泡沫のいのち


 恋というもの知ったのは、高校生になってからだった。


「御幸くんは、ちょっと生意気だねえ」
「ははっ、ソレ直接俺に言うんすか」
「だって御幸くん、自分で分かってるじゃない。⋯⋯あんまり腕白しないんだよ」


 ぽすり。頭にキャップを被せられる。休日練習の休憩時間、タオルで頭の汗を拭っている最中のことだった。いつの出来事だったかははっきりと覚えていないが、入部して間もない頃だったと思う。

 被せたキャップをぽふぽふと叩いて笑ったのは、一つ上の学年のマネージャーだった。

 夏に弾ける飛沫のような。ラムネに光るビー玉のような。そんな笑顔が印象的だった。





 その出会いから、一年と少しが経っていた。

 夏の燦々たる太陽に目を細める。見上げた空には真白な雲がひと握り浮いているだけ。快晴だ。

 その視界の隅でふと、何かを捕らえる。思わず「あ、」と声が出た。


「⋯⋯あん? オイ御幸、ソッチじゃねぇぞ。移動教室の場所忘れちまったのか?」
「馬鹿、んわなけあるかよ。ちょい野暮用、先行ってて」
「?」


 昼食後の授業は移動教室だった。暇だし早めに行っちまおうぜ、と自分たちの教室を出て歩いていたのだが、その最中に御幸が進路を外れた。御幸が足を向けた先を、倉持の視線が辿る。そこにとある人物を認め、倉持は「ははーん」と口角を上げた。


「なるほどね。頑張れよー」
「? 何のこと」
「ヒャハハ、とぼけやがって。まぁそういうことにしといてやるよ。じゃーな、授業には遅れんなよ」


 ひらりと手を振った倉持の背中に、「何だアイツ⋯⋯」と御幸の呟きがかかる。

 ひとつ溜め息を吐き、気を取り直して向かった先で、もう見慣れている後ろ姿に声をかける。


「名前先輩、何してんすか?」
「あ、御幸くん。やっほー」
「やっほー⋯⋯って。随分と気の抜ける挨拶ですね」
「ふふ、暑くて気も抜けちゃうよねえ」


 名前が空を仰ぐ。
 ああ、この人は、夏がよく似合う。


「で、何してんすか?」
「水遣りだよ、花壇の」
「それは見りゃ分かるけど⋯⋯園芸部でも掛け持ちしてましたっけ」
「ううん」


 名前の手にはホースが握られていた。蛇口から伸びた青色のそれは、彼女の手から涼し気に水を放っている。


「園芸部って部員が少ないんだけどね、」
「? はい」
「今皆して風邪でダウンしちゃってるの。夏風邪かなあ。休み時間とかいっつも一緒にいるのに、なんでかわたしだけ元気で」
「はははっ」
「なあにその笑いは」
「いやいや、元気で何よりじゃないっすか。それで先輩が代わりに?」
「うん。皆が大事に育ててるからね。って言ってもよくわかんないから適当に水かけてるだけなんだけど」


 サアァ──と軽い音を立てながら、暑い空気の中に細かな水が放物線を描く。太陽の光を受けたひと粒ひと粒が眩しい。


「あ、その角度虹できてる」
「え?! わ、ほんとだ」


 見て見て、きれい! と名前の笑顔が弾ける。何度も見ている笑顔なのに、不覚にも胸が高鳴ってしまった。

 このままずっと昼休みだったらいいのにな、なんて小っ恥ずかしいことを思った、その時だった。「あ!」と名前が声を上げる。

 掲げたホース、掛かる七色。その向こうに、彼女は誰かを見つけたようだった。


「おーい! クリスくーん! あ、伊佐敷くんもいる!」


 名前の声に、校舎二階の廊下、開け放たれていた窓から毎日顔を合わせる部員が顔を覗かせた。


「オイオイ、俺のことオマケみてぇに言うなよ」
「ちなみに俺もいるんだけど⋯⋯そこからじゃ小さくて見えないって言いたいわけ?」
「やだなぁ小湊くん、たまたまクリスくんの影に隠れてただけだよ」
「それ結局俺が小さいって言ってるよね?」
「い、言ってない言ってない!」


 慌てて否定する名前に、亮介は意地の悪い笑みを落とした。揶揄っている証拠だ。

 やり取りを静かに見守っていたクリスが、「ところで、」と口を挟む。


「苗字と御幸は何してるんだ?」


 ──名前の目には、いつも。この人が映っている。

 御幸が名前と接するようになって、僅かも経っていなかったと思う。御幸が名前の気持ちに気付いたのは。キャッチャーという同じポジションが故に一緒にいる時間も多く、それだけ気付く機会も多かったからだろう。

 それなのに何故。自分は名前にこんな気持ちを抱いてしまったのだろう。


「水遣りだよ、園芸部の皆、風邪ひいちゃったでしょ」
「ああ、そういえば今日は休みだったな」
「そうそう。あっ、見て見て! 今ね、虹ができたんだよ」


 と言いながら、名前がホースを持ち上げる。この時、名前の意識からは完全に御幸の存在が抜けていたのだろう。水の向きを変えた先に、御幸がいることをすっかり失念していた動作だった。だから。


「ンぶ?!?!」


 御幸の顔面に、見事に命中してしまったのだ。草花にあげるはずの水が。

 その瞬間、その場の誰もが──この場面を目撃していた三年生たちも──言葉を失った。名前に至っては瞬きすらせずに硬直している。不自然な沈黙の中、御幸の前髪からぽたぽたと水滴だけが落ちる。


「⋯⋯名前先輩」


 御幸が名前の名を呼んだ瞬間、名前はスイッチが入ったように「ひい!」と背筋を正した。


「ごめん御幸くん! だ、大丈夫?」
「大丈夫ではないです」
「うんそうだよね、咄嗟に聞いちゃった。本当にごめん⋯⋯」


 髪、眼鏡、ワイシャツあたりが犠牲になっている。一瞬のことだったし酷く濡れてはいないが、まぁ、誰が見ても水を被ったということが分かる程度には濡れている。


「授業までもう少し時間あるかな、急いで拭いて着替えないと⋯⋯寮に戻ったら替えのワイシャツある?」
「ありますけど、いーっすよ、乾くし」
「だめ! わたしが言えたことじゃないけど、風邪ひいたらどうするの! わたしの周りではこんなにも夏風邪が流行ってるんだよ」


 ぐっと手首を掴まれる。ちいさいくせにしっかりとした手つきだった。


「行こう、まだ間に合う」
「や、ほんと」


 いいですよ、と言い切る前に、名前は御幸の手を引っ張って寮の方へとぐんぐん進みだした。


「ブッハッハッ! 御幸ィ! お前ウケんな!」
「純さん⋯⋯全然ウケないっす⋯⋯」


 濡れた眼鏡越しに見上げると、伊佐敷と亮介が笑い転げていた。いつも冷静なクリスからも堪えきれない笑みがたんと溢れている。

 こりゃあ暫くイジられるな、と向こう一週間分は覚悟を決める。

 名前はといえば、「なんでわたしってこういうことしちゃうんだろう」とか「どうやったら後輩に水かけれるんだろう、自分が不思議で仕方ない」とか、あれこれ呟きながらもしっかりと御幸を引っ張り続けていた。

 掴まれたままの腕に、鳩尾のあたりで感情が忙しく動く。

 もう少しこのままがいい。でも、離してほしい。このまま腕に触れられていたら、寮になど来られては、抑制が外れてしまうかもしれない。いや、でも、もう少し掴んでいてくれ。


「⋯⋯あ、せめてこれで顔だけでも拭いて! 本日は未使用です!」
「⋯⋯あざっす」


 スカートのポケットから出てきたハンカチは、素直に受け取った。顔にあてる。知らない柔軟剤の香りがした。


「ふふ」
「? 何ですか?」
「御幸くんの素顔見ちゃった」
「え、」


 顔を拭くために外した眼鏡を持ったまま、名前を見返す。焦点が合わずぼやける視界の中で、彼女は変わらぬ笑顔を見せた。


「ふふ、超レア。ここだけの内緒にしておくからね」
「⋯⋯、」


 ──御幸はこの気持ちを、誰にも言っていない。

 そして、これからも言わない。名前の気持ちは明白だし、御幸の一方的な満足感を得るためだけに伝えようとは思っていない。そうして一生胸の中に閉じ込めて、いつかただの思い出に昇華するはずの気持ちだ。だから、今だけは。

 結局御幸は、寮に着くまで名前の手を振り解くことができなかった。





◆泡沫のいのち◇


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