破滅のプレリュード
「一也って昔、わたしのこと好きだった⋯⋯?」
「──は」
咄嗟の言葉に詰まった御幸に、濁ったような生温い夏の夜風が吹き付けた。
◇
「自分が悪いんだってこと、ちゃんと分かるまで帰ってこなくていいから」
そう冷たく言い放ち、着の身着の儘名前を追い出したのは、かつて名前に愛を囁き、生涯添い遂げることを約束した男だった。
結婚して、すぐに豹変した。
澱のように降り積もったのは幾度となく振りかざされた拳と冷ややかな怒声。こんな人じゃなかった。本当はこんな人じゃない。今日はたまたま虫の居所が悪かっただけ。名前が悪かっただけ。きっとまた、以前のような人に戻ってくれる。だって時折見せる優しさは出会った頃と変わっていないから。だからもう少し。自分の選んだ人は間違いではなかったのだと思っていたい。
そんな日々をどれだけ過ごしてきただろう。いつしか憔悴していた心は、とうに限界を超えていた。
本当はわかっていた。自分が間違っていたし、いくら時間をかけて努力しようとも相手が変わることはないのだと。わかっていた。わかりたくなかっただけだ。
「⋯⋯痛いな」
痛むのは心か身体か。
このままどうなってもいい。そう自棄になりふらふらと歩いていた繁華街の外れ。
「⋯⋯名前?」
慎重に、疑うようにかけられた声。のろりと向けた視線の先にいた人物に、名前は目を見開く。
「か、一也⋯⋯」
今や球界ではトップレベルの知名度を誇る御幸一也が、そこにいた。
──夢かと思った。
息をするのも忘れ、目の前の姿に見入る。私生活が上手くいかなくなってから、一体どれほどこの人の姿を思い浮かべたことだろう。
会うのは何年ぶりだろうか。
御幸とは小学から中学までを同じ学び舎で過ごした。互いに何でも知っている幼馴染と言えるほど近い距離ではなかったが、かと言って普通の同級生と言うには近過ぎる。どちらかと言えば幼馴染と呼ぶほうがしっくりくる、そんな関係だった。
御幸の青道入学を機に会うことは滅法なくなったが、たまにメールをすることはあった。それに御幸はどこにいても活躍するので、情報はよく入ってきた。
最後に会ったのは、高校卒業の時だった。プロ野球選手になるという御幸にどうしても直接激励を送りたくて、名前から連絡して会ったのが、最後。
──あの頃は、よかったな。
遠い記憶に攫われる。そうしていれば今の現実から逃れられているような気になる。
「⋯⋯名前? 顔色悪ぃぞ、どうした?つーか連れは? 一人で飲みにくるような場所じゃねぇだろ」
はっと我に返る。御幸が怪訝そうに名前とその周囲を見回している。過去を振り切るようにして、名前は極力普段通りに話す。
「ううん、わたしは別に⋯⋯それより一也こそ、一緒に来てる人いるよね、待たせちゃ悪いよ。声かけてくれてありがとう。会えて嬉しか──」
「あのな。そんな顔してんのに放っとけるほど、流石に冷めた人間じゃねぇつもりなんだけど」
別れの文句を遮りそんなこと言う御幸に「そんな顔ってなぁに」と笑ってみせる。が、引き攣ってしまっているのが自分でもわかる。そんな名前に御幸も苦笑し「ま、少し話そうぜ。久々だし。ちょっと待ってろよ」と踵を返す。数十秒足らずで戻ってきた御幸を上目で見る。
「大丈夫⋯⋯?」
「ああ。ただの付き合いだし」
「ふふ、一也らしい」
「まーな。そんじゃ静かに話せる店にでも⋯⋯あ、俺と二人はまずいか、結婚してんだもんな」
「⋯⋯」
「確か少し歩いたとこにベンチあったと思うんだよな」
ゆっくりと歩を進める御幸の隣。すっかり大人になった横顔を見ていると、随分と過去になってしまった日々が荒波のように押し寄せてくる。苦しい。上手く息ができない。あの頃はあんなによかったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
溺れてしまいそうで、何かに縋りたくて、気付けば御幸のシャツの裾を掴んでいた。
「ん、どーした?」
「あのね、その、違ったらごめんね。⋯⋯一也って昔、わたしのこと好きだった⋯⋯?」
「──は」
瞬間、見開かれた御幸の双眸。その驚いた表情を真っ直ぐ見上げ、返事も待たずに話し始める。こうして話さなければ、名前はもう、自分を保つことができないと思った。心はとうにぼろぼろだった。
「わたしね、好きだったんだ、一也のこと」
「⋯⋯」
「あれ、その顔、もしかして知ってた?」
「いや⋯⋯なんつーか⋯⋯」
「ふふ、そっか、知ってたかぁ」
何だか泣きそうになってしまった。ただただ懐かしいからなのか、知ってくれていたことが嬉しかったからなのか、それとも後悔からなのか、自分でもよくわからない。
「それでね、もしかしたら一也もわたしのこと好きでいてくれてるんじゃないかなって思うことが結構あったから、どうだったのかなって⋯⋯勘違いだったらごめんね。昔話だと思って、どうか気を悪くせずに聞いてほしいんだけど」
「いや⋯⋯そんなに勘違いじゃ、ねぇけど⋯⋯」
「あはは、気不味そう」
「お前なぁ」
居心地悪そうに後頭部を掻く御幸に笑ってから、名前は震えそうになる唇に力を入れ、そっと呟く。
「そ⋯⋯っか、そっか、よかったぁ」
名前の今にも泣き出しそうな笑顔を見ていた御幸の顔が、人知れず歪んだ。胸が軋むように痛んだからだ。
お前、──幸せになったんじゃなかったのかよ。
「でも、わたしたちには何もなかったね。伝えちゃおうかな、って思ったこともあったけど、何もなかった。そしてこれからも何もない」
だからこそ御幸は、名前の支えだった。
もう自分は必要とされていないのだと突き付けられる時。祝福してくれた親族や友人に応えられなかったのだと思う時。自分に失望した時。名前は思うのだ。
──でもわたしには、一也がいた。今よりもっと子どもで、人間としてあまりにも未熟だった頃のわたしを、好いてくれた人がいたんだ。
その記憶は確かに、壊れそうな心を支えてくれていたのだ。
「後悔することもあるんだ。あの頃気持ちを伝えてたら、未来は違ってたのかなぁって。でも何もなかったからこそ、今こうしていられるんだとも思う。だってそうじゃなきゃ、嫌なとこも合わないとこもたくさん出てきて、こうやって会ったりとかも⋯⋯出来なかったかもしれないもんね」
だから当所なく歩いていた繁華街の隅で声をかけられた時、名前は思ったのだ。
──神様って、いたんだな。
「一也の存在が、わたしの支えだったの。──なんて、こんな話されても困っちゃうよねぇ」
数年ぶりに会ってすぐにする話ではなかった。突飛過ぎるし重過ぎるし、何より御幸にとっては意味がわからない。慌ててとぼけてみせるが、御幸は眉を顰めて心配そうな声を出した。
「お前⋯⋯大丈夫か?」
「⋯⋯っ」
大丈夫って、何が?
そう笑って返せたらよかったのに。御幸の優しさに掬い上げられた心がもう、溢れてしまっていた。懸命に耐えて守ってきたはずのものを壊しながら溢れたそれが、御幸を求めている。
こんなにも、求めている。
「ごめん一也⋯⋯だめなお願いだってわかってるんだけど⋯⋯ちょっとだけ、ちょっとだけでいいの。一秒だけでいいから、抱き締めてほしい⋯⋯っ」
言い終わるか終わらないか。
名前の身体は、御幸の腕にきつく包まれていた。
◆
結婚したのだと、人伝に聞いていた。
そうか、もうそういう年齢だもんな。そう思ったのと同時に、「行っちまったんだな」と思ったのを覚えている。
名前が御幸を好いてくれていたことには気付いていた。人は悪意も好意も感じ取ることができるし、小学生の可愛げある好意はおおかたダダ漏れである。年齢が上がるにつれ気持ちの隠し方は上達したが、それでも御幸は気付くことができた。同じ気持ちを、御幸も持っていたからだ。
しかし付き合うだの付き合わないだのは想像できなかった。幼かった御幸はそのままでよかったし、何より野球が楽しかった。
まだ、子どもだった。
だから結婚したと知った時、幸せになってくれよな、なんて達観したような言葉で「行っちまったんだな」などという傲慢な喪失感を塗り潰した。決してその気持に嘘はなかった。幸せでいてくれと、本当に思った。
そう、思ったのに。
再会してすぐに気が付いた、指輪のない左手の薬指の意味を考える。こんなに蒸した夏の夜だと言うのに、腕も足も他人の目からぴっちりと隠すように着た服が理由で間違いはないだろうか。こんな時間に女一人で。荷物も持たずに彷徨っていることが理由で、間違いはないだろうか。
そんなことを考えていたら、抱き締めてしまっていた。
突き放したほうが優しかっただろうか。既婚者のくせに、と幻滅したふりをしたほうが、名前は楽だっただろうか。
恐らく自分はいま、名前にとって都合の良い男なのだろう。過去の思い出と美化された記憶を持っていて。現実から逃がしてくれる術も持っている。
わかっている。手を伸ばしては、いけなかった。
それでも、こんなに弱った名前を野放しにするなどどうしてできようか。目の前の名前は、御幸が願った幸福とは程遠いところにいるというのに。
「詳しくはわかんねぇけどさ。⋯⋯ひとりでよく、頑張ったな」
「⋯⋯っ」
この差し伸べた手は、名前を苦しめるだけかもしれない。御幸もきっと、苦しむのに。
でもそれでも。
「お前、今夜寝るとこあんの?」
「⋯⋯ない」
「ねぇなら取り敢えず俺んとこ来い。話、聞くから」
◇破滅のプレリュード◆
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