あめあめふれふれ


 校舎の外に置かれたベンチ。
 そこにぼうっと腰掛ける姿を見つけ、倉持は足を向けた。背後から話しかける。


「よお。こんなとこでサボりか?」


 倉持の声に驚いた様子もなく振り返った名前は、倉持の姿を認め穏やかな笑みを浮かべた。


「ううん。自習だよ、自習。先生も『大人しく自習しとけよー』って言ってたじゃん。倉持クンこそサボりですか?」
「うるせーよ、んなわけねぇだろ、自習だっつの」
「あはっ」


 急遽自習となった午後一発目の授業。生徒の半数が食後の眠気に誘われ午睡に勤しむ中、静かに席を立ったのが名前だった。「名前? どした?」というクラスメイトの問いかけに、「ちょっとお腹痛くってー」なんて誰が聞いても嘘とわかるような口振りで答え、名前はそのまま教室を出た。

 そうしてここに一人、座っているというわけである。


「隣座る? どーぞ」
「ん」


 名前の隣へドサッと腰を下ろす。半ば空を仰ぐような姿勢で背凭れにたっぷりと背を預け、横目で名前の様子を伺う。

 ──やっぱ変だ。

 倉持は思う。
 具に言い表せるわけではないのだが、今朝から名前は、何か変だ。やけにぼーっとしていたり、空中の変な場所を見つめていたり、かと思えばやけに空元気だったり、自習の時間にこうして教室を抜け出したり。

 だから倉持は、名前の後を追ってきたのだ。


「気持ちいいね、絶好のサボり日和」
「ほれみろやっぱサボりじゃねえか」
「あっ、やば、口滑った」
「そりゃまたえらく滑りのいい口だな」
「ふふ」


 倉持は迷う。その笑顔の気の無さに、触れるべきかどうか。そして触れたところで、果たして自分に何ができるのだろうかと。

 聞けば、きっと名前は答えてくれる。変にはぐらかしたりしらばっくれたりせずに。そういう関係を築いてきた自負はあった。しかし、名前の心を曇らせている“何か”を晴らせるか否かは、また別問題だ。

 ──どうする。

 自分が踏み込むことで、余計に笑顔から遠ざけてしまうことにはならないだろうか。それは少し、いやかなり、不本意だ。しかし、追いかけてきておいて見て見ぬふりをするというのも、のちのち引きずってしまいそうだ。

 結局、迷った末に倉持は口を開いた。


「⋯⋯どーしたよ」
「⋯⋯ん?」
「何かあったんじゃねえの」


 名前の顔が「あ、やっぱり倉持にはバレちゃう?」と物語る。「たりめぇだろ」と返すと、今日初めて、名前は倉持の目を真正面から見返した。


「⋯⋯聞いてくれるの?」
「言っとくけど優しい言葉は期待すんなよ」
「ふふ、そんなこと言っちゃって。優しいよ、倉持は」


 少しの寂寥を携えて放たれたその言葉は、倉持の胸の奥にやわく浸透していった。静かな校舎。穏やかな日差し。その中を揺蕩い、倉持の心になんの気無しに入り込む。名前の言葉は、いつもどこかあたたかい。倉持にとって、あたたかい。

 こういうところが、──好きなのだ。


「あのね」
「おう」
「告っちゃったの。御幸に」
「⋯⋯そーか」


 倉持と、御幸と、そして名前と。

 きっかけは何だったか。
 覚えていないほどの些細なことをきっかけに、いつしか三人でよく話すようになっていた。気がつけば倉持は名前の姿を追うようになっていたし、名前は御幸の姿を追うようになっていた。

 いつも名前を見ていたから。
 彼女の視線が誰に向いているかくらい、すぐに分かった。

 いつか恋愛の話題になったことがあった。「彼女? いーよ、俺は今は野球しか見えねえし」と御幸が笑ったときの名前の表情を、今でも鮮明に覚えている。

 ああ、それでもこいつは、いつか御幸に告うんだろうな、と。そのとき思ったのだ。

 そしてその“いつか”が、今なのだろう。


「やっぱりね、ごめんって言われちゃった。見たことない優しい顔で、ありがとなって。⋯⋯何あれ、御幸ってあんな顔できるの? いっつも意地悪言って笑ってるくせに。だからいつもみたいに意地悪く笑って、『ごめんな、ドンマイ♡』とかって言ってくれればよかったのに。なのに、あんな顔で⋯⋯」


 名前の声が湿る。地面へと視線を落として話を聞いていた倉持は慌てて顔を上げた。しかし名前の瞳は、ただただ静かに伏せられていただけだった。


「告わなきゃよかったかなあ。フラれることはわかってたんだし⋯⋯元に戻れるかな。フラれたとはいえ、今までみたいにふつーに話したりしたいよ。⋯⋯まぁこの傷が癒えたらだけど」
「最後声ちっせ」
「うるさいなあ」


 きっと名前の中で答えは出ているのだ。
 御幸に想いを伝えたことは、後悔していない。伝えずに生きていくことはできなかったから。結果だって分かっていた。それでも伝えたかった。でも、やっぱり。後悔したくなるくらいには、──堪える。

 そして、まるっきり元の関係に戻ることも、残念ながらできないのだ。元みたい・・・な関係は、あるだろうが。想いを伝えた。想いを知った。その事実だけは、消せないのだから。


「ねえ倉持」
「あん?」
「また御幸に話しかけてもいいと思う? 昨日のご飯は何だったとか、うちのインコがこんな言葉覚えたよとか⋯⋯そういうどーでもいい話を、これまでみたいにしたいの。でも、やっぱり迷惑かな」


 名前の声はどこか淡々としていた。

 御幸とこの先関わらずに生きる道と。実らずに落ちてしまった恋心を抱えたまま、それでも今度は友達として御幸と関わって生きていく道と。

 どちらが正しいのか。どちらが幸せなのか。そんなものは誰にも分からないが、名前は後者を選んだのだろう。


 ──“迷惑かな”


 この言葉に、「んなわけねぇだろ」と喉元まで出かかった。


「? 何か言いかけた?」
「いや」
「そう?」


 倉持からは、言えない。
 御幸が言わなかったことを、倉持から言えるはずがなかった。

 日差しを遮るように、束の間瞼を閉ざす。いつかの御幸の言葉が浮かぶ。





「なあ倉持⋯⋯もしかしてアイツって俺のこと好きかな」


 殴りたくなるようなこんな台詞を、前触れもなく吐かれた。いっそ本当に殴ってやろうかと思ったが、声音に反して御幸の表情があまりにも辛気臭過ぎて、戦意が削がれた。

 削がれたせいで反応が遅れてしまい、そのことが倉持の肯定を暗に示してしまっていた。


「⋯⋯やっぱそうだよな」
「アイツの口から聞いたわけじゃねえけど⋯⋯案外分かりやすいからな。そうなんじゃねぇの。つーかなんだよその顔」
「だってさぁ⋯⋯どーしよ倉持」
「ああ? どこの甘えん坊だよ、腹立つヤローだな」


 いつもの調子で吐き捨ててから、「両想いなんだろ、そんな面してっとぶん殴るぞ」ともう一言二言吐き捨てる。

 それでも御幸の面持ちは変わらず、倉持は訝しげに眉を寄せた。


「まさかお前──」
「⋯⋯だって仕方ねぇだろ。今は⋯⋯つーか引退するまでは野球以外の余裕なんてねぇし、そのうちアイツの存在が煩わしくなって⋯⋯傷つけたくねえもん。それくらいなら、このままがいい」
「テメーの勝手ばっかじゃねぇかよ。んなもんお前が傷つけなきゃ良いだけだろ。言ってること滅茶苦茶だぞ」
「いいや。お前こそ滅茶苦茶言ってる。分かってんだろ、俺はどーやったって野球ばっかになっちまうんだ。アイツを特別にしちまったら、それを守り抜けない。そうなる未来が分かってんのに、どうしてアイツをこれ以上傍に置ける?」


 じゃあ、どうすんだよ。アイツの気持ちも。お前の気持ちも。全部野球の前に霞んじまうっていうのか。

 お前にとって、野球って。

 口には出さず、正面から眼鏡の奥の双眸を見据える。まさか今の胸の内が聞こえる由もないだろうに、御幸は、酷く真剣な面持ちで倉持を見返した。


「──ああ。その通りだよ」
「⋯⋯チッ」
「俺には、野球が一番だ」


 そうだ。
 御幸は、こういうヤツだ。

 何よりも、野球のために。
 そうやって生きてきた男で、そうやって生きていく男で、そういう男だから野球に愛され野球を愛す。野球とともに生きていくとはこういうことなのだと、嫌でも思い知らされる。これが俺たちの主将なのだ。


「⋯⋯頼むから、何も言わねぇでくれよな」


 御幸のこの呟きが、倉持に向けられたものなのか、名前に向けられたものなのか。このときは分からなかったが、今なら、名前に向けられたものだったのだと分かる。


 ──頼むから、告わねぇでくれ。





 あのときの御幸の顔が眼裏に染み込み、回想が終わる。
 瞼を持ち上げ、再び瞳を日差しに晒す。まったく酷ェ男だよ、と口の中で呟いてから、名前を見る。


「⋯⋯お前は話せんのかよ」
「⋯⋯わたし?」
「御幸の顔見て、これまで通り話せんのか?」


 名前が選ぼうとしている道は、きっと、苦しいと思う。御幸への想いもいつかは「過去」に出来るのかもしれないが、こればかりはどうしたって時間がかかる。

 御幸は、御幸には、勝手に苦しみやがれと思う。
 傷つけたくないからと言っていた口で、結局はこうして名前を傷つけている。ただ、どちらの傷のほうが浅く治りが早いかというだけの話で、傷つけた事実は何も変わらない。

 いや確かに、御幸は何も悪くない。

 悪くないのだが、倉持としては非常に複雑な気持ちなわけで、その矛先として御幸を責めるのが最も楽だし、鬱憤が晴れるのだ。致し方なしだキャプテン。

 そして御幸からは、「元通り」とか「友達として」とか、そういう関係の継続は望めない。

 だから今後のすべては、名前次第だ。


「それが出来ねぇなら──」
「⋯⋯できる」


 名前は静かに、しかし気丈な声音ではっきりと口にした。


「わたしできるよ、倉持」


 凛と上がったその顔に、柔らかな日差しが注いでいる。透き通った瞳が美しい。


「⋯⋯それなら、話せ。俺もこれまで通りでいるからよ。アイツにとって迷惑かどうかなんてどうでもいい、お前がやりたいようにやれ」
「ふふ、なんでちょっと怒ってるの」
「怒ってねぇよ」
「きゃ、こわい」


 わざとらしく肩を竦めて、それから名前はベンチの上で膝を抱えた。ちいさく丸まったその姿勢に、自分とは違う性が際立つ気がした。


「ところで倉持クン。ちょっとだけワガママを聞いてくれますか」
「あんだよ?」
「⋯⋯泣いてもいい?」
「──⋯⋯っ」


 そう問うた名前の声はすでに、涙で濡れていた。倉持はぎりりと奥歯を噛む。拳を強く握っていた。

 やっぱアイツ、いっぺん殴ってやろうか。

 ほとほとと落ちる涙の粒が、名前の膝頭を濡らす。


「ごめん、なんか、話してたら急に現実味を帯びちゃって⋯⋯」
「謝ってんじゃねえよ」
「ふふ⋯⋯ありがとう」


 ごめんも。ありがとうも。どちらもいらない。いらないから、一秒でも早く名前の心が晴れてほしい。


「こういうときって、よく『雨が降ってきたね』なんてお洒落に言うじゃん。これは涙じゃなくって雨のせいだよって。わたしもそれやりたかったのに、バカだから素直に『泣いてもいい?』なんて聞いちゃった」
「いや、そんなこと言ったら『バカか? めちゃくちゃ晴れてんぞ』って言われて終わってたぞ。言わなくてよかったな」
「あはっ」


 泣きながら笑う名前を、抱きしめてやりたい気持ちを目一杯抑えた。抑えて、抑えて、そうして心の中で名前に捧げる祈りのように呟く。


 ──片想いくらい、許してくれよな。


 今、この瞬間。名前の涙の隣にいられたことをどこか嬉しく思ってしまった自分を、どうか、許してほしい。








◆あめあめふれふれ◇


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