蝶々燦々


 朗らかな風が教室に舞い込む、放課後のことだった。部活に向かう者、帰宅する者、友達との会話に花を咲かせる者。そして、図書室へ本を返しに行こうとする名前。

 三冊の小説を抱え教室を出ようとしていた名前を、担任が呼び止めた。


「あ、苗字」
「? はい」
「これ掲示しといてくれ。今日日直だろ」


 そんなことを言った担任を、名前はきょとりと見上げる。


「⋯⋯わたし今日日直なんですか?」
「うんそう。放課後まで気づかないなんて幸せだな」
「ふふ、幸せでごめんなさい」
「それは謝ってるうちに入らん」


 数枚のプリントをペちりと頭に押し付け、担任は呆れた声音で続ける。


「相方にはちゃんと謝っとけよ。一人で日直の仕事してくれてたんだろうから」
「えっと、その相方というのは本日はどちら様ですか⋯⋯?」
「なに、それも知らないの。御幸だよ。まさか苗字、日中ずっと寝てたのか?」
「いえいえ、ばっちり起きてました。御幸くんかあ⋯⋯話したことないや」
「じゃあこれを機に話せ。そしたらそれの掲示頼んだぞ」
「はーい」


 担任を見送ってから、教室内を見回す。御幸の姿は、既になかった。



「と、届かない⋯⋯!」


 教室の脇にある掲示スペースは、最上段を除き見事にびっしりと埋まっていた。ほとんど誰も見ることがないだろうに──少なくとも名前は見ない──、何をこんなに貼っているんだ。しかもこの最上段、背伸びでぎりぎり届かない。画鋲を持った指先が虚しく空を彷徨う。

 これは足台になる椅子でも持ってこないとダメだな。そう思い手を下ろそうとした、その瞬間だった。


「よ、っと」
「──っ?!?!」


 背に何かがあたる感触。同時に、おおきな手が名前の手から画鋲を掬いあげ、プリントの隅を止める。プリントが落ちないように支えていた左手に、少しだけその人物の左手が触れた。

 息が、止まるかと思った。
 いや、ちょっと止まった。

 驚いて反射的に振り返った先。
 そこには、名前をすっぽりと覆うように──御幸がいた。


「な、みっ、御幸くん」


 名前はそれ以上の言葉を失った。
 聞くところによると、御幸は野球において類稀なる才を持っていて、おまけに容姿端麗ときている。そんな男の子と、こんな、ラッキースケベ(?)みたいなシチュエーションなんて。男性経験ゼロの名前には些か荷が重い。

 ショート寸前の思考回路は甚だ役に立たず、ぱちぱちと瞬きだけで見上げていると、それに気付いた御幸が苦笑いを零した。


「あ、悪ぃ、先に声掛けりゃよかったな。教室戻ってきたらさ、なんか苗字ぷるぷるしてたから咄嗟に手ぇ出ちまった」
「う、ううん、ありがとう⋯⋯」
「もう一個の画鋲は?」
「あ、はい、こちらです、っていうか⋯⋯」
「ん?」


 ばちり。御幸と視線が合う。

 その瞬間、頬に全身の血流が集まるような感覚に襲われた。顔が熱い。変な汗が出てくる。なんだこれ。こんな身体の反応、名前は知らない。

 赤くなっているであろう頬を隠すように俯き、ぽそりと一言続ける。


「近いです⋯⋯」
「はっはっはっ」


 笑うだけ笑って全然退けてくれる気配はない。ので、隙間を見つけて名前自身で脱出する。頬に集まる熱は留まるところを知らない。何を隠そう、男子とこんなに近づいたのなんて初めてだ。

 対する御幸はなんだか飄々としていて、意識してしまったのは自分だけなのだという羞恥に見舞われる。

 視線を逸したまま二枚目のプリントを手渡しながら、名前は眉を下げた。


「御幸くん、今日は日直さぼっちゃってごめんね」
「全然。日直っつったってたいしてやることもねえし」
「でも、なんでもっと早くに注意しなかったの? 今日一緒に日直だよって」
「あー⋯⋯」


 御幸が口篭る。
 そこに負の感情は感じなかったが──なんなら少し笑ってるし──、そんな言い淀み方をされては聞かずにもいられなかった。


「もしかしてわたし、すごく話しかけにくいとか、怖いとか」
「ははっ、そんなんじゃねぇよ」
「じゃあ⋯⋯?」


 プリントを貼り終えた御幸が、手頃な机に寄りかかる。

 はじめて話す御幸という人間の輪郭が、会話や空気の片鱗から少しずつ形成されていく。その感覚に、胸が踊る。


「苗字ってさ、休み時間とかいっつも楽しそうに本読んでんじゃん。なんか邪魔したくねえなって思って」
「そんなこと考えてくれてたの⋯⋯? ていうかよく知ってるね」
「俺の席、斜め後ろでよく視界に入るし」
「ああ、そっか。たしかに」


 窓際。光がいっぱいで、窓を開けると気持ちのいい風が入る。お気に入りの席だ。


「それに⋯⋯いいや、やっぱやーめた」
「えっ?! ここまで話しておいて。気になりすぎるんだけど」
「まあまあ、気にすんなって」


 気にするなと言われても。気になってしまうのが人の性である。
 しかし当の御幸を見れば、話す気がないのだということは誰の目にも明らかだった。だってめちゃくちゃ意地悪に笑ってるし。

 ていうか意外と笑うんだなあ、御幸くん。だなんてことを思う。

 気になるのは山々だが、非常に山々だが、切り替えて別の話題を振ってみる。せっかくの機会だし、もう少し話したい。そんな気持ちが大きくなっていくのを自覚する。


「わたしね、本読むの好きで」
「うん、だろうな」
「でもちょっと、夢中になると周りが見えなくなっちゃうことがあって⋯⋯日直忘れたりとか」
「はは、うん」
「御幸くんもそうだよね?」
「え?」
「よく読んでるじゃん」


 少し驚いた表情を見せた御幸に、「ほらあの、横長の。休み時間によく読んでるやつ」と指で大凡のサイズを示す。


「ああ、あれはスコアブック」
「スコアブック?」
「そう、これ」


 丁度所持していたらしい。肩にかけていたエナメルバッグからそれを取り出し、名前に手渡してくれる。受け取り、一枚捲ってみた。

 ──なんだこれ。魔術書?


「あはは、全然わかんない。記号だらけ。小説じゃなかったんだね」
「そういうこと。苗字野球は? 観たりすんの?」
「お父さんが観るときに、少しだけ」
「じゃあルールは知ってんだ」
「人並み程度にだけどね」


 名前の父親は、プロ野球をよく観る。居間で中継が流れていれば、当然名前の視界にも入る。だが、どの球団が好きだとか、今季はどの選手がヤバイとか、そういう話はわからない。しっかりと観るのは、日本シリーズ──父親の解説もどき付き──くらいだ。


「十分。そんじゃさ、暇だったら今度これ、観に来いよ」


 “これ”というのは、今しがた御幸が貼ってくれた二枚目のプリントだった。なになに? と目を通すと、週末に行われる野球部の試合についてだった。甲子園をかけた最後の試合なのだという。週末だし全校応援とまではいかないが、有志は是非球場に、とのお達しだ。


「きっと面白いもん観せてやれるぜ」


 そう言った御幸の顔に、名前は、また言葉を失った。本日二度目の出来事であるが、一度目──背後に忍び寄る御幸に驚いたときだ──とはまるで違う。

 何故だろう。胸が苦しい。

 静謐さのなかに潜む、ものすごい熱量。揺るがない自信。決勝という舞台への緊張感。それでいてそれらすべてを楽しんでいるような。

 そのどれもにあてられ、言葉に詰まる。

 ああ、このひとは。

 ──名前の知らない世界を生きるひとだ。


「⋯⋯う、ん」


 気づけば頷いていた。浮かされた。完全に持っていかれた。

 これは、ずるい。


「ん。待ってる。じゃあ、そろそろ部活行くわ。日誌の提出だけ頼むな」
「日誌書いてくれたの⋯⋯何から何までありがとう」
「うん。じゃーな」


 日誌だけを残し、御幸は教室を出た。

 校内の喧噪が戻ってくる。先程までの時間が、まるで嘘だったみたいだ。日誌の今日のページを開く。日直者の名前欄には、御幸のものと思しき字で、名前の名がフルネームで書かれていた。



 御幸の席からは、名前の姿がよく見える。

 名前は読書が好きなようで、隙間時間を見つけては何かしらの小説を読んでいることが多かった。キャラクターの描かれたブックカバー、無地のカバー、本屋で付けてもらう紙のカバー、学校の図書室のシールがついた表紙。日によって様々だったが、静かに文字を辿る目元には、いつだって穏やかな熱が篭っていた。

 そんなある日のことだ。

 御幸は、はたと気づく。いつからか、本を読む名前の姿をぼんやり眺めるのが癖になっていることに。

 そして、考えた。

 一体自分はなぜ、本へと視線を落とす同級生の姿ばかりを見ているのだろうかと。

 そうしているうちに、得心する。
 ページを捲る指先。背中の角度。斜め後ろから見える横顔。首の傾ぎ具合。窓から入った風に吹かれ靡く髪の隙間に、時折現れるちいさなちいさな蝶々のピアス。

 そのどれもが、──綺麗だからだ。

 なーんてことを、先程はさらっと言ってしまおうかと思った。でも、何故だか勿体ないような気がして、やめた。この事実を自分以外が知ってしまうのが、勿体ないような気がしたのだ。

 知られてしまうのが、例え本人にだとしても。


「じゃーな」


 名前に日誌を預け、その場を離れる。その時だ。ふわりと舞い込んだ風に、名前の耳元の蝶々が煌めいた。










◇蝶々燦々◆


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