君の名残を如何にせん

 高校時代、三年間部活を共にした同期から久しぶりに連絡がきた。画面にポップアップされたその名前を見た瞬間、懐かしさと、そして嫌な予感とに襲われる。

 少し迷って、液晶をタッチする。素っ気ない挨拶から始まるメッセージだった。


「おう」
「うん」
「今度、久しぶりに皆で集ろうぜって話になってんだけどよー」
「ごめんね、行かないかな」
「お前⋯⋯誘う前に断るなよな」
「だって、一也も来るんでしょ」


 リズミカルに交わされていた会話が、ぱたりと途切れる。そのことが名前の言葉への肯定を示していた。既読がついてから三分が経過し、溜め息とともにトークアプリを閉じた直後、今度は着信が入る。

 マジか。マジか倉持。
 電話なんてしてきたこと、これまで一度だってなかったのに。

 名前は着信音を奏で続けるスマホを前に硬直した。しかし着信音が鳴り止むことはなく、電話の向こう側で倉持が舌打ちをしている様子が想像できた。

 再度迷った末、諦めて通話ボタンを押す。


「出るの遅ぇ」
「⋯⋯こりゃ本気で説得に来たな、って身構えちゃった」
「ヒャハハ、わかってんじゃねぇか」


 久しぶりに聞いた声は、なんだかとても大人びて聞こえた。ああ、倉持もすっかり大人になったんだな、なんて。そんなことを、ふと思う。


「アイツも来る。珍しく都合つくからっつってよ。けど、お前も来いよ。みんな会いたがってるぜ」
「またそんなこと言って」
「ほんとだって。わざわざ嘘言ってまでこんな電話しねぇよ」
「そうかもしれないけど」
「“かも”じゃなくて、そうなんだって」


 言葉に詰まる。
 名前だって、皆に会いたい。その気持ちはとても強いのだ。青春を共にした皆といるのは、安心する。卒業とともにバラバラになってしまったが、いつになっても、同志という感じがする。

 彼さえ来ないのであれば、喜んで飛んで行く。


「ありがとう⋯⋯でも、行けないよ⋯⋯」
「⋯⋯そっか。わかった」
「ごめんね」
「気ぃ変わったら連絡しろよ」
「うん」


 じゃ、と言って切れた電話。引き際を見誤らないその配慮はさすがだなと思った。
 倉持の声がしなくなった部屋は静寂が際立ち、耳に刺さる。どことなく寂寥を覚えた胸を持て余し、無理やりベッドに潜り込んだ。



 二週間後の夕暮れのことだった。
 講義を終え帰宅しようと教室を出ると、何の因果か同じ大学に通う沢村が、名前の教室の前で体育座りをしていた。

 何故、と考えたら負けだ。驚くまい。お馬鹿のすることは理解ができぬことも多いと言うものである。


「苗字先輩! うっす!」
「うん、うっす。何してるのそんなとこに座り込んで。わたしはともかく、その他からの視線痛くない⋯⋯?」
「全然っす! それより大事なお役目を果たしに来やした!」
「お役目? なんだっけ?」
「不肖沢村、行きますよ! 覚悟はいいですか苗字先輩!」
「えっ覚悟?!」


 沢村の言っていることはわからないのに、何か只ならぬ馬鹿なことをしようとしていることだけはわかってしまった。

 ゆっくりと後退りしていると、沢村がおおきく一歩踏み出し、大声で叫ぶ。


「それでは! 失礼しやす!!!!!」
「えっ?! うわ、ちょっ」


 その直後、沢村にがっちりと両脇を持たれ、半分担がれるように抱え上げられた。


「な、何するの?!」
「多少無理してでもお連れせよとの命です!」
「さ、さては、倉持め⋯⋯!」


 二週間前のあの電話の日、引き際云々、配慮が云々と言っていたのはどこの誰だ。今すぐに前言撤回。

 そして唖然とした様子で成行きを見守っていた友達へ、ダメ元で助けを求める。


「助けて〜〜〜〜! 誘拐〜〜〜!」
「名前〜〜〜頑張ってね〜〜〜」


 ダメ元はやはりダメ元で、悲しきかな、ここに沢村の暴走を止められる人物はいなかった。ひらひらとハンカチ片手に送り出されてしまった。必死の抵抗も虚しく、沢村に連行される。

 担ぎこまれたのは、駅近くの居酒屋だった。自分の力ではほぼ移動していないに等しいのに、抵抗し続けたおかげで息も絶え絶えだ。


「お連れしやしたぁ!!」
「お手柄だ沢村ァ!」


 ボロ雑巾のように座敷に座り込む名前の隣に、倉持が腰を下ろす。恨めしさをたっぷり込めて見上げる。


「ほんと何するの⋯⋯」
「こーでもしなきゃ来ねぇだろ。ほら、皆の顔見てみろよ」


 促されるまま顔を上げる。
 同期に加え、前後二学年あたりから有志が集まっていた。久しぶりだね。元気かよ。口々に言葉が飛んでくる。皆、笑っている。それぞれが大人っぽくなったが、笑顔はあの頃のままだ。

 本当は、皆に、すごく会いたかった。

 懐かしさについ、涙が滲む。それに気づいた倉持はまた高らかに笑い、名前の顔面にむぎゅりとティッシュを押し付けた。

 もう少し優しくしてほしい。



 アルコールもそれなりに回り、座敷の各所で賑やかに盛り上がっていた頃だ。各々自由に席を移動しまくるおかげで、ついに、それとなく避けていた人物の隣に追いやられてしまった。

 ぱちりと、目があって。少しだけ気まずそうに「よお」と手が上がる。

 まるで図ったかのように他に誰もいない。やっぱり移動しなきゃ、だよね。そう思い立ち上がりかけたその時、「座れよ、俺一人になんじゃん」と呼び止められる。


「⋯⋯うん」
「久しぶりだな。なんか大人っぽくなった⋯⋯元気だったか?」
「うん。一也も元気だった?」
「元気元気。でもやっぱプロの世界は一筋縄じゃいかねぇわ」


 久しぶりに会った彼、御幸一也は、どこか凄みが増して、身体もおおきくなって、名前の知らない世界で生きているのだと思い知らされる。変わらないのはその整ったお顔くらいだろうか。相変わらずイケメンで何よりだ。

 一也とは、高校時代を含め三年と少し、お付き合いをしていた。あの多忙な部活をしながらもそれだけの期間続いていたのだから、合っていたのだと思う。だから卒業しても、生きる場所が変わっても、変わらずにいられると思っていた。一緒の未来を思い描いていた。

 しかし時の流れは、環境の変化は、容赦なく二人の関係を攫っていった。

 それだけの関係だったと言われてしまえばそこまでだ。あの頃の二人には、どんなに足掻いても足掻いても、どうにも埋められない空白が生まれてしまった。プロ野球選手と大学生。その肩書を提げ、上手く生きることができなかった。

 このまま、互いがしんどい想いをしてしまうだけの関係ならば。離れたほうが互いのためなのではないかと。そんな言い訳を並べて、逃げて、疲弊して、そうして別れた。

 互いのためと、思っていたのに。

 あの時から、名前の時間は止まったままだ。
 忘れられないのだ。どんなに努力をしても、一也の表情や声、匂い、一緒にみた景色、何気ない会話。何もかもを怖いくらいに覚えてしまっていて、忘れられないのだ。

 だから、一也には会いたくなかった。会ってしまえば断ち切れていない想いが溢れてしまいそうで怖かった。まだ一也を好きでいる自分を最終宣告されるのが、怖かった。

 グラスを弄くりながらそんなことを思い返していると、一也のポケットから着信音。ふう、とひとつ溜め息をつき「ちょっとごめん」と言ってから一也は電話に出た。

 ──そう、高校んときの部活仲間と。うん、気をつける。大丈夫だって。はいはい、またな。

 その口振りや表情から直感し、問う。問うてしまった。聞かなければよかったのに。⋯⋯しかしきっと、聞かずにもいられなかったと思う。仕方がない。


「彼女?」
「⋯⋯うん」
「そっか」


 そっか。そうだよね。

 何もおかしなことではない。別れたあとは、皆、別の恋愛をするのだ。そしてそのうち結婚して、家庭を築く。そんなの普通のことだ。

 それなのにその事実は、名前の心にずしりとのしかかった。ゆえに名前は、「まぁ、あんま上手くはいってねぇんだけど」という呟きを聞き漏らす。


「お前は?」
「のんびり一人を謳歌中ですー」
「そうなんだ。けどお前ならモテんだろ」
「あはっ、全然だよ。わたしもなんだか気が向かないし⋯⋯一也がいい男すぎたのかな」
「あれ? 今頃気づいたの?」
「⋯⋯自分で言われるとなんか腹立つ」
「ははっ、ほんとのことだろ。けど、そっか⋯⋯誰もお前に気づかねえとか、もったいねぇな」
「⋯⋯ばか」


 ──そんな言い方、しないでほしい。そんな、期待させるみたいな言い方。勿体ないと思ってくれるなら、もう一度もらってよ。一也がいい男すぎたから、他の誰とも付き合いたいって気持ちにならないんだよ。全部ぜんぶ、ぜーんぶ一也のせい。

 そんなこと、言えるはずもなく。名前は下唇を噛む。泣きそうになった。なぜ、あのとき一也の手を離してしまったのだろう。

 ⋯⋯いや、少し違うか。

 手放したつもりだったのに。
 心ばかりが、今でもこんなに離れられずにいる。

 震えそうになる声で、下手くそな笑顔で、振り絞る。


「一也、幸せになってね」
「⋯⋯名前」


 一也の手がおもむろに伸びてくる。そして、頬に触れる直前で、思い出したかのようにぴたりと止まった。

 そうだった。名前が落ち込んだときにはいつも、決まって頬を撫でてくれた。その仕草が好きだった。彼の指先に不安を預け、辛い日々を越えてきた。

 でももう。
 名前には何も許されない。

 その手も、意地悪な笑顔も、たまに見せる弱いところも、すべてが別の誰かのものだ。

 そのどれにも、もう触れることはできない。そのどれもが、名前に向けられることはない。


「⋯⋯名前も、」


 ──幸せになれよ。


 その言葉に、名前は俯く。
 一也がいない日々を幸福と思うには、まだ、時間が足りない。好きな人の幸せを一番に願える人間になるには、まだ、未熟が過ぎる。いい思い出ばかりが残っていて、過去を振り返ってしまう。

 それでも、一也のいない世界で生きていかなければならない。

 思い切って、一也の両頬をむにゅりと抓る。ついでに全力で引っ張る。


「あはは、変な顔」
「⋯⋯いひゃいんれすけど」
「うん。ちょっとだけこのままで話聞いて」


 きっと、気づかれてしまっている。まだ一也のことを好きなのだと。だから、ちゃんと。ちゃんと言葉にして伝えなければ。


「一也がいなくたって、きっといつか、幸せになるよ。だから一也がそんな顔しないで。わたし、可哀想なんかじゃないよ」
「⋯⋯」


 一也との日々は宝物だ。
 必ずいつか、あの日々があってよかったと笑って話せるようになりたい。あの時があったから、今こうして幸せなのだと。

 そう、思えるように。

 ぱっと手を離す。「痛かった⋯⋯」と両頬を擦る一也に笑ってみせる。今度こそちゃんと笑えているといい。


「わたし焼き鳥食べたくなっちゃった。そこのボタン押してくれる?」
「ああ」


 珍しく柔らかく笑い返してくれたその表情を、目に焼き付ける。

 さよならさよなら。愛しの人。
 今だけ、この席にいさせてね。








◆君の名残を如何にせん◇

一周年企画に続篇があります。


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