いつまで宝物なんだろう
「ほら苗字! 今日で最後なんだから!」
「無理ムリ無理、心臓もたないもん⋯⋯!」
「気合い入れりゃ大丈夫だ! それより早くしねぇとあの人、ほんとに卒業しちまうぞ?!」
「だからそれでいいんだってば⋯⋯!」
「お前ぜってぇ後悔するって!」
「もー聞く耳もたない! わたしが“しない”って言ってるのに〜〜〜!」
沢村に引き摺られる廊下に、名前の絶叫が木霊していた。
◇
名前は、野球一家に生まれた。
幼い頃から野球をしていたという父は、結婚しても、子どもが生まれても、変わらずに野球を続けていたらしい。平日は公務員。休日は草野球の傍ら少年野球のコーチ。名前が物心ついた頃には、この生活が定着していた。
名前の兄と弟は、父の影響か、気が付けば野球をしていた。名前も小学生になってから少しの間だけ野球をした事があるのだが、およそ一週間で、自分でプレーするよりも父や兄弟を母と応援しているほうが性に合っていると気が付いた。
昔からキャッチャー一筋の父。その影響を受け同じくキャッチャー一筋の兄。父と兄に球を取ってもらうのが嬉しくて、ピッチャーの道を選んだ弟。
名前は、名前たちは、こんな絵に描いたような野球一家に育った。
しかしだからといって兄弟が華々しい野球街道を進めたかというと、そういう訳ではない。
兄弟とも、野球は大好きだった。
向上心を持っていて、たまにへこたれたりしながらも練習も懸命に取り組んで、いつも上手くなりたいと願っていた。いつか野球の強い学校に行って、甲子園にも行きたい、なんて。そんな夢を皆で語っていたこともあった。
しかし、現実とは厳しいものだ。
彼らは、野球での道は拓けなかった。
努力はきっと、裏切りはしない。だがそれが目に見える結果として実るとは限らない。スポーツの世界は特に、顕著であるかもしれない。それを嫌というほど突き付けられた。兄は高校進学を機に野球を辞め勉学に励む道を選んだし、弟は中学入学とともにダンスに転向した。
それでも家族皆野球は好きで、夏は甲子園の中継を観ることもあるし、プロ野球観戦に球場へ足を運ぶこともある。
そして、高校生になった名前はというと。自宅から近いという理由で選んだ青道高校で、自校の野球応援に青春を捧げていた。
「──あ、苗字! 昨日の試合観に来てくれてただろ!」
「えっ」
同じクラスの沢村と春に初めてした会話が、これだった。初会話に何の臆面もなく臨む沢村にどぎまぎし、名前は、視線を泳がせた。それに構わず、沢村は続ける。
「野球好きなのか?」
「えっと、その」
「ん?」
「──⋯⋯うん、好き」
“好き”と答えることに一瞬躊躇ったのは、沢村の人懐こさに圧されてしまったというのもあるし、もしかしたらマネージャーに誘われてしまうかもしれないという懸念──観戦は大好きだが、年中無休でのサポートは無理である──もあったし、何よりも、沢村の真っ直ぐで無垢な瞳に、いつかの兄弟の姿が重なったからだ。
この子も、野球が好きなんだな。
そう知るだけで、名前の警戒心は容易く解かれた。沢村と打ち解けるのにもそう時間はかからなかった。
◇
「苗字お前、昨日も観に来てなかったか?」
「わ、また見つかった。なあに、ずっと客席でも見てるの? 沢村くん」
「ははっ、そんなワケあるかよ。お前が分かりやすいとこにいるんだって。いっつもバックネット裏だろ?」
「ふふ、昔からの癖で」
「ふうん?」
首を傾げる沢村に、簡単に苗字家のこととを説明する。
「すげぇ! 野球一家じゃん」
「そうなの。わたしは観る専担当」
「ほぉ〜それで毎回応援来てくれんだな」
「入学する前は大きい大会だけ行こうと思ってたんだけど⋯⋯自分の学校がこんなに強いのって、何か嬉しくて。観ててすっっごく楽しいし、わくわくするし──」
「? 楽しいしわくわくするし?」
言いかけたままフリーズした名前に、沢村が問う。名前は少し逡巡してから、超小声かつ超早口でこう続けた。
「⋯⋯⋯⋯御幸先輩が超かっこいい」
「は?」
「な、なん、何あれ、あんな高校生いる? 」
投手と捕手のみで構成された野球一家に生まれ育った名前は、全てにおいてあれ程ハイレベルなプレーをする捕手を間近で見られることに、得も言われぬ興奮を覚えたのだ。プレーの呼吸やリード、身体の動かし方、立ち居振る舞い。ムラのあるバッティングでさえ、彼を魅せるものに思えた。
しかも、何といっても顔がいい。超好み。めちゃくちゃドストライク。スポサンを装着している姿も、プロテクター完全装備の姿も、気付けば眼鏡に戻っている姿も、ユニフォームも、制服も、果てはジャージでさえ、まぁよく似合うのなんのその。
つまり名前は、御幸の。外から見えるすべてに、惹かれたのだ。御幸の存在を知ったあの日、名前は一瞬で御幸の虜になった。
それからというもの、公式試合のみならず、沢村から情報を入手しては練習試合も観戦に行った。バックネット裏に集う高校野球ファンに紛れて。自らの存在を消しながら、常にマウンドに向き合う“二番”の背中を見つめ続けた。
名前に無いもの全てを持っているように見えて、強烈に憧れた。
楽しみなことは観戦以外にもあった。
沢村が話してくれるのだ。御幸の日常エピソードを。頼んでもいないのに。
それはきっと、大好きな著名人の秘話を自分だけが知れた時の興奮と同じもので、名前はいつも「沢村くんが御幸先輩の相棒で本当のほんとーによかった⋯⋯こんな話がタダで聞けるなんて⋯⋯何か供えなきゃ罰当りそう⋯⋯」と沢村を拝んでいた。そして供物という名のお礼──スポーツドリンクやお菓子など──を、ひとつ。話を聞くたび、名前は沢村に供えるようになったのだ。
ちなみにいつからか、この様子がクラスの名物となっていることを当の二人は知らない。
彼のこと、そして彼らのことを考えると、いつだって異様に胸が高鳴って、苦しいほどに切なくなった。たった一プレーに感動し、涙が出そうになることがある。実を結ばなかった結果が悔しくて、ともに唇を噛み締めたこともある。それでも絶対に前を向く彼らの姿に、名前は確かに、支えられていたのだ。
◇
一度だけ、聞かれたことがある。
「苗字ってさ、こんなにずっと俺ら応援してくれてて、こんなにずっと追いかけてんのに⋯⋯あの人に声かけたりしなくていーのか?」
「⋯⋯え」
「たまにいるぞ? あの人にラブレターみたいなの渡してくる女子とか、一緒に写真撮ってくれって頼んでくる女子とか、手作り菓子持ってくる女子とか」
沢村は言うのだ。名前は御幸とお近付きにならなくていいのか、と。それを聞いた名前は束の間驚いて、それから真剣な面持ちで沢村を見上げた。
「わたしはね、この距離がいいの。御幸先輩がわたしを知らないから、わたしは目の前でなりふり構わず堂々と応援できる。御幸先輩と接点がないから、こんなふうにアイドルの追っかけみたいなことして毎日頑張る力をもらえてる」
「??? 別に近付いたって変わんねーじゃん。今言ってたの全部できるだろ」
「あはは、できないよ」
「なんで」
「御幸先輩に近付くと、心臓爆発しちゃうもん。それに認識されちゃったら、恥ずかしくてバックネット裏行けなくなっちゃうと思う。外野席の一番端とかに隠れちゃうと思う。わたしにとってはもう、神様みたいなものだから」
ぱちぱち。沢村の丸い双眸が、何度も何度も瞬いた。それから持ち前のおおきな声で笑い出す。
「わっはは、お前はあれだな、キャップに幻想を抱きすぎなんだなー」
「ふふ。だからこのままがいいの」
名前ははっきりと自覚している。これは断じて、恋ではないと。
だから目の前でその姿を見ることができて、彼に届くはずの声援を構成できているのであれば、それで十分過ぎるほどなのだ。
こんな追っかけに捧げた二年間の青春。それは名前のこれまでの人生で最も色濃く、充実した時間だった。
しかしそれにも、終わりが来る。
御幸の卒業。御幸とこの距離でいられる夢のような時間の、タイムリミット。卒業後、すぐにプロに行く御幸とはもう、この距離で息をすることさえ叶わない。
プロでプレーする御幸。これから増え続けるであろうファン。球場では応援ボードや幕に彼の名が連なり、ショップでは彼のグッズが所狭しと並ぶようになるはずだ。勿論名前だって、テレビで御幸を見ることも、球場で生で御幸を見ることもできる。皆に与えられる権利だ。これまでと変わらず御幸を追いかけて、応援することができる。
しかし、別物だ。
この高校で過ごした日々とは、まるで別物だ。この日々は、この時だけの。
──本当に特別なものだった。
寂しくないと言えば、それは大嘘だ。ずっとこの時間が続けばいいのにと思ったこともある。けれど、期限があるからこそいいのだとも思う。終わりが決まっているから。いつか本当に手が届かなくなる人だと知っているから。だからこそ、短い日々に懸命になれる。懸命になれた。
こうして御幸の卒業式当日、最後の感傷に浸っていた時のことだ。どこからともなくやってきた沢村に、突然腕を引かれたのは。
「よーし! 行くぞ苗字!」
「どっ、どこに?」
「決まってんだろ、あの人んとこ! 写真撮ろーぜ!」
「はっ?! しゃしん?! ちょっ、待って待って待って、何言ってるの、本当の本当に無理の無理で無理です⋯⋯っ!」
「いーからいーから」
「よくないよくない、無理だって死んじゃう⋯⋯!」
ぎゃいのぎゃいのと騒ぎながら、ずるずると廊下を引き摺られる。もう本当に無駄に力が強い。「今日で最後なんだから」だの「ぜってぇ後悔するぞ」だの。優しさなんだかお節介なんだか分からないが、とにかく、名前にそんな気は本当にないのだ。
むしろ御幸と話したりしてしまえば──ましてや写真だなんて──、理想と憧れで強固に塗り固めた大切な思い出が、壊れてしまうかもしれない。それが怖い。この二年間の思い出は特別だ。それがあるだけで、この先の人生、何があっても生きていけると思えるくらい、名前には特別なものだ。
壊したく、ない。
必死に抵抗していると、短く息を吸った沢村が「それに、」と。彼にしては珍しく静かな声で呟き、窓の外へと視線を動かした。ここではないどこかにある、遥か向こうの空を見つめている気がして、名前も思わずその視線を追う。
卒業に相応しい。澄み渡った空だ。
「それに、お前みたいなヤツの想いは⋯⋯ちゃんと届けねぇと」
「⋯⋯?」
「それって俺にしかできないことだと思うんだよな」
「⋯⋯??」
「ほら、行くぞ!」
何事かを空に向かって溢した沢村の瞳が、やけに真剣で。結局名前は抵抗しきれず、沢村に連行されることになったのだった。
「あ、いたいたキャップー! ちょっとこっち良いですか! 来てくだせぇ!」
「あ? ったく、お前が来いよな」
そう言いながら足を向けてくれた御幸を見て、名前は心臓が縮み上がるのを感じた。やっぱり無理だ。無理すぎる。こ、こんな、こんなに、近くに⋯⋯!
泡でも吹いてしまいそうな状況に、死に物狂いで堪える。
しかしそうとは知らない気楽な二人は、いつもの調子で会話なんぞを繰り出し始めた。
「何だよ沢村? どーせあとで部員皆で集まるだろ」
「いや、俺じゃなくてですね。どーしてもあんたに会わせたいヤツがいて⋯⋯俺のクラスのダチなんですけど」
「⋯⋯?」
ちら、と御幸の視線が動く。それが名前を捉えて、まるで「誰? 何の用?」と言っている気がして、名前は泣きそうになりながら沢村の背中に隠れた。足が震えている。いや、全身が震えている。息が苦しい。苦しいのにうまく吸えない。
──御幸に見られた。しかも不審そうに。怪訝そうに。迷惑そうに。いやだ。もういい。もう十分だ。逃げ出したい。これ以上は、心も身体ももたない。
だというのに、暢気な沢村が名前の心に気付いてくれるはずもなく、そのまま暢気に名前を紹介し始めるものだから、いよいよ気が遠くなるのを感じ始めていた。
「こいつ、苗字名前っていいます。ずーーーーーっと、マジで入学した時からずーーーーーっとキャップと、それから一応俺ら青道野球部のファンなんです。や、九割九分キャップですかね。俺、苗字がどんなに一生懸命応援してくれてたかマジのマジで知ってるから、最後にどーーーーしてもあんたに会わせて記念に写真撮ってやりたくて! まぁ全部俺の勝手なお節介なんすけど──」
言いながら振り返った沢村は、瞠目した。
いつの間にか背後に隠れていた名前が、今にも倒れそうな様相でふらっふらになっていたからだ。
「って苗字! 大丈夫かよ?! キャップに会っただけでほんとにそんなんになっちまうか?! 相手は俺らと同じ人間だぞ?!」
「だ、だからずっと、そう言って⋯⋯ちょっとおおきい声出さないで、吐きそう⋯⋯」
「おい! 気をしっかり持てぇ苗字!」
「ははっ、漫画みてぇな台詞だな沢村」
何が可笑しいのか御幸は、両肩を掴まれ揺すられる魂の抜けかけた名前を見て、笑った。その笑顔を目にした瞬間、名前の中のどこかが限界を迎えた。反則だ。イケメンが過ぎる。
「わ、わっ、笑⋯⋯っ!」
「あーっ! 苗字! 死ぬなぁ!」
「もう⋯⋯死んでもいい⋯⋯」
「ちょっと! あんたが笑ったりするから苗字がトキメキ過ぎちゃったじゃないですか!!」
「いやなんつー言い掛かりだよ」
いつもこんな感じなのか、御幸と沢村、言い合っていても二人の間の空気は不思議と落ち着くものだった。
その穏やかさに少しだけ気持ちが落ち着く。それを沢村も感じ取ったらしい。僅かに小首を傾げ、視線で「何かこの人に言いたいことねぇか?」と問うてくる。
──壊したく、なかった。
けれど、けれど。ここまで来てしまえば、伝えたいという欲が出てしまう。出てしまった。名前にとって御幸がどんな存在なのか。どれだけ御幸に力をもらっていたのか。どれだけ応援しているのか。これまでも、これからも。
一度考えてしまうと抑えることはできず、名前は意を決し、震える唇をゆっくりと動かした。
「み⋯⋯みっ⋯⋯みゆゆっ」
「だ⋯⋯大丈夫だ苗字、落ち着け、深呼吸しろ、ほら一緒にやるぞ」
と、名前につられて緊張し焦った沢村が、マウンドでよく見る深呼吸を目の前で披露してくれる。
すう、と吸って。はあ、と吐く。
これを馬鹿正直に繰り返して、名前は再度口を開く。高ぶりすぎて溢れてしまった心は、いつしか涙となって結膜を覆っていた。
「み⋯⋯みゆ、き先輩⋯⋯」
目に溢れるものの意味を、沢村も、そして御幸も確かに感じ取っていた。ただ静かに名前の言葉の続きを待っている。
「ず⋯⋯ずっと、応援してました⋯⋯わたし、先輩の野球する姿が──」
大好きです、と。
そう言葉にするのは躊躇われた。それは決して恋愛的な意味ではないのだが、それが相手に正しく伝わるとは限らない。二度とはないこの機会。できるだけ正しく、自分の心を伝えたかった。
「──毎日を生きる力でした。こんなの、大袈裟に聞こえちゃうかもしれないですけど、その、わたし、本当に⋯⋯っ」
正しく伝えたいと思った矢先、上手く言葉にできない自分が立ちはだかり、俯く。そんな名前を見下ろして、御幸は静かに、しかしはっきりと言葉を発した。
「──ありがとう」
「⋯⋯⋯⋯っ?」
「俺、すぐに野球しか見えなくなっちまうから⋯⋯毎回来てくれてたことは知らねぇんだ。でも確かに、届いてたと思う」
御幸の拳が、ぽすりと自身の胸を打つ。
いつも自分たちを包んでくれた大声援。その声に幾度背を押されたか分からない。その中には確かに、名前の声があったのだ。
この様子を満足そうに見ていた沢村が、「よーし苗字! よく言った!」と名前の頭をわしゃわしゃと撫でる。乱暴なくせに優しい手つきに、名前の涙腺が、ついに決壊した。
止めどなく溢れる涙が頬を伝い、堪えきれない嗚咽が漏れる。
「あーあ沢村、女の子泣かせてやんの」
「いや泣かせたのはあんたでしょーが!」
「え⋯⋯俺になんの?」
「うわ、何自分は関係ないみたいな顔してんですか! 当然でしょう! ほらさっさとハンカチを出す!」
「持ってねぇよ」
「わ、わたし自分で持ってます⋯⋯」
申し訳なさそうにハンカチを取り出し涙を拭う名前に、沢村が更なる追い打ちをかける。
「よぉーし次は写真だ! 二人ともそこに並び給え! 苗字は涙止めろよ!」
「はっ⋯⋯?!」
片目にハンカチを当てたまま、名前は人生で最も大きく目を見開いた。
「も、もう十分過ぎるよ、これ以上何かしたら罰当たる⋯⋯! 先輩にだってご迷惑だし⋯⋯!」
「いや、全然。いーぜ」
「へ⋯⋯っ?!」
案外しれっとオーケーしてくれた御幸に、名前の喉からは頓狂な声が出た。御幸はこういったことは嫌いだと思っていたが、一体どういう了見だろう。
自然と上目遣いになり、御幸を見る。御幸からは「どーした?」とでも言いたげな表情が返ってきて、近距離でのイケメン砲に白目を剥きそうになった。
その反応を可笑しく思いながら、御幸は沢村との二年間を振り返っていた。御幸に何らかのアプローチをしてくるのは名前が初めてではないが、沢村がこうして間を取り持つようなことをするのが、初めてなのだ。そこに沢村なりの意味を感じ、御幸は首を縦に振った。
「ってお二人さん?! どんだけ離れる気だよ! そんなんじゃ画面に入らん! ほらもっと! もっと寄れーーーーい!」
「だ、だって⋯⋯恥ずかしい⋯⋯!」
「この期に及んで四の五の言うなぁ!」
もじもじと足元に視線を落としていると、ずんずん近付いてきた沢村に、強制的に距離を詰められる。
肩と肩が、触れて。
「ひぃ⋯⋯っ! あっ、あのっ、心臓止まりそうだから早く撮っていただけますか沢村くん⋯⋯!」
「よぉし! では撮りますよ、ハイチー⋯⋯ってちょーーーっと待ったぁ!」
「⋯⋯今度は何だよ」
「何だよ、じゃなくてあんたですよキャップ! 何すかその顔は?! 二年間こーーーんなに応援してくれてた子にそんな顔ですか?! あーあ、プロになってからが思いやられますね!」
「いつもこんな顔だろ⋯⋯煩すぎて心の底から埋めてぇ⋯⋯」
「今何か言いましたかね?!」
「いや別に」
「まぁいいや、ほら笑って! にっこり! 甲子園に行ったときを思い出して! こらぁお前も笑うんだって苗字!」
「ふふ」
こうして終始喧しく、それでも何とか写真撮影は終わりを迎える。沢村が連写しまくってくれたおかげで軽く百枚を越える写真が入ったスマホを、胸の真ん中に抱きしめる。
「ほんとにすみませんでした⋯⋯でも、ありがとうございます。ほんとに⋯⋯ほんとにうれしいです⋯⋯先輩のこと、これからもずっと、応援してます」
伝えることができたのは、小学生のような感想。それでも名前の胸には、かつてないほどの幸福感が満ちていた。危惧していたように思い出が壊れることはなかった。むしろ一層の輝きを放ち、名前の心に刻まれる。
御幸を追いかけ続けたこの熱量は、いつか、少しずつ、少しずつ。失われていくのだろう。名前にもいつか恋愛的な好きな人ができて、もしかしたら結婚なんかもして、子どもも生まれたりして、そうしたら。
大好きなものが他にもたくさんできて。
守るべきものが両手いっぱいになって。
野球のことは、いつまでも好きだと思う。御幸のことも、ずっと応援していると思う。しかしそこに今と同じだけの熱量が宿ることは、きっと二度とない。
抱きしめたスマホを、名前はきつくきつく握りしめた。
◆
何度も振り返り頭を下げ離れていく名前を見送りながら、御幸は、傍らに残った沢村をちいさく呼ぶ。
「⋯⋯沢村」
「はい?」
「俺はさ、自分の⋯⋯自分たちのために野球やってたし、プロの世界に行っても、自分のために野球する」
「そーでしょうね」
「⋯⋯けど今、プロになるってことの意味、ちょっと考えさせられたぜ」
沢村が一瞬、目を丸くする。それから満足そうに頷いて、したり顔で笑んでみせた。
「わはは! そーですよ! どんどん考えて下さい。これからあいつみたいな人達の心を、五万と引っ提げて戦うんですから。あんたの姿見て、顔上げて生きてく人達だって、きっといるんですから」
「──ああ」
校庭の桜が舞っている。
どこか遠くを見るように、その瞳に散りゆく花びらを映す、憧れの人。この人に捕ってもらいたくて、この人に認められたくて、二年間足掻いてきた。その高校生活最後の姿を、沢村の瞳が静かに見つめていた。
◇いつまで宝物なんだろう◆
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