結晶が降ったからさ

 カラリ。背後で窓が軽やかに開く。その音に名前は顔を上げ、振り返った。

 
「一也」
「隣で寝てねぇと思ったら⋯⋯お前は朝から何してんだか」
「ふふ、見つかっちゃった。おはよう」
「はよ」


 呆れたように笑った御幸から、吐息が白く浮かび上がる。

 とあるマンションの一室。そのベランダ。部屋着に大きなブランケットを羽織っただけの名前に、これまた部屋着のままの御幸がサンダルをつっかけて近付く。名前が片側のブランケットを広げ「どーぞ」と招くと、御幸は大人しくそこに収まった。

 寝起きでぬくい御幸の体温を感じ、束の間目を細める。起きたばかりで名前を探しに来てくれたのだと思うと、自然と頬が緩んでしまった。
 

「降ったねぇ」
「降ったな」


 真白な雪に朝陽が反射する。結晶のひと粒ひと粒に乱反射して、きらりきらりとまばゆい。
 
 一センチといったところだろうか。夜のうちに薄っすらと積もった雪が、ベランダの端や手摺にも積もっていた。


「で? 雪にテンション上がって朝っぱらから雪だるま作ってたってか?」
「あはっ」


 ベランダの隅に一体。ちいさな雪だるまがちょこりと陣取っている場所を指差し、御幸は肩を竦めてみせる。笑った名前が今一度、手摺の上の雪を集め始めたからだ。


「もう一体作んのか?」
「うん、一人じゃ寂しいだろうから」
「手ぇ真っ赤だぞ。ったく素手で作ったりするから」
「わたし毛糸の手袋しか持ってないもん。大丈夫、作ったらすぐ家入ってあっためるから」
「⋯⋯変わんねぇな、お前も」
 

 その言葉に、名前が首を傾げる。

 
「ほら、昔もこんなことあっただろ。沢村がいたから高二の頃かな」
「⋯⋯?」
「沢村と作ってたじゃん。朝練の前に」
「あ⋯⋯思い出した」

 



 高二の冬だった。


「あいてっ」
 

 ぽこり。頭に硬い感触がして振り仰いだ名前は、バットケースを肩にかけ直している御幸をその視界に収めた。


「御幸くんかぁ、おはよう」
「はよ。何やってんの」
「雪だるまを! 拵えております!」
「それは見りゃわかるけど」


 手乗りサイズの雪だるまを二つ。ベンチの端に並べていた名前に、御幸が呆れた声を落とす。そんな御幸に、名前と一緒になって雪だるま──こちらは手乗りサイズとはいかない──を拵えていた沢村が揚々と声を掛ける。
 
 
「キャップ、おはようございます! いい雪合戦日和っすね! 一戦どうっすか?!」
「しねーよ。俺ら野球部で雪合戦なんてしてみろ、死者が出るっての死者が」


 しっしと言い返した御幸に、名前が笑う。


「あはっ、ほらやっぱり。駄目って言われちゃった」
「はぁーつまらん。せっかく雪降ったってのに⋯⋯予想通り過ぎてつまんねぇっすよキャップ。ねぇ苗字先輩」
「ねぇ沢村くん」


 しゃがんで額を突き合わせ、にこやかに文句を言いながらぺたぺたと雪だるまを作っている名前と沢村の傍らに、御幸がよっこいせと屈み込む。


「つまるつまんねぇじゃなくて、怪我でもされたら困るんだっての。てか苗字、手ぇ真っ赤じゃん」
「あ、ほんとだね」
「手袋履けって」
「わたし毛糸のしか持ってないの。大丈夫大丈夫、朝練終わったらすぐあっためるか、ら──っ?!」


 それは突然のことだった。
 
 御幸の取った行動に、名前は目を見開き硬直する。息さえ止めた名前の目の前で、御幸の唇の隙間から昇る真白な吐息だけがただ、空へとくゆる。


「あっ、あの、御幸くん⋯⋯っ?」
「朝練終わるのなんて待ってたら、指もげるぞ。女の子なんだから手冷やすな」


 今の今までウィンドブレーカーのポケットに仕舞われていた御幸の両手が、名前の凍えた両手を包み込むように握っていた。

 ──あつい。
 
 包まれた指先が、瞬時に熱を持つ。その速度と温度ときたら、一体自分の身体のどこにそんな熱産性能が備わっていたのかと不思議でならない程だ。

 そして心臓の喧しいこと。

 普段は大人しく規則的な鼓動を刻んでいる心臓が、かつてないほどに喧しい。

 
「い、今こそもげそうなんですが⋯⋯わたしの心臓が⋯⋯」
「は? 心臓?」


 頬を真っ赤に染め上げた名前の顔を見下ろして、御幸は「へぇ⋯⋯」と意地悪く笑ったという。

 が、このとき“なっ、なんで御幸くんわたしの手握ってるの?!”とか“御幸くんこんなキャラじゃないじゃん!”とか、俯きながらぐるぐると考えていた名前が、そのことを知る由もない。
 
 ちなみに余談だが、同じ場所にいたはずの沢村は、自身の雪玉を育てることに熱中するあまり、この色恋沙汰の気配に全く気が付いていなかったというのだから、その集中力も凄いものがある。



 

「あの時も、こうだった。手ぇ真っ赤にしてさ」


 御幸の両手が、あの時と同じく。名前の凍えた両手をそっと包む。あの時と違うことと言えば、名前の左手の薬指にダイヤが光っていることくらいだろうか。

 
「ふふ、そうだったね。一也が急に手握ってくるから、わたし心臓もげちゃうかもって思って」
「今はもげねぇの?」
「あはっ、もげないです。でも、幸せには埋もれちゃいそう」
「はは、バーカ」


 あれからもう、七年が経っている。

 若かったあの頃を思い出すのは少しこそばゆく、そして異様なノスタルジーに駆られる。誰がなんと言おうとあの三年間は、あの時だけの。

 ──特別なものだった。


「あの時はもう、一也も好きでいてくれたの? わたしのこと」
「そーだよ。じゃなきゃあんなことするかっての」
「案外硬派で一途だもんね」
「案外は余計だ」
「ふふ、うれしいんだよ」


 繋いだ両手はそのまま。頭にこつりと、御幸の額が当たる。ブランケットの中の温度が、ゆっくりとあたたかくなっていく。


「あの時さ、思ったんだよ。雪でこんなに無邪気に笑えるお前のこと、俺が──」
「⋯⋯俺が?」


 傾げた首。きょとりと据えられた瞳の間、鼻頭をとんっと押される。

 
「⋯⋯何でもねぇよ」
「あーん残念。もう少しだったのに。聞きたかったな」
「⋯⋯ベッドの中でならいいぜ? あったまるついでに」
「な⋯⋯なんて誘い方を⋯⋯」
「ははっ」
 

 物凄く感情が読み取りにくいと思ったら、不意に手を握ってきたりとか。不敵でチャラそうと思いきやそんなことはないくせに、その懐に入れた者にはめちゃくちゃ一途だったりとか。意地悪に甘い言葉を囁いてくれることもあれば、つんと口を噤んでしまったりとか。

 この小難しさに、名前はいつまでも恋をするのだと思う。


「ほら、そろそろ入るぞ。風邪引いちまう」
「はーい」
 

 手を引かれ、あたたかな室内に入る。その足の向く先が本当にベッドなのか、それとも食卓なのか。それは御幸のみが知るところだ。
 
 二人の体温が去ってしまったベランダ。そこでは、恐らく昼には崩れてしまうのであろう雪だるまが、寄り添うように佇んでいた。




 
◇結晶が降ったからさ◆

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