心をもぎとったら

「お、来たね。きみが御幸くんかぁ」


 まだ春休みが終わっていない、四月のことだった。

 寮の部屋の前に掛けられた「御幸一也」の名。それを見上げて、女生徒がひとり。荷物を運び込もうとしていた御幸に声を掛けてきた。振り返る。
 

「御幸一也くん。青道にようこそ、マネージャーの苗字でっす」


 陽気を含んだ日差しを背に受け、名前の輪郭が淡く光っている。日の眩しさに幾ばくか目を細め、御幸は少しの警戒心とともに返す。

 
「⋯⋯俺のこと、知ってるんすか」
「ううん、話に聞いてただけ。でも有名だよ、御幸くん。だから会うの楽しみにしてたんだ」
「へぇ?」
「礼ちゃん先生がずっと目付けてるって言ってたし、シニア出身の子たちも凄く上手なキャッチャーだって話してたし、」
「へー、そうですか。でも実際に見てもいない人に何言われてもなぁ」
「あと態度がおっきくて、歯に衣着せぬ物言いだって」
「ははっ」
「ふふ」


 ざあ、と風が吹く。
 春にいざなわれた花の香りなのか、名前から発せられるものなのか。仄かに甘い香りが御幸の鼻腔を擽る。


「で? その噂の俺をわざわざ見にきたんですか?」
「あはっ、まさかぁ。入寮した新入生の案内してるんだよ。寮の案内は後で伊佐敷くんたちがするって言ってたから、わたしはグラウンドとか練習場とか。その荷物置いたらおいで」
「ああ、──分かりました」


 御幸が頷いたのを見届けてから、名前はぱっと身を翻し離れていった。御幸の記憶には、眩しさと甘い香りだけが残った。
  



 
 恋心を自覚したのは、入学からひと月が経った五月の頃だっただろうか。

 いつの間にか御幸のことを考えるようになっている。そんな自分に、気が付いた。それから自分の行動に意識を向けてみると、なんと部活中は自然と目が御幸を追っているし、ドリンクを渡す機会があればそれとなく御幸に手渡せるように動いていたりするし、何やかんやと理由をこじつけて御幸に声を掛ける機会を作っていたりする。

 これを無意識にやっていたのだから、子供じみた自分の行動に笑ってしまった。

 ああ、だめだな。完全に落ちている。 

 そうはっきりと認識してから、振り返る。それではいつから御幸が好きなのだろうと。

 初めて会ったあの日は──興味が多くを占めていた。皆が噂している御幸一也という子は、どんな子なのだろうという興味。しかし、ひと目見た時に、ひと言喋った時に。既に心のどこかを奪われていたのだと思う。何となく気になるな。そういう感覚が残っていた気がする。

 では、御幸のどこに心を奪われているのだろう。考える。
 
 時には上級生の鼻に付きかねない、立場関係ない堂々とした態度も。どこか軽薄にも捉えられる言動も。黒い部分が見え隠れする性格も。ちょっとワルいのが寧ろいい、みたいな。そういう感じな気がする。

 いや、そんな自分もどうかとは思うのだ。悪い男──悪いわけではないのだが、便宜上──にほいほいと靡いている自分に、驚き半分、呆れ半分だったりするのだ。

 そう思うのはきっと、そういう人との恋は順風満帆にはいかないと予想がつくからだ。きっと人並み以上に傷付き、傷付けてしまうことがあると思ってしまうからだ。

 時に御幸から出る厳しい言葉は、女の子だとか彼女だとか、そういう括りに関係なく向かってくるし、きっと御幸にとっての“揺るぎない一番”は野球で、仮に恋人になれる未来があったとしても、想像するような恋愛──デートをしたり、休日に一緒に過ごしたり──は出来ないだろう。

 順風満帆には、きっといかない。

 しかし、それでも。それでも良いと思えるくらい、御幸のことが好きだ。一ミリも妥協しない野球への姿勢。先輩にだって臆面なく意見を言え、行動に移せる心の強さ。いつも貪欲な瞳。時折顔を見せる、分かりにくい優しさ。笑った顔。真面目な顔。揶揄っている顔。

 ──御幸が、好きだ。

 けれど、言うつもりはなかった。何度も口を衝きかけたが、いつもぎりぎりで踏みとどまることができた。
 
 日本一を目指し、彼が、彼らが、どれほどの努力をしているか知っている。どれほどの想いを懸けているか知っている。そこに恋愛が──そして名前が──入り込める隙間など、紙切れ一枚分もないのだ。

 だから、言わないように。
 必死に心を堰き止めた。

 かと言って、好きな人と話したい、好きな人と一緒にいたい、という平凡な欲までを捨てたわけではなかったので、アプローチとならない程度に御幸と接し続けた。普通に暮らしているよりも少しだけ、御幸と接する時間を持てるように。
 
 それが御幸にどう映っていたのかは分からない。何も感じていなかったかもしれないし、もしかすると少し、鬱陶しかったかもしれない。それでも名前の一方的な満足度としては、十分過ぎるものだった。

 こうして片想いに捧げた二年間。

 想いが届くことはなくても、その時間は本当に嬉しくて、楽しくて、幸せで、そして少しだけ苦しかった。




 
 卒業式の日だった。
 卒業証書の入った筒を手にした野球部の卒業生と、残る部員たちと。おのおのがグラウンドに集まり、最後の別れを惜しんでいた。そんな折だ。「御幸くーん、写真を一枚お願いしても?」と、名前に声をかけられたのは。

 
「いーっすよ、誰とですか?」
「ちがーう! シャッター押して欲しいんじゃなくて、わたしと一緒に撮って欲しいの!」
「あ、そっち」
「むしろよくそっち以外を思い付いたよ」
「ははっ」
「ふふ。はい、では撮りますよ」


 御幸の隣に並んだ名前が、更に一歩近付いて。肩と腕が、軽く触れる。少しだけ御幸のほうに頭を寄せた名前は、自分のスマホを構えた。てっきり誰かに撮ってもらうのかと思いきや、自分で撮るらしい。「ここ見るんだよ」と示された画面端の黒い円へと視線を送る。二秒後にはカシャ、と軽い音。直後、四角く切り取られた二人の姿が、名前のスマホに吸い込まれる。

 それを愛おしそうに眺めて、名前は、ぽつりと呟いた。
  
 
「御幸くんが──」

  
 その声は小さく、あたかも御幸の存在を忘れてしまったかのような独り言に聞こえた。まるで胸に秘めていた想いが心の縁から溢れ落ち、名前の知らぬ間に、それが言葉となって落ちたようだった。画面を見ているはずなのにどこか焦点が合っていない瞳が、画面と名前の間とをぼんやりと彷徨っている。 
 

「御幸くんが、同い年だったらな。そしたら一緒に卒業で⋯⋯そのネクタイ、千切ってでももらったのに」
「⋯⋯え」 
「心に、一番近いところ。ボタンよりもネクタイがいい。それをもぎとって⋯⋯一生大事にしたのにな」


 御幸は目を丸くして名前を凝視していた。御幸の視線の先でぼんやりと呟き続ける名前は未だ、御幸を見ようとはしない。

 ひとつ。ふたつ。みっつ。

 その間に名前の言葉を今一度頭の中で繰り返す。やはり聞き間違いではない。名前の言わんとするところをしっかりと理解した御幸は、スマホを持っていない方の名前の手首を、ぱしっと掴んだ。
 

「わ⋯⋯びっくりした、なあに」
「⋯⋯」
「──っ、え、な、御幸くん?」


 突然手首を掴まれ、驚いて御幸を見上げた名前の腕を、何も言わずに引く。軽い力で引いたつもりだったが、名前の身体は容易く動いた。

 それでも何も言わず、ただ、名前の腕を引く。些か不安げに「み⋯⋯御幸くん⋯⋯? みんなまだ集まってるよ⋯⋯?」と問うた名前は、御幸に何も言うつもりがないのだと悟ると、それ以上を訊ねることはしなかった。遠慮がちに連れられる名前の足音だけが、御幸を斜め後ろから追っていた。

 寮周辺まで連れていき、グラウンドからは目が届かぬ室内練習場の影に引き込む。壁を背にした名前にぐっと身体を寄せる。余計な手が出てしまわないように両手はポケットへと仕舞った。


「──先輩」
「⋯⋯っ」
「なんで今、言ったんですか」


 近距離で見下ろす名前は、明らかに困惑していた。「わ、わたし何か気に障ること言っちゃった⋯⋯?」と見上げてくる双眸に、自分のネクタイを摘みながら言う。


「俺のこれ⋯⋯欲しいんですか」
「⋯⋯っ、な、んで、知って」
「今さっき先輩が言ったんです、自分で。独り言みてぇに」


 目を丸くした名前は、しばらくそのまま硬直して、それから何度も瞬きを繰り返した。じっと御幸を見つめて、最後に観念したように「ごめん」と零す。

 冗談じゃない。自分だけ好き勝手に想いを吐露しておいて、それを「ごめん」の一言でなかったことにしようとでもいうのか。自分だけ楽になっておこうとでもいうのか。

 本当に、冗談じゃない。

 御幸だって。御幸だって、ずっと。言わずに秘めていたというのに。

 
「⋯⋯謝って欲しいんじゃない。なんで“今”言ったのかって聞いたんです。名前先輩が二年も頑なに言わなかったから、俺もずっと、言わねぇでいたのに」
「え⋯⋯どういう⋯⋯ていうか気付いてたんだ⋯⋯?」 


 いつからだろうか。
 御幸を呼ぶ名前の声が、耳に残るようになったのは。
  
 
 ──“御幸くんっ、おーはよ!”
 ――“御幸くん、昨日も一人でお昼ご飯食べてたでしょ。見ちゃった。今度一緒に食べようよ”
 ――“御幸くーん、見て見て! これうちの犬が昨日覚えた芸の動画!”


 いつも嬉しそうに御幸の名を呼ぶ名前の声を、いつしか心待ちにしていることに気が付いた。その後すぐに、名前も御幸に気があるのだと気が付いた。真っ直ぐだった。素直で心地のいい好意だったから、分かりやすかった。そして、それを叶える気がないのだということにも、すぐに気が付いた。
 
 だから、──だから。

 名前が何らかの理由で言わずにいるから。名前がそれを守り抜いているように見えたから。御幸もずっと、言わないつもりだったのに。


「あーもーめちゃくちゃ腹立つ。何も言わないで卒業して、ただの高校時代の先輩後輩の関係で終わらせるのが名前先輩の望みだと思ってたのに、違うんですか。しかもこんなタイミングで⋯⋯」
「⋯⋯言わない、つもりだったの。本当に。本当だよ。御幸くんがどれだけ野球に真剣に向き合ってるか知ってる。日本一がどんなに難しいことか、知ってる。だから絶対に言わないようにって⋯⋯なのに⋯⋯いざ会えるのが最後ってなったら、溢れちゃったみたい⋯⋯本当にごめんなさい。迷惑かけるつもりはなかったの」
「何勘違いしてるか知らねぇけど、俺、迷惑だなんて思ってねぇし⋯⋯つーか今の聞いて俺の気持ちにはちゃんと気付きました?」
「え?」


 触れそうなまでに近付いていた距離で、名前がきょとりと瞬く。束の間これまでのやり取りを思い返す素振りを見せ、漸く事を理解したのか、突然頬を真っ赤に染めた。


「あ⋯⋯え⋯⋯うそ⋯⋯ほんと⋯⋯?」 
「嘘か本当かで言ったら十ゼロで本当です」
「だって⋯⋯御幸くんが⋯⋯?」
「そーっす」


 壊れたロボットのように片言ばかりを発する名前の両目には、次第に涙が浮かんでくる。きらきらと眼球を光らせる涙が、縁に溜まる。


「そ、そんな⋯⋯どうしよう、すごく嬉しい⋯⋯でも、もう⋯⋯もう、ばいばいなんだよ⋯⋯」
「だから腹立ってるんです。言わないままなら何とか抑え込んで、このまま卒業だって出来たのに。先輩が言ったりするから。流石に俺も知らんぷりはできないですよ」
「でも、そんな、離れちゃうのわかっててなんて⋯⋯それにそもそも、日本一まではどうにもできないし⋯⋯」
「──ああ」


 やはり、理由はそれか。
 野球部のマネージャーであるからこそ、名前は御幸の多忙さを知っている。日本一の厳しさを知っている。きっと御幸の努力も、気持ちも、知ってくれているはずだ。その妨げになるわけにはいかないと、ずっと口を噤んできたのだろう。

 理由を聞き「やっぱりね」と呟く御幸を見上げてから、名前は瞼を伏せる。

 
「⋯⋯御幸くんの調子が恋で左右されるなんてことは無いのかもしれないけど、もし何かが起こった時に、わたし、一生後悔すると思うから⋯⋯だから⋯⋯」


 だから、何も聞かなかったことにして、ばいばいしよう。名前の言いたいことが容易に想像できた。そんなことは言わせない。言わせるわけがない。

 ──心に一番近いところ。もぎとって、一生大事にしたのにな。

 こんな言葉を聞かされて、このまま手を離すなど。そんなことができる男が、この世に存在するのだろうか。

 少なくとも御幸には、できそうもない。

 
「じゃあ、残る選択肢はひとつだけですね」


 名前の言葉を遮って、両手で名前の両頬を覆う。伏せられていた視線を上向かせるように軽く持ち上げると、潤んだままの双眸がしっかりと御幸を捉えた。
  
 
「──待ってろよ」
「⋯⋯え?」
「今年の夏、日本一獲って、すぐにプロになって、そして迎えに行くから」


 頬を包んだ手のひらに、やわらかく力を込める。滑らかな肌の感触を確かめるように指先を滑らせ、唇の端を親指でなぞる。
 
 
「それまで他の男に目移りしないで、良い子で待ってて下さいよ、センパイ?」
「⋯⋯っ、わ、わーっ! 待っ、な、なに、」


 大人しく御幸にされるがままになっていた名前が突然、慌てふためいて声を上げる。御幸の顔が、とても耐えられそうにない近距離に近付いたからだった。
 
  
「何って。男除けにキスしとこうと思って。これ以上ぐちゃぐちゃ言われんのもやだし。せっかくの雰囲気壊さないでくれます?」
「ま⋯⋯待って、だめ、だめなの」
「⋯⋯何がですか」


 むす、と不機嫌に唇を結んだ御幸を見て、これ以上染まらぬほど頬を染めた名前が、ぽそぽそと言う。

 
「ま⋯⋯待ってる、から。ちゃんと。だから⋯⋯こういうのは全部、その時までお預けで⋯⋯」
「は⋯⋯マジで?」
「マジで」


 御幸は信じられないといった面持ちで、僅か数センチ先の名前の顔を見た。いや、本当に信じられない。この状態でどんな理性だ。

 何度考えても信じられなくて、もう一度問う。

 
「いや⋯⋯マジでですか? この状況で? 生殺しなんですけど」
「ふふ。⋯⋯待ってるよ、御幸くん。良い子にしてずっと待ってる」
「──ッ?!」

 
 頬にちゅ、と。驚くほどやわらかな感触と、軽いリップ音。すぐに離れてしまった感触の上に、指先で触れる。目の前では、キスをするためにしていた背伸びを直した名前が、真っ赤に茹で上がった頬ではにかんでいた。

 
「⋯⋯お預けって言ったの誰すか」
「ふふ。約束のしるし」
「っは〜〜〜マジで見てろよ⋯⋯」


 こつん。項垂れるように落ちた御幸の額が、名前の額にこつんと触れた。




 
◆心をもぎとったら◇


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