プリズムの幻惑

 燦々、なんてどこか美しさを感じる優しいものではなかった。これは世界を焼き尽くしにきている。そう思うほどじりじりと焦がしつける太陽の下、暑さに負けじとはしゃぐ仲間たちを、御幸は呆れた眼差しで眺めていた。

 そもそも自分には到底不釣合な場所だ。
 飛沫の上がる真夏のビーチ。きらきら反射する海面。香ばしい匂いの漂う海の家。水着姿の老若男女が入り乱れる。

 ダメだ。向かねぇ。あいつらこのきらきらした場所で、よくもまぁ自分の庭みてぇに遊び回れるな。

 そんなことを思い、ビーチパラソルの下に敷かれたシートの上に腰を下ろす。帰るまであと何時間だろうか。来たばかりなのにそんなことを考えていた、その時だった。

 背後から、声。


「あ、まーたこんなところで一人でいる」
「⋯⋯名前先輩」
「相変わらずこういうところは苦手?」


 すとん。隣に座った久しぶりに聞く声に、御幸は顔を向ける。


「俺がきゃぴきゃぴはしゃぐように見えます?」
「ううん、全然」


 そう言いながら御幸を見た名前は、一瞬ぱっと目を見開いて、「わぁ」と声を上げた。


「ふふ、サングラス似合いすぎ」
「それ褒めてんすか?」
「すごく褒めてる! かっこいいよ。スポサンを彷彿とさせるからかなあ、似合いすぎなのは」


 ストレートに“かっこいい”と告げられ、御幸は一瞬返答に詰まる。どうせお世辞なんだろうと思いつつ、それでも悪い気はしなくて「そっすか」と照れ隠しのように素っ気なく返す。

 名前と会うのは一年半ぶりだった。

 ひとつ上の学年で野球部のマネージャーをしていた名前が、卒業する時に会ったのが最後。卒業後もたまに試合を観に来てくれていたらしいが、「スッと応援に来てスッと帰るOGになるのが夢だったの」などと言って、現役部員には会わずに帰っていたらしいのだ。

 故の、一年半ぶり。

 華の大学生を謳歌しているのであろう名前は、あの頃の面影を残したまま、少し大人になっていた。笑顔だけが何も変わっていなくて、何故か少し、安心する。


「泳がないの?」
「俺はここでいいっす」
「ふふ、何しに来たの」
「アイツらがしつこく誘うから根負けしただけ」
「愛されてるもんねえ」
「⋯⋯勘弁してくださいよ」


 ゲンナリと御幸が見遣った先では、かつて共に汗を流し白球を追った男達が、ビーチボールを追いかけ回している。なぜ、今日なのだろう。この多忙な時期に希少も希少な休日を、なぜこの男達は知っていたのだろう。


「先輩は泳がないんすか?」
「泳ぐよー、これから浮き輪借りてくるの。御幸くん一緒に行かない? 浮き輪なら浮いてるだけだし」
「はは」
「あ、笑って誤魔化す。そんなに行きたくないか。じゃあわたしもここにいよーっと」
「? 行ってきたらいいじゃないっすか。俺別に一人で大丈夫だし」
「⋯⋯そういうとこだぞ御幸一也」


 御幸くんと一緒にいたいって言ってるのに、何でわかんないかな。と頬を膨らませた名前を、御幸は不思議そうに見遣る。そんな御幸の表情を見て、名前は反省する。これがいわゆる察してちゃんか、と。そしてすぐに膨れていた頬を戻す。


「ごめん、今のナシ」
「?」
「あ、わたし、なんか食べ物見てこようかな。御幸くんは? 喉乾いたりしてない?」
「あ、飲み物ほしいっす。さっぱりめのヤツ」
「はーい、わかった」


 綺麗にペディキュアが塗られた五趾が砂浜を踏み、すっと立ち上がる。海の家の方向へ向かおうとしたその姿を見上げ、御幸は口をぽかりと開けてしまった。


「⋯⋯っちょ、先輩」
「ん?」


 名前が振り返る。今まで隣に座っていたから気が付かなかったが、な、なんつー格好してんだこの人。

 最低限のところだけを隠した水着。きゅっと上がったヒップ。胸元にはちいさなフリルがあしらわれ、露出を抑えながらもしっかりと胸のかたちが分かる。

 開いたままの御幸の口から落ちたのは感嘆、──ではなく溜め息だった。

 いや、泳ぎに来たのだから然るべき格好なのだ。そうなのだが、高校時代には知る由もなかった身体のラインに、思わず声をかけてしまった。

 だって、ほれ見ろそこら中の男の視線釘付けじゃねぇか。あっちも。こっちも。皆が欲にまみれた視線を向けている。

 何となく、鳩尾のあたりがモヤついた気がした。御幸は腹部を見つめながら小首を傾げる。

 ──なんだ、今の。モヤっとしたの。


「なあに? やっぱり一緒にいく?」


 首を振って邪念──なのかは定かではないが──を振り払う。きょとりと首を傾げている名前へ、ぼふす! とパーカーを被せる。御幸がたった今まで着ていたものだ。


「わっぷ?! な、何するの」
「海入らないならそれ着ててください、流石に勿体なさ過ぎ」
「はい⋯⋯?」
「いや⋯⋯これはこれでマズイか⋯⋯」


 自分のパーカーにすっぽり包まれている名前の姿を見て、御幸はむむ、と口を結ぶ。肘までを優に覆う半袖。ヒップラインをすれすれで隠すパーカーの裾。ダボついた肩。

 これはこれで、問題ありである。


「いや、けど生身よりはマシか⋯⋯?」
「な、なまみ⋯⋯?」
「ま、いーですこれで。じゃあ行きましょう」
「は、はあ⋯⋯結局一緒に行くのね⋯⋯?」


 不思議そうに御幸を見上げながらも、名前は御幸と並んで海の家へと向かっていった。

 名前一人で行かせることができなかったのだ。野放しにしてしまえば、ビーチパラソルと海の家を往復する間に絶対に男が寄ってくる。御幸たちも大勢の男所帯でここに参上しているが、どうしたことか皆少年の心が抜けておらず、遊ぶことに全神経を注いでいる。名前を無事に生還させられるのは御幸しか残っていないのだ。

 そんな御幸の心など露知らぬ名前は、パーカーの襟元を軽く摘み御幸を見上げた。


「ねー、御幸くん。これ、着てないとだめ?」
「ダメっす。嫌ですか?」
「嫌ではないけど⋯⋯だって、せっかく御幸くんと海に来てるのに⋯⋯」


 心なしか俯いた名前の唇が、人知れずきゅっと結ばれる。

 名前は、御幸が好きだった。

 高校生の頃からだ。随分と生意気な子が入ってきたな、と思っていたのも一瞬のことで、気が付けば正捕手の座につき、その存在は青道にとってなくてはならないものになった。厳しいところもある。冷たいと思うところもある。しかし全てには彼なりの道理が通っていて、野球や仲間を思うが故のことも多かった。その中で見せる笑顔や優しさが、眩しかった。

 けれど御幸はいつだって野球に貪欲で。
 そして、野球しか見ていなかった。

 そんな御幸だから好きになったし、そんな御幸だから伝えられなかった。彼にとって何よりも好きなものであろう野球から、名前に目が向くとは思えなかった。想いを伝えることで、御幸の邪魔になりたくなかった。そしてやはり、怖かった。

 ──ごめんなさい。

 その一言を、御幸の口から聞くのが。

 だから、高校を卒業して、短大に進んで、そのうち新しい恋をしようと思っていた。

 思って、いたのに。

 いつまで経っても名前の心から御幸がいなくなってくれることはなく、そして御幸以上と思える相手が現れることもなかった。

 ──拗らせちゃったな。

 そんなことを思っていた夏。「皆で海行こーぜ!」に御幸も参加すると知って、拗らせきった自覚のある名前は、むしろ意気揚々と水着を選んだというわけである。

 だから、つい溢してしまった。「せっかく御幸くんと海に来てるのに」、なんて。

 後悔先に立たずとはこのことだ。
 御幸に会えるからお洒落をしてきたし、どうせなら可愛いと思ってもらいたい、という邪な気持ちはあったが、大いにあったが、決して想いまで伝えようとは思っていなかったのだ。

 ただ、久しぶりにその姿を収めて。名前はただの“先輩”であることを再確認して。そうしてまた、別々の場所で生きていく。未だ姿を見るだけで苦しくなる胸を持て余したまま、いつかこの気持ちが風化してくれるまでを生きていく。

 そのはずだったのに。


「なーんて、ね。やっぱりさ、せっかく今日のために買った水着なんだから、世界に見せびらかしたいじゃない」


 慌てて繕ってはみるものの、御幸から向けられる視線が痛い。非常に痛い。双眸はサングラスのせいで朧気にしか見えないのに、伝わってきてしまう。先程の名前の発言をスルーすべきかツッコむべきか、御幸が逡巡しているということが。

 どうしよう。
 御幸くん、困ってる、よね。

 何とか先の言葉を無かったことにしたくて。何かを言いかけた御幸を、無理矢理遮る。


「⋯⋯名前先輩、今の──」
「御幸くん! やっぱり入ろう! 海! ぱーっと! 何もかも忘れるくらいぱーっと!」


 きらきらと反射する水面に向き直った名前を、御幸のサングラスが映す。遮られてしまった。「今の、どういうことですか」と続けるはずだった言葉を。

 御幸は、恋愛事には疎い方ではあると思う。しかし、超絶鈍感ではない。ああして際どく言葉にされれば、名前が言わんとしていたことくらいは、わかる。もしかすると自惚れであるかもしれないが、それでもわかる。

 だから、これから。御幸は考えるのだ。
 高校時代の名前。今の名前。そして先程の言葉の本当の意味と、名前にパーカーを被せたときの靄の意味を。

 燦々たる真夏の太陽に目を細めながら、考えるのだ。





◆プリズムの幻惑◇


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