きみに教えてほしいんだ

「御幸くん」
「?」
「ショートってどんなことする人?」
「え?」


 昨日行われた席替え。右隣になった話したことのない女子に、昼休みに入って初めて話し掛けられた。

 怪訝そうに見返してしまったのだと思う。御幸の視線を受けた彼女は、人当たりの良い笑みを浮かべてみせた。


「あ、わたしのこと知らないかな。苗字です、昨日から隣の席の」
「あ、いや」
「ふふ、顔は知ってるけど名前は分からなかったんでしょ?」 
「⋯⋯そう、悪りぃ」
「ううん。ちなみに下の名前は名前です。よろしくね」


 何が楽しいのか、名前はくすくすと肩を揺らした。

 同じクラスにいるから、顔は見たことがあった。だが、それ以外の情報は知らなかった。このクラスになった時に全員自己紹介はしたが、勿論それで全員を覚えるような御幸ではない。交友関係も広くはないし、自ら積極的に会話を育む質でもないので、名前を知る機会はなかったのだ。

 それを言い当てられ、少し居心地悪く思いながらも訊ねる。
 

「えっと、それで?」
「あ、そうだった。うちね、弟が少年野球やってるんだけど、この間ついに背番号もらえたんだって。それがずっと希望してたショートっていうポジションみたいで、すっごく喜んでて⋯⋯余りにも喜ぶから応援したくなっちゃったんだけど、わたし実は野球見たことなくて。弟に聞いても要領得ないし、ネットで軽く調べてみてもちょっと⋯⋯これは聞いた方が分かりやすそうだなぁって。野球、難しくない?」
「ああ。最初は難しいよな、結構複雑で」
「そうなの! 投げて打つ、くらいは分かるんだけど⋯⋯ポジション多いしルールも多くて」


 御幸が頷いてくれたことに、名前は胸を撫で下ろした。「背番号が六なのと、二塁と三塁? の間にいるっていうのはなんとなく」と、御幸から返ってきた感触がよかったのを良いことに、気持ち身を乗り出す。


「そうそう、ショートはその場所で──」


 再び頷いた御幸が、不意に言葉を区切る。視線が一瞬名前の背後を走り、名前もつられて背後を振り返る。


「あ、ショートのことなら俺よりアイツの方が詳しいぜ」
「あいつ⋯⋯倉持くん?」
「そう。ウチの二遊間は強ぇからな」
「にゆうかん」


 御幸の方へと顔を戻しながら、名前は五つの音を復唱した。にゆうかん。初めて聞く言葉だ。

 きっとぽかんとした顔をしていたのだろう。御幸は「ああ、そっか、二遊間って言ってもだよな」と思っていたよりも砕けた苦笑を見せ、自分のノートを取り出した。最後のページを開き、躊躇うことなく図を書いていく。


「わ、説明してくれるの? ごめん、わたしのノートでよかったのに」
「いーよ、ノートなんていくらでも」
「あ⋯⋯ありがとう⋯⋯」


 名前を見ずにそう告げ、さらさらとペンを走らせるその様子から、こういった図を書くことや誰かに説明することに非常に慣れているのだと分かる。


「あの、わたしから聞いておいてアレだけど、お昼休み用事とかなかった?」
「全然。飯食うのなんてすぐだしな。野球の話すんの好きだし」
「ふふ」


 本当にそうなんだろうなぁ、と思う。
 普段教室で見る御幸は、基本静かだ。一人でじっと何かを考えているか、野球に関係していそうな横長のノートを開いているか、倉持と話しているか。たまに何かの用事で倉持以外のクラスメイトと話していることもあるが、倉持と話している時とは明らかに態度が違う。今こうして存外話してくれているのは、野球の話題だからだろう。

 御幸は野球が、すごく好きなのだ。きっと。

 ちなみに何故名前が御幸のことをこんなに知っているのかというと、まぁ、かっこいい人は目に付くというか、目が追ってしまうといった類のものである。

 綺麗に描かれたダイヤモンドと、広がる扇形。そこにポジション名を書き加えながら、御幸は簡潔にルールを説明してくれる。
  

「あ、なるほど、だからそこが二遊間なんだ」
「うん。で、次は──」 
「え、まって、難しくなってきた、どういうこと⋯⋯あ、そっか、こういうこと?」
「そーそー、理解早ぇじゃん」
「いやいや、御幸くんの説明が分かりやすいんだよ。冗談抜きで」
「そーか?」


 滑らかに進む紙面上のペンと、御幸の伏せった睫毛。それらを交互に見つめていた名前は、気付けばこう呟いていた。

 
「御幸くんって⋯⋯思ってたよりずっと優しい」
「はは、本人に言うんだ」
「はっ、ごめん」
「いや、全然。何、俺って怖く見える?」
「怖く? ううん、怖くはないんだけど⋯⋯」


 倉持といる時の御幸と、他のクラスメイトと話す時の御幸。その違いから、確かな壁は感じていた。名前の勝手なイメージでは御幸はもっとクールで、とっつきにくそうで、こんなふうに気軽に話してはくれないと思っていた。いや、野球の話題でなければそのイメージもあながち間違いではなかったのだと思うが、ともかく、名前の中で御幸の印象が大きく変わった瞬間だった。

 
「いや、やっぱり総合すると怖かったのかも?」
「はは。今は?」
「ちっとも怖くない」
「そりゃよかった」


 名前の持っていたイメージは、決して間違いではなかった。御幸は別に見知らぬ人物と話すのが得意なわけではないし、振り撒くような愛想も持ってはいない。それでも相手を恐縮させたいわけではないので、名前がそう言ってくれたことは素直に嬉しい。

 それに、名前は。

 何だか話がしやすいのだ。テンポというのか“間”というのか、会話における空気感が程よく心地よい。余計な気を張らなくていい。楽だ。


「ね、御幸くんはどこのポジションなの?」
「俺? 俺はキャッチャー一筋だぜ」
「じゃあ次は、こんな御幸くんが入れ込むキャッチャーのこと教えて!」
「?」
「話聞いてたら楽しくなってきちゃった。野球のこともっと知りたい」
「ああ、いーぜ、いくらでも。⋯⋯あー、でもこういうのはなー、本当は試合観ながら解説聞くのが一番手っ取り早ぇんだけど⋯⋯」

 
 俺はたいてい試合に出ててスタンドいねぇしな、と言いかけて、御幸は唇を閉ざす。少し迷ってから代わりに「誰か野球部に友達とかいんの?」と問うてみる。


「野球部? 友達って呼べるほどの人はいないかなぁ⋯⋯一年の時は小野くんと一緒だったけど」
「小野か。あいつも──」


 キャッチャーだぜ。
 そう続くはずだった言葉を、やはり、飲み込む。御幸の試合を観ながら、小野が名前に様々解説している場面を思い浮かべ、結んだ唇を更に固く結んだ。
 

「やっぱ何でもねぇや。俺が教えるわ」
「わーい! いいの?」
「試合観ながら一緒にってのは難しいけど、まぁできる範囲で」
「ありがとう! 少し分かるようになったら、御幸くんの試合も応援行くね」
「もうそんな興味持ったのかよ?」
「うん、御幸くんの口が上手いから」
「俺が丸め込んだみてぇに言うな」
「ふふ、あながち間違いでもないと思うのですけれど」 


 この時、笑い合った二人にそれぞれ芽生えた感情に、はっきりとした名前がつくのはもう暫らく先の話だとか。




  
◇きみに教えてほしいんだ◆


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