群青
「⋯⋯夢、か」
ふつりと夢が途切れ、意識が浮上した。目に映るのは見慣れた天井。枕の隣で、スマホから目覚まし代わりの歌が流れている。
昨日、寝る前にアラーム音をただの電子音からこの曲に変えたせいだ、こんな夢見たの。絶対そうだ。懐かしいな、なんて軽い気持ちで、なんでこの曲にしちゃったんだろう。
だってこの曲は。
──彼のヒッティングマーチだった。
胸が苦しい。切ない。もう十年も前のことなのに、思い出すだけで今でもこんなに痛くなる。
自然と寄ってしまった眉根を自覚しながら、恨めしい気持ちでアラームを解除し、束の間瞼を閉じる。夢の中で彼が触れた唇に、そっと指先を添える。
──そっか。もう、十年も経ったんだな。
◇
十年前。青春真っ只中、高校三年生だったわたしは、恋をしていた。
あれは、恋だったと思う。
何がきっかけだったのかはわからないけれど、いつからか、気づくとその姿を追っていた。
同じ制服が並ぶ中で彼の姿だけが際立って見えて、ぼんやりしているといつの間にか彼のことを考えている。授業中も黒板より彼の背中が気になって、帰宅時には少し遠回りをして部活中の姿をなんとなく視界におさめたり、試合は必ず応援に行ったり、彼のチームメイトにそれとなく話を振ってみたり。
そんな一方的な生活を、わたしはどこかで楽しんでいたんだと思う。もっと好きになることも、幻滅することも、失恋することもない安全圏で、ただその憧憬を紡ぐ。
そして、想いは伝えずに高校生活を終えるという少し切ないエピソードを思い描いては、若干の“悦”さえ混ざった感傷に浸ったりもしていた。
つまり、見ているだけで満足していたのだ。
しかし日常とは突然に乱れるものである。
調子に乗ってこんなことを続けていたら、ある日、倉持のバカに気づかれて、あれこれ茶化された挙句、「アドレスくらい俺が言って交換させてやるよ、お前見てんの焦れったいし」などというイベントを発生させられたのだ。
倉持の人間関係把握力を見誤っていた自分を叩いてやりたかった。そして、急に降り掛かった展開に耐えられなかったわたしは、倉持にこしょこしょと噛み付いていた。
「(だって御幸くんだよ?! 絶対女子とメールとかしないじゃん!)」
「わかんねぇだろ、いーからホラ」
「(でもっ、)」
「何でだよ、好きなんだろ? 何もしねえと何も始まんねぇぞ」
「(ちょっと、大きな声で最もらしいこと言わないでくれる?! だから、その、恥ずかしいんだってば)」
だって至近距離に御幸くんがいて、わ、わた、わたしをしっかりと見ている。ああ、怪訝そうな──というか不審そうな──顔もカッコイイ。ていうかもっと可愛くしてくればよかった。寝坊した自分の馬鹿バカばか!
キャンキャンと倉持と言い合っていると、痺れを切らしたらしき彼が声を掛けてきた。
「あのー⋯⋯何してんのお前ら?」
「ひっ、いえ、ナンデモナイデス!」
「ははっ、超片言なんだけど」
そう笑って、彼は、御幸くんは、ポケットから携帯電話を取り出した。
「いーよ。アドレスくらい」
「⋯⋯へ?」
「だから、アドレス交換しよっつったの」
「⋯⋯もしかして、聞いてた?」
「まぁ、その、大体は」
若干照れくさそうに後頭部をがしりと掻くその仕草は、わたしと倉持のやり取りを聞いていたことを証明するには十分だった。
ていうかきっと大体どころか全部聞いてましたよね?
「やだ、ちょっとー! 倉持のバカー!」
わたしの気持ちバレちゃったじゃん!
ぷんすかと倉持へ当たり散らす。倉持は「お前が騒ぐのがワリィ」だなんて開き直っていて、より一層ぷんすかしかけたところで、わたしはとあることに気づき、はたと動きを止めた。
「⋯⋯あれ? それでも交換してくれるの?」
「そ。ご不満?」
「⋯⋯とんでもございません」
当初の彼の真意はわからなかったし、それは後々になってもわからなかった。それでもアドレスを教えてくれるというのだから、このときのわたしは喜んで教えていただいたのだ。
御幸くんのメールは、なんて言うか、イメージ通りだった。飾り気がなくて必要最低限の。でも返事は必ずくれるし、たまーにだけれど御幸くんからも連絡をくれた。寮のご飯がどうだった、とか、後輩──確か沢村くんという名前だった──がウルサイとか、それから後輩がウルサイとか。
他愛もない日常を知れることが嬉しかったし、文字を通しての会話はとても楽しかった。教室でも自然と話すことが増え、いつも窓際でひとり──もしくは倉持とふたり──でいた姿を、遠くから見ているだけではなくなった。
楽しかった。
好きだった。
だから、後悔している。
「苗字、」
「ん?」
ぱたりと出逢った放課後の廊下のすみ。ちょうど誰もいないタイミングで、御幸くんは、真剣な面持ちでわたしを呼んだ。
真っ直ぐな瞳だった。はじめてこんな目で、真正面から見つめられた。
──⋯あ、れ。
この雰囲気は、ちょっと、やばいかな。
そう直感した。
「もう気づいてると思うけどさ、俺も⋯⋯苗字が好きだよ」
「⋯⋯⋯⋯っ、」
うん。わかってた。御幸くんがだんだんわたしに好意を向けてくれてたこと。嬉しかった。舞い上がってた。わたしも、大好きだもん。
でも。
「⋯⋯なんでそんな困った顔すんの?」
「っ、⋯⋯ごめん」
「⋯⋯謝られてもわかんねぇよ」
応えられない。
付き合えない。
わたしはもうすぐ受験で、彼はもうすぐプロになる。たいした夢もなければ目標もないわたしと、野球と生きていく彼。距離的にも離れ離れになることが目に見えているのに、その上で、自信を持って彼の手を掴むことなんて。
わたしには、できない。
知ってしまえば戻れなくなる。寂しくなる。恋しくなる。不安になる。重荷になる。
好き。大好き。
だからこそ、これ以上は近寄れない。知らないでほしい。わたしの嫌なところも、駄目なところも。どうかこのまま、御幸くんが好きと言ってくれたわたしのまま、そっと記憶のどこかに閉じ込められたい。
「大好きだよ⋯⋯でも、ごめんなさい」
「⋯⋯俺が何言っても駄目なんだろ? きっと」
「⋯⋯」
「じゃなきゃそんな顔しねぇよな。後悔してもしらねえぞ?」
「⋯⋯うん」
「⋯⋯ほんと、馬鹿だなあ」
泣く資格なんてない。それなのに止めることができない。頬を優しく拭ってくれるその手を、拒むことができない。
なんて、我儘なんだろう。
「正直さ、断られるなんて思ってなかったわ。⋯⋯結構、くるな」
「⋯⋯っ、御」
──御幸くん。
そう言おうと思った。
しかしそれは叶わない。
彼の唇に塞がれ行き場を失った彼の名前は、わたしの心に生涯刻まれることになる。
「ん、⋯⋯っぅ」
「⋯⋯忘れさせねぇよ」
「っは、⋯⋯んん」
全身が痺れるような、はじめてのキス。心も身体も全部奪っていく。男の人の腕の中。優しく撫でてくれる大きな手。わたしの勝手な我儘を、必死に受け止めてくれる。
痛かった。自分のせいなのに、わたしのせいでしかないのに、苦しいと思ってしまった。
なんで。どうして。
好きなのに。
そんな言葉に埋め尽くされた、わたしたちの、最後だった。
◇
あの頃。不器用に紡いだ日々。もう戻れないあの日々が、懐かしいだけだ。どうやったってもう二度とは手にできない青春の時。大人になってから振り返ると、あの頃はあまりにも儚く脆く輝いている。
こんなこと考えても仕方ないのはわかっている。もう二度と、彼との運命が交わることはないのだということも、今の自分──これはこれで結構好きだ──があるのも、あの時あの選択をしたからだということも、わかってはいる。
でも、もし。もう一度あの頃に戻れるのだとしたら、わたしは迷わず君の手を取るよ。
あの頃の幼いわたしでは上手なお付き合いはできなくて、付き合ってみたら全然性格があわなかったりして、きっといつか別れる未来が待っているのだとしても。
それでも。
迷わず、君の手を取るよ。
ほんと、馬鹿だったなあ。
苦い味のするコーヒーを無理やり流し込んで、今日も、ひとりオフィスへと向かう。
あの頃、遠く高かった青空は、いつの間にか狭くて近くなっちゃったな。なんて思いながら。
◆群青◇
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