爪先立ちでさよならを

 素っ気ないものだった。
 段ボールたったの数箱。これが新しく住まう寮に送る荷物だという。華々しい門出だというのに何だかそんな気が全然しなくて、名前はつい「えっ、これだけ?」と口にしていた。


「少なすぎない? ちゃんとパンツとか入ってるの?」
「入ってるわバーカ」


 呆れたように笑った御幸に、こつりと額を小突かれる。

 御幸の部屋を見回す。もともと野球一色の味気ない部屋だったが、段ボールを運び出してしまえばより一層物がない。大きな家具類は残っているとはいえ、これはもう殺風景と言っても差し支えないだろう。

 そんな状態の部屋であるから寂しく感じそうなものだが、レースのカーテンを照らす春のやわらかな陽射しとその温もりに助けられ、むしろあたたかみを増したようにさえ思う。

 光の溜まる窓際へと足を向ける。
 よくこの窓の下から、御幸のことを呼んだ。「一也ー! 遊ぼー!」と、大きな声で。そうすると少ししてから窓が開いて、「また来たのかよ、飽きねぇな」なんて小学生らしくもない台詞を吐いて、そのくせ結局一緒に遊ぶ。それは御幸が野球を始めるまで続いた。

 名前と御幸は保育園から一緒だった。

 意地悪なのに嫌いにはなれなくて、いつしかそれが好ましくさえ思えて。笑うとあどけない顔とか、時々寂しそうに空を見上げる瞳とか、弱音も吐かずに自分でご飯を作ろうとするところとか、名前から誘わなければひとりでご飯を食べてしまうところとか。

 そんなところがわかるくらい、いつも御幸と一緒にいた。否、一緒にいたというよりは、御幸を追いかけ回していたというほうが表現としては近いのかもしれない。

 何にせよ、いわゆる幼馴染というやつだ。


「あ⋯⋯これ、忘れてるよ」


 ふと目に留まる。机の上に置かれたままの、土に汚れた軟球。

 名前はこの球を、よく知っている。

 御幸が小学生の頃、はじめて柵越えホームランを放ったときのボールだ。そのホームランを名前は目の前で見ていた。綺麗なアーチを描いて外野に落ちたそのボールのもとへ、名前は誰よりも速く走って辿り着き、そしてこっそりと自分のリュックに詰め込んだ。誰にも回収されたくなかった。絶対に取っておきたかった。

 御幸の、はじめてのホームランボール。

 記念だから、と御幸の部屋に飾らせたものの、御幸はさして興味もなさそうで、むしろそれは名前にとってのお守りのようなものだった。

 御幸の大事な試合の前。勝ったとき。負けたとき。御幸がヘコんで見えるとき。いつだってこのボールに、名前は祈ってきた。

 ──一也が、野球に負けませんように。

 父子家庭で育った御幸が、何にも妥協せず唯一のめりこんだもの。好きで好きで堪らない野球。そんな野球に、負けませんように。ずっと好きでいられますように。

 そんな願いは、御幸と野球が切っても切れない関係なのだと気付いたその日から、変わった。

 ──一也が明日も、野球できますように。

 こうして“御幸を”願うことで、名前は自分を支えてきた。いつだって一人で強く立ち向かっていく御幸の姿に、支えられてきたのだ。


「ああ、それはもともと持ってくつもりはねぇんだ」
「あ、そうなんだ。そういえば相部屋だし、飾るのも照れくさいかもね」


 飾ったが最後、御幸が同室者にイジられる光景を思い絵描き、名前はくすりと笑みを零す。それに比しじっとボールを見つめたままの御幸が、ぽつりと呟いた。


「⋯⋯お前さ」
「ん?」
「これ、持っててくんない?」


 いつの間にかおおきく男らしくなっていた手が、置かれたままの軟球を手に取る。


「⋯⋯わたしが?」
「うん。名前が持ってて」
「⋯⋯どうして?」


 手の中でくるくると回るボールを見下ろしたまま、御幸は何かを思い出すように目を細めながら続ける。


「お前、しょっちゅうこれに何か願掛けてんだろ。俺が居なくなったら、この家にも頻繁には来れないだろうし」
「⋯⋯やだ、気付いてたんだ」
「そりゃお前、あんだけ怨念みたいなの纏わりつかせて祈り捧げてたら誰だって気づくだろ」
「お、怨念?!」
「そうそう、こんな顔してさ」
「そ、そんな顔してないもん! ちゃんと可愛くお願いしてるし!」
「ははっ、あれが可愛いって顔かよ、必死になってさ」


 ──そりゃあ、そうだよ、必死だよ。

 名前は心の中で零す。
 御幸から野球を取ってしまったら、どうなってしまうのか。名前はそれが怖かった。だから必死に、御幸がいつだって野球ができるようにと願ってきたのだ。


「なんか腑に落ちないけど⋯⋯じゃあ⋯⋯預っておくね。大切に」
「おう、頼むな」


 手のひらを差し出す。御幸の唇が笑みを作る。差し出した手に、軟球がふわりと降り立った。ゴムの感触がするそれを、きゅっと握り締める。


「⋯⋯ね、明日見送りに行ってもいい?」
「見送り? いいよ、そんなの。ただ寮に行くってだけで同じ東京なんだし、ただ電車乗るだけだし」
「もう、可愛くないなぁ」


 御幸は明日、入寮する。
 幼少期から一緒に育ったこの街を離れ、ひとり。旅立っていくのだ。





 ざあ、と風。
 真っ直ぐに伸びた線路を駆け抜ける風に、名前の髪が靡く。

 ホームで電車を待つ御幸が、呆れた顔で隣に立つ名前を見下ろした。


「いーって言ったのに。わざわざ見送りなんて」
「ふふ、誰も来なきゃ来ないで寂しいくせに、無理しちゃって」


 軽口を叩きながら、名前は必死に心を堰き止める。寂しいのは、名前。無理をしているのは名前だ。許されるのなら今ここで、御幸を抱きしめてしまいたいほどに。

 溢れそうになる涙を懸命に堪えていると、御幸が顔を覗き込んでくる。「ほら、お前のほうが泣きそうじゃん」だなんて、ほんとそういうところだぞ。

 潤んだ瞳のままぷくりと頬を膨らませる。御幸は「悪かったって」とまったく悪いとは思っていなさそうな顔で笑って、それからどこか遠くへと視線をずらした。

 その瞳に、空が見える。
 グラウンドの空だ。白球が駆け、砂塵の舞う、グラウンドの空。御幸の瞳に住まうその空は、いつも名前を魅了してきた。


「⋯⋯でも、来てくれると思ってたよ。サンキュ」


 くしゃり。頭のてっぺんを撫でられる。
 その瞬間、名前の涙腺が決壊し、頬をあたたかい水滴が伝っていく。頭に乗った手の温度が心に深く刺さり込む。

 電車がホームに滑り込む。線路と車体の隙間で生じた甲高い金属音が、御幸と名前の足元を攫っていく。御幸の視線を感じるが、顔を上げられない。御幸の顔を見れない。笑って「いってらっしゃい」と言いたかったのに。何度も練習したのに。

 目の前に居座るこの鉄の塊が、御幸を連れて行ってしまう。


「名前」
「⋯⋯っ?!」


 俯いたままの後頭部に御幸の手が回り、そのまま肩口に抱き寄せられる。

 突然の出来事に、名前は呼吸を忘れた。目を見開くが、御幸に顔を押し付けられているせいで彼の鎖骨しか見えない。ただ静かに、御幸の服を名前の涙が濡らしていく。


「あ、の⋯⋯一也⋯⋯?」
「⋯⋯心配しなくても、ちゃーんとココに持ってくよ。いつだって俺には名前がいることも、いつだって名前が俺を応援してくれてるってことも。だからこそ、頑張ってこれるんだから」
「⋯⋯っ」


 こんな。こんなの、どうしたら。
 こんなに優しい抱擁、──忘れられるわけないではないか。


「ははっ、ひでぇ顔。じゃーな、行ってくる!」


 プシュ、と開いたドア。御幸の身体がぱっと離れる。

 名前の涙で濡れたままの服を纏って、笑顔だけ残して。御幸は何の後腐れもなく軽々と入り口を跨いだ。御幸の未来に繋がる一歩。名前との間には悠久にも思える一歩。

 名前は一歩たりとも動けなかった。

 動けずにただ、名前を見下ろす御幸を見上げる。永遠にも思える静寂が過ぎ、そして無情にドアが閉まる。名前と御幸の間に鉄の境界線が引かれる。

 音の遮断されたドアの向こうで、御幸の唇が「ありがとな」とかたちを作った気がした。

 電車が離れていく。
 御幸が離れていく。

 笑顔だけ。
 いや、──名前だけを残して。





 あれからどれだけ月日が流れただろう。
 名前の部屋には、今でもあの軟球が飾ってある。

 “苦しい。哀しい。辛い。逃げたい”。生きていれば幾度となく訪れる負の場面に直面するたび、名前は今でも、御幸を想う。今日も変わらず野球にひたむきなのであろう御幸を想って、今もひとり懸命に在り続けているのであろう御幸を想って。

 名前も懸命に、生きていくのだ。





◇爪先立ちでさよならを◆


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