、いーよ」


 水槽の前に並ぶ二つの影の距離が、どちらともなく近づく。手の甲と甲がぶつかって、御幸はその手をそっと握った。


「そういえば名前ちゃん、俺まだ聞いてねぇんだけど」
「⋯⋯何、を」
「今日くらい聞きてぇなー」


 御幸に悪戯っぽく流し見され、名前の頬がぽぽぽっと赤く染まっていく。些か躊躇ってから、名前はつま先で立ち、内緒話をするように御幸の耳元に顔を近づける。吐息がかかるその距離で、名前の唇が照れくさそうに四つの音をつくった。





◇人魚の背骨◆


久遠よりリクエストいただいたおはなし。


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