重たいくせに無重力

 時速285キロメートルで景色が流れる。

 普段体感することのないスピードに、何に焦点を結べば良いものかと目線が惑う。惑って、何にも結像せぬまま、ただ車体に揺られ景色のなかを通り過ぎる。

 センバツの帰路。新幹線のなか。

 名前は膝に置いていたスケジュール帳を手に、席を立った。三列分斜め前に座っている主将のもとへと足を向ける。


「御幸くん。疲れてるとこごめんね。帰ってからの予定で確認したいことあるんだけど、少しだけいいかな?」
「おう」


 窓際で窓の外へと視線を向けていた御幸が振り返り、空いている通路側の席を示す。ここ座れよ、の意だろう。名前はどこかお呼ばれしたような心地になり、心持ち浅めに腰を掛ける。何となく足もきちんと揃えてしまったりなんかして。


「ありがと、お邪魔します。御幸くんの隣って、なんだかいつも空いてるね」
「⋯⋯移動中は放っといて欲しいタイプなんだよ。隣にあんなうるせぇヤツらいるとかマジで無理」


 振り返りもせずに親指だけで御幸が差した後方へと視線を移し、名前は苦笑いを落とした。無論、いつでもどこでも元気満点の沢村を視界に収めたからである。


「ふふ、そうだね。そういうことにしようね」
「コラ、聞かなかったことにはしてやんねーぞ」
「あはっ」
「ったく⋯⋯で、どした?」
「あ、うん、明日からの──⋯⋯」


 スケジュール帳へと視線を落とし、確認事項を浚っていく。

 結果だけ見れば、ベストエイトに終わったセンバツ。世間的には健闘したことになるのかもしれないが、全国制覇にはほとほと遠い。しかしチームには色濃い敗戦を引き摺っている暇もない。東京に戻ればすぐに新学期、そして春大と続いていく。やることは多かった。

 それなりの時間をかけそれらすべてに目星をつけ、名前はひとつ、ふうと息を吐く。


「細かく確認ありがとう、わたし戻るね。あとはゆっくり休ん、で⋯⋯って」


 言いながら腰を上げ、もともと座っていた座席を振り返った名前が、はたりと動きを止める。御幸は不思議そうに問うた。


「? なに?」
「わたしの席なくなってるの。見て見て、川上くんが寝てる。⋯⋯寝顔かわいいね」


 喧しい沢村たちから逃れてきたのだろう。車両の奥のほうにいたはずの川上が、名前の座っていた席で静かに瞼を閉じていた。

 これは、──戻れない。

 他にも空席はあるにはあるのだが、名前としても沢村たちの渦中──どうやら今はババ抜きに興じている──に入るのは勘弁願いたかった。連日のホテル生活。積み重ねた試合。疲労感が、押し寄せていた。

 故にどうしたものかと困惑していると、この状況を把握したらしき御幸が口を開いた。


「ここ座ってろよ。苗字もうるせぇの好きじゃねぇだろ」
「え⋯⋯いいの?」
「うん。お前さえ嫌じゃなければ」
「⋯⋯ありがとう、助かります。ではお言葉に甘えて」


 名前の言葉に、御幸は笑みだけを返した。くそう、イケメンだなあ。内心でそう毒吐いてから、そっと腰を下ろす。名前が座ってから、御幸の視線は再び窓外へと向いた。御幸も静かに過ごしたいことだろう。何も話さずにいよう。そう思い、その瞳をそっと見る。眼鏡の向こうの角膜で、景色がただ、流れゆく。

 時速285キロメートル。

 世界の速度に、取り残され置き去りにされる感覚。無意識に流されているはずの「高校生」という時間のなかで、しかし何かが取り残されている。何かが追いつかない。だって、気がつけばもう三年生になってしまった。部活に於いては最後の夏まであと三ヶ月。いつの間にか、もう終わりの方が近いのだ。

 名前はふと思う。

 ──御幸くんは、ついていけてるのかな。この世界の、恐ろしいまでのスピードに。

 そんなことを考えているとどことなく心が苦しくなってきた気がして、視線をそらす。ポケットからスマホ。センバツで撮った写真の整理でもしながら、少し気持ちを落ち着けようと液晶を触る。

 静かな時間だった。

 御幸は一言も発さずにいたし、名前も黙々と画面をスクロールしていた。ホテルでの食事、公園での自主練、アップの様子、各部屋に突撃した夜。この数日間が、もう「過去」であり「想い出」になっているということに、驚く。

 そんな時だった。


「⋯⋯っ?!」


 画面を見つめたまま、名前は瞠目した。一瞬息が止まる。

 なぜなら、──ぽすりと。

 肩に、軽い衝撃。直後に確かな重みを感じ、名前は声なき声とともに身体をびくりと強張らせた。


「⋯⋯み、御幸くん⋯⋯?」


 肩に乗っているのが御幸の頭なのだと認識した名前は、壊れた人形のようなぎこちなさで頭だけを動かし、御幸の様子を窺う。

 かちりと下りた睫毛。ぴくりとも動かない瞼。脱力した手。肩にかかる荷重。ちいさな寝息。

 寝て、る。

 この状況のすべてに、急激に頬が熱を持つ。

 御幸の──ひいては男の子の──身体とこんなふうに接していることにも、こんなに間近で誰かの寝息を聞くことにも、いつも飄々として隙をみせない御幸がこれほど無防備に眠りに落ちることにも。

 とにかく理解が追いつかなくて、ただ御幸を起こさぬよう一ミリも動かぬことに徹するより他なかった。呼吸さえも最小限の胸郭の動きで賄えるよう、ただひたすらに不動に務める。

 なんて拷問だ。

 頬にあたる御幸の髪がくすぐったいし、身体が大きいから当然重い。相手が御幸ということも含め、この状況は色々な意味で辛すぎる。

 というかもし誰かにこんなところ見られたら、御幸が恥ずかしい思いをするはずだ。安眠を妨害したくないのは山々なのだが、寧ろひと思いに起こしてしまったほうがいいだろうか。

 早鐘のような心臓と手のひらに滲む汗。真っ赤な頬。結局答えを出せずに硬直したままの名前を乗せ、車体は時を駆けゆく。





 ふと意識が浮上し、御幸は薄らと目蓋を持ち上げた。

 ──寝ちまってたのか。

 頭を上げようとした御幸は、そこでぴたりと動きを止める。自身の頭の上に、軽い、しかし確かな重みを感じたからだ。


「え⋯⋯⋯⋯、は?」


 少しずれた眼鏡の視界に入るのは、青道の制服のスカートと、ブレザーの裾。先程隣に座った名前のものだろう。

 で、だ。

 この体勢からして御幸の頭の上にあるのは、おそらく名前の頭だ。そしてこの体重の掛かり具合から、名前が御幸に寄りかかるようにして寝ているのだと推察できる。

 と、いうことは、だ。

 先に御幸が名前に寄りかかって寝ていなければ、こういう折り重なりにはならない。


「──⋯⋯」


 ここに至るまでコンマ数秒。御幸は瞠目した。一瞬で眠気が吹き飛ぶ。自分は一体何てことをしてくれたんだ。こんなところでうたた寝をしてしまったどころか、隣席の人物──しかも異性──に頭を預けるなんて。極度の疲労というわけでもないコンディションで、自分の中で何がどうリラックスしていればこんな事態が発生するのか。

 まるで理解ができなかった。


「つーか⋯⋯動けねぇよこれ⋯⋯」


 御幸の間近で静かな寝息。聞いてはいけないものを聞いてしまったような罪悪感と、きっと御幸が寝てしまったときに“起こさないように”と配慮してくれていたのであろう名前への罪悪感と、もし御幸が動いたとして、穏やかな名前の寝息を断つことへの罪悪感と。

 幾多のものに苛まれた御幸には、名前を起こすという選択肢を選び取ることができなかった。この状態の悪さ──もし誰かに見られ誤解されれば、御幸はともかく名前に申し訳ない──を鑑みても、この寝息をせめてもう少し、止めたくなかった。

 なんて、建前を並べてはみても。


「⋯⋯けど早く起きてくれ苗字⋯⋯マジで」


 ゼロ距離で感じる女子──しかも相手は名前ときた──のあらゆる感覚に、御幸は頭を抱える。

 野球一筋の高校生活。女子の身体に触れることなどないのだ。

 せめて五感のひとつくらいはシャットアウトしようと目蓋を閉じた御幸の頬を、振動で揺れた名前の髪が擽る。

 ⋯⋯目閉じんの、かえって逆効果かな。

 そんなことを考え、目を開いたり閉じたりを繰り返す御幸を、車体が変わらず運んでいく。



 なお、双方が寝ている間にしっかり証拠写真を撮られていることを、彼らはまだ知らない。





◇重たいくせに無重力◆

一周年企画に続篇があります。


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