驟雨に流離う

 しとしとと、雨。
 透明な滴が透明な窓硝子を濡らしている。

 雑居ビルの一階に居を構える小さなカフェバーは、通りに面する部分が一面硝子張りだ。店内から、名前はぼんやりと外を眺めていた。


「どーした? 名前」
「マスター、雨だよ」
「ああ、降ってきたか」
「? 降る予定だったっけ?」
「お前天気予報見てないだろ。降水確率九十パーセントだったぞ」
「あらまぁ、それは、ふふ」
「ったく⋯⋯それにしても、降ってる割には静かな雨だな」
「⋯⋯うん」


 頷きながら、空を見上げる。鈍色の厚い曇天。このぶんだと当分止むことはなさそうだ。出勤前はあんなに晴れていたのに。天気とは、なんて気紛れで不安定なものなのだろう。



 名前がこの店でバイトを始めて一年が過ぎた。
 若くして店を持つこのマスター、齢にして三十二。穏やかで物腰の柔らかい彼は、十ほど歳の離れた兄の友人だ。マスターと兄は大学時代に意気投合し、それ以来付き合いが続いている。名前にもよく構ってくれ、もはや二人目の兄のような気持ちである。

 その伝で名前をバイトに迎えてくれているわけだが、そんな彼は若かりし頃、野球に青春を捧げたのだという。聞けば名前でも聞いたことがあるほどの強豪校で、そこで送った高校生活のことをよく面白可笑しく話してくれる。

 そんな話を聞くのが、名前は好きだった。


「てことは名前、傘持ってないのか?」
「うん。降ると思ってなかったから」
「⋯⋯よし。今日は俺の傘持って帰んな。俺は残る仕事があるから早く帰れないし」
「ううん、だめだめ。それだとマスターが濡れちゃう。走れば駅まですぐだから大丈夫だよ」
「だめだめ。どこの世界に女の子濡らして帰す店長がいるんだよ」
「えっと⋯⋯ここの世界?」
「いねぇわ」


 痛快に返されたその時、カウンターの奥に腰かけていた一人の青年が「ぷっくっく」と肩を揺らした。

 その青年へ、名前は気恥ずかしい心地で視線を向ける。

 常連というわけではない。非常に不定期に店を訪れ、頻度としては平均してふた月に一度来るか来ないかだろうか。それでも顔を覚えているのは、態度や口振りからマスターと何かしらの馴染みがあるようだからだ。しかし互いに多くは語らず短い言葉を交わし、青年は一人で一、二杯を飲み──ノンアルの日さえある──、比較的短時間で帰っていく。

 彼について知っていることといえば、マスターが彼を「みゆき」と呼ぶことくらいだ。名前はそれが、苗字なのか名前なのかも知らない。


「マスター、俺でよければ送っていきますよ。俺、傘持ってきてるし」
「よしきた、名案だ。名前、送ってもらえ」
「ちょ、何言ってるの、お客さんに」


 慌てる名前を余所に、マスターは無駄にいい笑顔で青年を親指で差す。


「大丈夫、コイツ俺の後輩」
「後輩⋯⋯? それで仲良しなんだ」
「そういうこと。だから送ってもらえ。御幸なら安心だし」
「ま、待って、マスターにとっては後輩かもだけど、わたしにとっては話したこともほぼないお客さんだもん。そんな不躾なこと⋯⋯」


 申し訳なさ。困惑。そして何より、緊張が勝る。ほぼ初対面の人──しかもイケメンだ──と、ひとつ傘の下。濡れぬように肩を寄せながら、駅までの道を歩けというのか。コミュ力普通の名前には些か荷が重い。


「俺のこと気にしてんなら全然大丈夫だけど⋯⋯もし知らない男と歩くの嫌だったら、この傘貸すし」
「いえ、それはマスターの立場がお客さんになっただけで全然意味ないです⋯⋯」
「な、名前。こう言ってくれてんだから送ってもらえ。それか料金店持ちでタクシー呼ぶか?」
「う⋯⋯」


 未だかつて雨が降っているというだけでこんなに女の子扱いされたことはない。嬉しいことのはずなのに、非常に申し訳ない。

 こういう場合にどうしたらいいのか、何が正解なのか、スマートに辿り着けたらいいのになと思う。可愛く素直に頷ける自分でありたかったような、きりっと華麗に躱せる自分でありたかったような。こうして優柔不断だから、自分がブレる。即決できない。自分という信念の弱さが、こんな場所で露呈する。


「今日は客も少ないし、御幸が帰る時に上がっていいから」
「⋯⋯ごめんなさい、よろしくお願いします」


 結局、マスターと青年、双方に頭を下げる。マスターは快活に笑い、青年は頷いてからネグローニの揺蕩うグラスへと口をつけた。

 少し時間をおいてから、カウンターに立つマスターの傍らに立ち、「ねぇ、マスター今日ちょっと強引じゃない⋯⋯?」と青年に聞こえぬよう超小声で話しかける。

 マスターはふふんと鼻息を鳴らし、悪い笑みを浮かべた。ああ、これは碌でもないことを考えている。絶対に。とても、碌でもないことを。


「名前は、浮いた話のひとつもないからな。いつもここで渋いオヤジばっか相手にするだろ。若いのとも話してみればいいのに、緊張するだとか言ってさ。俺からしたら人生経験積んでるオヤジの方が身構えるけど、まぁ、名前はオヤジ受けいいしな」
「な、なんの話⋯⋯?」
「つまりだ。たまには若いのとドキドキしてこいっつー話だ」
「⋯⋯は」
「しかもイケメンだしな。いーだろ」
「よ、余計なお世話です⋯⋯そして急におじさん臭いこと言わないでよ⋯⋯」


 がくりと項垂れた名前の背を、マスターは笑いながらパシリと叩いた。





 ぱしゃりと靴が水を弾く。都会の喧騒の中、それはやけにはっきりと耳に届いた。


「あの⋯⋯みゆき、さん」


 少しの沈黙にも耐えられず、語尾を上げ、問うように呼びかける。当たり前のように傘を持ってくれている青年は、小首を傾げるようにして名前を見下ろした。


「ああ、俺、御幸。御幸一也」
「苗字だったんだ⋯⋯苗字名前です。わざわざ送っていただいてありがとうございます」


 改めて頭を下げる。そうしてから顔を上げると、御幸がじっと名前を見ていた。今度は名前が小首を傾げる。


「あの⋯⋯何か?」
「いや⋯⋯俺ら多分同い年だよ、って思ってさ。すごい敬語使うもんだから」
「えっ?!」


 名前は隠すことなく驚きの声を上げた。
 完全に見た目からの推察であったが、名前とマスターのちょうど間くらいの歳だと思っていたのだ。


「この間別の客と話してんの聞こえたんだけど、四年生なんだろ。大学の」
「そう、です」
「じゃあ同い年」
「うそ! 大人っぽすぎ⋯⋯」
「ははっ、そんなことねぇよ。名前ちゃんがちょっと子どもっぽいだけ」


 名前の敬語が外れたと時を同じくして、御幸の態度も柔らかく砕ける。

 見た目、というのは少し語弊があるかもしれない。形容し難いのだが、彼の醸す雰囲気というか、纏うオーラというか。それらが名前の回りにいる同年代とは明らかに異質なのだ。

 熟れてるというか、場数を踏んでいるというか、落ち着いているというか。

 これで同い年と言われてしまえば、自分がひどく幼稚な存在に思えてしまって、恥ずかしい。


「御幸、くん⋯⋯は、マスターの後輩なんだよね」


 恐る恐る、名前を呼んでみる。彼のほうからわざわざ敬語のことに触れるあたり、こう呼んで差し障りはないはずだが、どんな反応が返ってくるか、少し身構える。


「うん。お世話になったOBってとこだな」


 とまあそんなことを気にかけていたのは名前だけだったようで、そう呼ぶのが当たり前、といった様子で会話を続ける彼に安堵し、名前も口を開く。


「じゃあ御幸くんも野球してた人なんだ」
「してたっつーか⋯⋯うん、まぁ、そうだな」
「?」
「や、何でもねぇ。それよりあの人さ、ああ見えて昔は凄かったんだぜ。今でも母校の練習とか顔出してるんじゃねぇかな。社会人チームにも入ってるし。俺が高校生の頃は結構頻繁に練習見に来てくれてさ、こってり絞られたよ」
「へぇ」


 思いを馳せてみる。マスターと彼の、青春の地。まだまだ青くて、我武者羅で、真っ直ぐな。彼らの青春。


「でも、練習って⋯⋯最近ちょっとお腹出てきてるけどいいのかな、逆に迷惑かかってなきゃいいけど」
「まぁ⋯⋯東さんとかいたし⋯⋯」
「どなたですか東さん⋯⋯」
「俺の二個上の先輩。プロだぜ。腹出てるけど」


 その言葉に、名前は目を丸くした。プロ。御幸は今、プロと言ったか。そうか。甲子園に出場するような強豪校なのだから、プロ選手を輩出したって何らおかしくはないのだ。ただ、名前には想像もできない世界なだけだ。


「ね、マスターとはずっと仲良しなの?」
「いや、俺が高校卒業してからは会うこともなかったんだけど、二年前くらいにばったり再会してさ。そん時に店持つことになったって教えられて」


 二年前。この店ができた時だ。それから一年が経った頃、経営が少し軌道に乗りつつあるから、と名前を雇ってくれたのだ。

 水溜りのできた路上。濡れたアスファルトに、街のネオンが反射する。異なる歩幅。名前よりも少ない足の運び。足元を濡らす飛沫。肩に時折触れる彼の腕。盗み見るように御幸を見上げると、彼は、ただ静かに雨を見つめていた。その横顔から、その瞳から、名前は目が離せなかった。

 なんて、──静かな強さを宿す人なんだろう。

 見惚れてしまった。声をかけられなかった。こんなに近くにいるのに、酷く遠くにいるような。──ああ、そうか。きっと彼は、確固たる“自分”というものを持っている人だ。名前の持たぬ強さを、持つ人だ。

 ぎゅうと胸が苦しくなる。
 この苦しさを、名前は知っている。胸の奥で、甘酸っぱく切なく心臓を締め上げる。この感情を、名前は知っている。

 ああ、やだな。こんな、一目惚れみたいな。まんまとマスターの思惑に踊らされているではないか。

 名前の視線が御幸から離れないことに気がついたのか、御幸は「? どした?」と名前を見下ろした。


「あ、その、えっと⋯⋯雨、やだなあ⋯⋯って思って」
「へぇ、なんで?」


 不思議そうに問われ、名前も負けじと不思議な面持ちで問い返す。


「御幸くんは嫌じゃないの?」
「そーだな。別に好きでも嫌いでもねぇかな」
「えー、そんな人もいるんだ。だって傘差したって濡れちゃうし、湿気すごいし、なんかどんよりしちゃって」
「ふうん。雨の中も野球すっからなー、あんま気にしたことねぇな。けど良いこともあるんじゃねぇの⋯⋯何かって聞かれたら、ぱっとは答え出てこないけど」
「あはっ、出てこないんだ」


 ぽつぽつ、ぽつり。雨粒が傘を撃つ。

 決して弱くはない雨。行き交う人々。車の音。それなのに傘の内側だけが、切り取られた無音の世界のようだった。不思議と静謐で。互いの声と息遣い、雨音だけが鳴り響く。

 そうだね、御幸くん。悪いことばかりではないのかもしれないね。

 そんなことを、──思った。





 それ以降、時偶店に訪れる御幸とは、少しずつ話をするようになった。会話といってもあの傘の中ほどの濃密さはない。一枚壁を感じるように思う御幸の私生活にも踏み込まない。それでも会話はいくらでもできた。


「あ、また」
「?」
「今日も難しい顔してる」
「⋯⋯そう? 気のせいじゃね」
「ううん。御幸くんはね、お店に入ってくるときはいっつも難しい顔してるの。で、帰るときになると、少し晴れてる」


 御幸の私生活は知らない。彼が自ら語ることはないし、名前が聞くこともない。反対に御幸も名前に踏み込んではこなかった。

 この場所だけでの絶妙な距離感。稀に訪れる邂逅。それが酷く心地よかった。

 そんなふうにして出逢ううち、気がついたことがある。

 御幸はたぶん、何かがあったときにここに来るのだ。嫌なこと、辛いこと、うまく行かなかったこと。店の戸を潜る御幸はいつもどこかに力が入っていて、空気がぴんと張り詰めている。

 それが、ここで小一時間にも満たない時間を過ごすうち、帰る頃には些か和らいでいるのだ。

 この場所が、御幸にとってそういう場所であるのなら。名前も嬉しい。


「マスターのおかげ?」
「んー、まあ、どっちかってーと名前ちゃんだけどな」
「?」
「知ってる? 俺がこの店に来るようになったのって、ここ一年の話なんだぜ」
「一年⋯⋯?」


 首を傾げる名前を見て、御幸が楽しそうに笑う。

 そんな御幸がプロ野球選手なのだと名前が知るのは、もう少し先のおはなしである。





◆驟雨に流離う◇


Contents Top