綿菓子をあげようか

 玄関の鍵が回った気配に、名前の見ていた夢がぱちりと弾けた。あまりいい夢ではなかった気がするが、どうだっただろう。忘れてしまった。


「熱出たって? 夏風邪?」


 次いで聞こえたのは御幸の声だ。
 名前は重たい瞼を持ち上げる。あまり深く考えずに返事をしていた。


「⋯⋯ん⋯⋯わかんな⋯⋯」
「なんか症状あんの?」
「うー⋯⋯ん⋯⋯喉が⋯⋯って一也? え?! なんで?! いるの?!」


 がばりと起き上がる。その瞬間、バグでは? と思うほど頭が痛み、「あ、頭も⋯⋯痛いです⋯⋯」と言いながらベッドにぽふりと倒れ落ちる。

 なぜ、どうして、ここに御幸が。

 考えたいのに、頭が痛くて、気持ちが悪くて、ぼーっとして、思考が上手く纏まらない。考えられない。

 ただ、そんな頭でもひとつ確かに思うのは、シーズン真っ只中であるはずの御幸がここにいてはいけないということだ。


「だめだよ、帰って⋯⋯何で知ってるの」
「お前昨日から大学休んでんだろ。仲間思いの良い部員じゃん?」


 御幸の言う“部員”とは名前が通う大学の野球部の部員で、名前が昨日からダウンしているということを彼らのうちの誰かから聞いたということだろう。


「誰よぉ⋯⋯教えたの」
「さあなー」


 誰、というか。
 御幸と連絡を取り合える関係にある部員なんて、倉持くらいしかいない。大学でも野球を続けている仲間は数多いるが──名前も相変わらず野球部のマネージャーをしている──、この国には大学も数多あるのだ。皆それぞれの場所に散り、その中でたまたま名前は倉持と同じ大学というわけである。


「倉持くんだ。絶対、倉持くん」
「ははっ、ひっでー声。カスカスじゃん」
「そう、カスカスなの。だからだめ。こっち来ちゃだめ。⋯⋯来てくれてありがとう、でも早く帰って」
「せっかく来たのに酷えなぁ、俺の彼女は」


 一年の中で最も忙しく、そして体調管理にも最も細心の注意を払わなければならない時期だ。それなのに。恐らく夏風邪にぶっ倒れているだけの彼女の部屋に、こんな時ばかり合鍵を使って訪ねてくるなんて。

 しかも御幸ときたら、名前が臥せっているベッドに暢気に近付いてくるではないか。しかもしかも、きちんと手洗いうがいを済ませてから。何でそこはちゃんとしてるくせにここに来ちゃうの、と毒づきながら、名前はベッドサイドテーブルを見る。マスクは、見当たらない。水が中途半端に入ったコップとスマホが置いてあるだけだ。故に慌てて薄手のタオルケットを鼻まで引き上げ、辛うじて覗いた双眸で御幸を見上げる。


「酷くていいの。とにかくだめ。うつっちゃう。シーズン中になんで⋯⋯」


 ギシリ。
 ベッドの端に掛けた御幸に、見下ろされる。その瞳には稀に見るやわらかさが湛えられていて、名前はタオルケットの下で唇をへの字に結んだ。

 御幸がこの部屋に来た時点で、無駄なのだ。いくら名前が説得しようとも、御幸は帰らない。帰ってはくれない。

 体調管理の重要性など名前に言われるまでもない。それを一番理解しているのは当事者である御幸だし、ここに来ることのリスクを天秤に掛けた上で、足を運んでくれているのだ。

 ああ、何故。
 こんなにも愛おしく感じるのだろう。

 御幸を見ていると目眩がしてしまいそうで、タオルケットに両眼も仕舞う。そうなると出ているのは額と頭だけで、その前髪をさらりと払いながら、御幸が首を傾げる。

 甘ったるく、そして悪戯な。


「⋯⋯なあ、ほんとは?」


 そんな声音で問われて。名前は泣きそうになりながら、タオルケットを握る手のひらに力を込めた。


「⋯⋯来てくれてうれしい、です、すっごく」
「はは、可愛いヤツ」


 顕になったおでこに、ちゅ、と唇が触れる。その瞬間、掛布に隠れた名前の顔にぼんっ! と赤味が差した。な、何てことをしてくれるんだ。今ので熱が確実に一度は上がった。頭がさらに痛い。悪化した。悪化したではないか。

 本当に、何てことをしてくれるんだ。


「ちょっとかずや⋯⋯なにするの⋯⋯」
「何でもいーだろ。それより飯は? 何か食えたのか?」
「ん⋯⋯それ、なりに」
「⋯⋯ほんとは?」


 タオルケットを少し下げられ、双眸を覗き込まれる。頬に御幸の手が滑る。硬くなった豆だらけの。厚くて広い手のひらだ。


「⋯⋯今朝からしんどくって、お水がやっと」
「やっぱな。何か作るわ。少しは腹に入れねぇと。台所勝手に使うぞ。あと一人でも食えそうなモノいろいろ買ってきたから、置いておくからな」


 ギ、とベッドが鳴って。御幸の体重分沈んでいたマットレスが、弾みながらもとのかたちに戻る。

 台所に向かっていくその背中に、ごめんね、と言いかけて。


「⋯⋯ありがとう。でもマスクはしてね、お願いだから」


 そう、掠れる声で呟いた。






 台所から、懐かしい音がする。

 とんとん。くつくつ。ほかほか。

 包丁がとん、とまな板に落ちて。お鍋がくつくつと音を立てる。ベッドから台所は直接見えないのに、優しく立ち昇る湯気が目に浮かぶ。そのぬくもりと芳しさに、うとうとと夢と現実とを行き来する。

 懐かしい感覚だ。
 幼い頃、体調を崩して学校を休むと、リビングの近くに敷かれた布団に寝かされ、この音を聞いていた。「名前が寂しがるから、皆がいるリビングの近くに寝かせてたのよ」と母は言っていた気がする。

 わかる。その気持ちが今でもわかる。
 ほんの数メートル先で名前のために食事を用意してくれている御幸の背に、今すぐにでも抱きつきたいのだから。

 まぁどうにもこうにも身体が怠くて、抱きつきにも行けないわけなのだが。






 どのくらい時間が経っただろう。
 うっすらと目が覚めて。そしてまた浅い眠りに落ちる。それを何度も繰り返していた気がする。

 不意にひやりと額に冷たい感触。頭は火照っているのに妙に肌寒くて、それなのに額の冷たさが甚く心地よく染み入る。


「⋯⋯、ん」
「あ、起こしちまった」
「ごめん、わたし⋯⋯寝て⋯⋯た?」


 しょぼりと瞬く。ダウンライトの薄明かりの中、傍らに御幸がいた。その格好いいお顔の下半分がきちんとマスクに覆われていて、少しだけ罪悪感が減る。

 額へと意識を向ける。手だ。御幸の手が、熱を測るように額を覆っている。水仕事をしてくれたからだろうか。程よく冷えた手のひらが、名前の熱を吸い取ってくれている気がした。


「いーんだよ、そんな申し訳なさそうに聞かなくて。つーか寝ないとだめ」


 どうしよう、と。名前は眉を寄せる。どうしよう。すごく、──優しい。

 御幸の言葉が、表情が、へたった身体に浸透していく。いや、普段の御幸が冷徹という意味ではないのだ。確かに自他ともに認める腹黒さやキツイ物言いは今尚健在だが、気を許した人間に対する心根は普段から優しい。

 それが前面に出ることがないだけなのだが、如何せん今は、それが前面に出ている。慣れないむず痒さが走る。しかしそれさえも心地がよい。このまま身を委ねてしまいたい。

 御幸の優しさに。埋もれてしまいたい。


「食うのもう少しあとにするか? 米ならお粥、あと麺入れるだけにしてあるうどんも用意してあるけど。厳しかったら果物とか⋯⋯」


 ベッドに頬づえを付きながら名前を見つめている御幸の、その頬へ。名前はそっと指先を添わせる。


「かずや」
「ん?」
「⋯⋯大好き」


 零れ落ちたのは一方的な睦言。
 風邪のせいで掠れてしまったその声で、御幸への恋慕が零れ落ちる。

 刹那、御幸はまんまるく目を見開いて。少し──と言うには些か長い──沈黙を挟んでから、「⋯⋯⋯⋯は?」と呟いた。


「何、死ぬのお前? 大丈夫かよ?」
「⋯⋯あはは、ひどーい」


 名前が普段は言わないことを口にしたからだろう。明日雪でも降んじゃねぇの? なんて可愛くないことを言いながら、それでも何度も頭を撫でてくれる。

 名前は思う。今度からは、思った時に口にしよう。御幸が好きだと。とてもとても好きだと。言葉にしよう。何度も好きを伝えるせいで、御幸が「ほんと物好きだねぇ、お前」と呆れるくらいに。


「⋯⋯一也、もう帰る?」
「いや、今日は泊まる。ちゃんといるから。大丈夫。だからもう少し目閉じてろ、辛そうだぞ」
「⋯⋯でも、寝るのもったいない」
「はぁ?」
「何か⋯⋯お粥も食べれそうな気になってきた⋯⋯」
「そりゃよかったけど⋯⋯お前やっぱなんか変だぞ、大丈夫か?」
「ふふ、大丈夫だよ」


 心の中が甘い。いつかたまたま見かけた露店でねだった三個入りの綿菓子を、口いっぱい頬張った時のような。

 じんわりと広がって、胸がいっぱいに満たされている。




◇綿菓子をあげようか◆

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