秘密の終わりはいつかしら

「全っ然寝れない⋯⋯」


 我慢しきれず、一人呟いていた。
 枕元に転がっている充電器に繋がったスマホを灯す。暗闇に慣れた目に、刺さるような眩しさ。一度ぎゅっと目を瞑ってから、薄く開き画面を確認する。
 
 夜中の二時二十三分。

 ベッドに入ってから一時間半程が経っていた。思ったよりも時間が経っていないことに、溜め息が出た。こういう時ほど時間の歩みは遅いものだ。

 うつ伏せのままむくりと上体を持ち上げ、隣で静かな寝息を立てている御幸を見下ろす。ぴたりと閉じた瞼。綺麗に並んだ睫毛が微動だにしないことを確認して、今度は安堵の溜め息。

 ナイトゲームを終え、日付が変わる頃に帰ってきた御幸に構ってもらいながら、御幸の寝る支度──めちゃくちゃ早い──が整うのを待って、共にベッドに入ったのが一時頃。試合の疲れもあったのだろう、隣からはすぐに寝息が聞こえ始めた。
 
 その寝息を聞きながら何度寝返りを打ったか分からない。起こしてしまわなくてよかった。広いベッドに感謝しつつ、そっとベッドを抜け出る。このまま横になっていても眠れそうもないので、少し気分を変えようと思った。

 慣れ親しんだ部屋だ。暗がりの中でも家具を避け、キッチンまで辿り着くことは造作ない。何か飲み物でも飲もうと、取り敢えず冷蔵庫を開けてみる。

 開けてみて、すぐに後悔した。

 帰り道に立ち寄ったコンビニでつい買ってしまった期間限定スイーツ──明日のデザートにするつもりだった──が、照明の眩しい冷蔵庫中央に鎮座していた。輝いて見える。超美味しそう。食べたい。いやしかし、こんな夜更けにこんな高カロリーなものを。

 などと、指を咥えて見つめること暫し。ピーッピーッと冷蔵庫に扉の開け過ぎを怒られ、慌ててスイーツを手に取り扉を閉める。結構大きな音を鳴らしてしまった。御幸の耳には届かなかっただろうか。


「⋯⋯ていうか咄嗟に出しちゃった」


 いつの間にか手に持っていたスイーツを、再びの暗がりの中見下ろす。考えること、一秒。まあ出してしまったものは仕方がない。すぐにそう決め、リビングへと移動する。ダウンライトを付けテーブル脇のソファに腰掛け、いざ開封しようとした──その時だった。


「⋯⋯名前? どーした?」
「きゃーーー!!!」


 名前は飛び上がった。
 危うくスイーツを落としそうになり、わったわったと手のひらの上を跳ねさせる。

  
「びっ、びっくり⋯⋯! なんの音もしなかった⋯⋯! ごめん、起こしちゃった?!」


 音もなくリビングの入り口に立ち、寝惚けた瞳で名前を見ている御幸に、焦って問う。しかし御幸はこれに返事はせず、名前と、そして手元のスイーツとを交互に見て悪戯っぽく笑った。


「何してんの、太るぜ♡」
「う⋯⋯っ」


 その言葉に項垂れ、そっとテーブルの上に戻す。一分前の自分の意志の弱さを呪っていると、けらけらと笑いながら近付いてきた御幸が、ソファの背凭れに後ろから手を掛け名前を覗き込む。


「ははっ、ジョーダンだって。こんなこっそり食べなくたっていーのに」
「やだ、こっそり食べるために起きてたみたいな言い方!」
「違ぇのか。なに、寝れねぇの?」
「んー、なんか寝付けなくて。ごめんね、疲れてるのに起こしちゃったね」
「いや、お前のせいじゃないぜ。たまにあるんだよ、試合の興奮引き摺ってんのか、変なタイミングで目醒めちまうとき」
「え、そうだったの? てっきり疲れてるから朝までぐっすりなんだと」
「な、俺も不思議」


 そう頷いてから、御幸は「お、それ、どうだった?」と首を傾げた。

 御幸の示す“それ”とは、名前の首にぶら下がっているアイマスク──御幸が高校時代から愛用していたというもののひとつだ──である。

 なかなか眠りに落ちることができず、心を無にしたり、どこかで見かけたなんちゃら呼吸法をしてみたり、様々な体勢を取ってみたり、アイマスクを拝借したりと色々試していたのだ。


「想像より快適だった! あったかいし適度な圧迫感気持ちいいね。まぁ絵がアレだけど」
「気に入ったんならやるよ。なんせいっぱいあるから」


 そう言って、御幸は背凭れから身体を離しキッチンへと向かう。


「ホットミルクでも飲むか? 作るぜ」
「え」
「この時間にそれ食うより色んなとこに優しいだろ。眠りやすくなるっていうし⋯⋯あとは酒とかか? けど今から酔うほど酒は飲ませらんねぇし、結局寝酒は眠り浅くなるしな」
「完全におじさんの台詞っ」
「なんだって?」
「あはっ」


 御幸の後を追い、キッチンに入る。物凄く嬉しく魅力的な提案だが、こんな時間に御幸に用意をさせるわけにはいかない。御幸の腕を掴み「わたし自分で──」と言いかけるが、「いーから」とやわく解かれてしまう。

 御幸はそのまま、シンク下の収納から小ぶりな鍋を取り出した。


「え⋯⋯お鍋で?」
「チンするよりこっちのが美味そうだろ、作ってるときの見た目が」
「うん、すっごく。でも洗い物出ちゃうよ」
「明日やりゃいーんだよ。ほら、そこよけて」
 

 どうやら名前にキッチンを譲ってくれる気は毛頭ないらしい。申し訳なさを感じつつ、御幸の挙動を見守る。

 一番小さな鍋に、一人分のミルクがとろりと入り、次いでほわほわな真白な砂糖。火にかけると少ししてほくりと立ち昇る甘い香り。鍋の中をゆっくりかき混ぜている御幸を見ていると、無性に──泣きたくなってしまった。
 
 愛おしいその背に抱きつく。

 大きくて分厚い。手を回すのが精一杯の体躯だ。その背に顔をうずめ、目を閉じる。呼吸にあわせて動く胸郭に揺られていると、まるで御幸に抱き締めてもらっているような心地になり、そうして近頃の嫌な出来事が蘇り溢れてくる。

 勢い余って御幸の背を濡らしてしまわぬよう、瞑った瞼に力を込め、細く細く息を吐いた。







「ん。座れよ」


 ことり。テーブルにカップが置かれる。ほわりと昇る湯気が、あたたかな薄明かりの中で揺蕩っている。

 
「うわ⋯⋯美味しそう⋯⋯こんな夜中にほんとにありがとう。一也は先に寝てね」
「いや、俺も起きてる。まだアドレナリン残ってんだわ」
「えー? ほんとかなぁ」
「ほんとだって。今から一戦だって余裕で交えれるぜ」
「あら、何の一戦ですかね」


 軽快に笑ってから、御幸は隣に腰を下ろした名前の肩に手を回す。抱き寄せられた大きな肩に体重を預け、名前はカップにそっと口を付けた。甘さが染み渡る。
 

「体調は悪くねぇの?」
「うん、全然」
「じゃあきっと、疲れちまったんだな」
 

 さらり、髪を耳にかけられる。その手つきが優しくて、先程堪えた涙がじわりと浮かび上がってしまった。

 誤魔化すように、何度もミルクを飲み下す。恐らく御幸も気付いているはずだが、これ以上を御幸から訊ねてくることはなかった。

 きっと御幸は、聞いてくれる。名前が話せば聞いてくれるのだ。しかし、話せない。御幸に話せる内容ではなかった。
 


 

「ごめーん、今日も彼が待ってるからあとお願いしていい? 今度ランチ奢るからさっ」


 定時を少し過ぎると発動される、職場の先輩の口癖だ。初回を快く引き受けてしまったがために、そして名前が断れない性格なために、少なくとも週一回は発動されるようになってしまった。毎回面倒な仕事ばかりが見事に残っており、かつ自分の分も熟さなければならないため、今日も帰宅したのは二十二時だった。

 断ろうとしたこともあるのだ。しかし「だって彼には手の込んだ美味しいご飯作ってあげたいじゃん。疲れてるのにコンビニ弁当食べさせるわけにもいかないでしょ? 苗字さんはほら、そのー⋯⋯ねぇ」と、意味深な目配せをされてしまえば、口を噤むよりほかなかった。言外に含まれる「苗字さんは、彼氏いないじゃない?」という言葉に、言い返すことができなかったのだ。

 名前だって。
 ──名前にだって。

 本当はこんな格好よすぎる恋人がいるのに。その身一つで日本中を熱狂させることのできる超人的な恋人がいるのだと、そう声を大にして、世界中に言いふらしたい衝動に駆られた。

 分かっている。ただの戯言だと放っておけばいいのだ。「あなたは可哀想がってるけど、わたし、ほんとはこんなヤバい人と付き合ってるんだよ」なんて脳内でマウントでも取って、ひとりご機嫌でいられるような。そんなしたたかさを持っていたかった。

 覚悟はしていた。
 
 結婚でもしなければ関係を公に出来ない相手と付き合うということ。誰にも知られることなく逢瀬を重ねる日々の中、いつかこうして、先の見えない将来を不安に思ってしまう日が来るということ。

 約束された未来。かたちのある幸せ。

 それらがふと、眩しく見えてしまう。堂々と隣を歩ける生活。自分はこの人にとって“特別な存在”であるのだと、胸を張っていられる自信。そんなの、こうして名前しか知らぬ優しさを向けてもらえることが、御幸との関係の何よりの証拠なのに。

 欲張りだなぁと、自分でも思うのだ。しかし、外野の声に容易く揺らいでしまう。惑わされてしまう。

 そんなことを考えているうち、思ってしまったのだ。先輩やだなぁ。仕事やだなぁ。明日行きたくないなぁ。ていうか一也はこの先の将来のこと、どう考えているのかなぁ、と。そう考えると、寝れなくなってしまった。
 
 などと、まるで結婚を迫ってでもいるかのような話を御幸にできるはずもなく、名前はただ、この穏やかな優しさに身を預けたのだった。

 静かに抱きとめてくれる腕の中にいるだけで、眠りを妨げる程の不安があっという間に和らぐのだから、名前も名前で他愛ないものなのである。これが惚れた弱みとでもいおうか、名前しか知らぬ御幸の魅力とでもいおうか。



 ちなみに、このとき既にサプライズプロポーズを計画していた御幸は、まさか名前が自分との関係性や将来について悩んでいるのだとは思いもしなかったのだとか。後日めでたくプロポーズを受けた名前が、御幸は本当に聡いんだか鈍いんだか、と笑うのはもう少し先のことだ。





◆秘密の終わりはいつかしら◇


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