一番星が落ちちゃって
カラリと軽い音を立て、窓がサッシをすべる。直後、ひやりとした空気が室内に流れ込む。広げたマフラーを肩から羽織り、ベランダに出る。
暦は十二月初旬。
冬本番の寒さとまではいかないが、肌に、粘膜に、ぴりりと冷気が刺さる。見上げた空は濃藍。吸い込まれそうな冬の夜空に、ちいさな星が散らばっている。
「オリオン座」
呟きとともにほわりと白い吐息がくゆる。
冬の空はいい。寒いほどに澄んでいき、気づけば心をがらんどうにしてくれる。だからこうして時々ベランダに出る。疲れたとき。辛いことがあったとき。何でもないとき。
冬の空は、いい。
マフラーを羽織り直し、今度はほわりと息を吐く。その粒子を追いかけて巡らせた視線の先に、ひと際光る大粒の星。
「宵の明星⋯⋯かな? あれ」
と二度目のひとり言を零した、その時だった。
ピンポンピンポンピポピポ!
ドンドンドンドン!
「ひっ⋯⋯!」
突如として響いた鬼チャイム鬼ノックに、わたしは慄然とした。
誰だ、こんな時間に、ひとり暮らしの女の子の部屋に。
訪問者の予定はないし、そもそもこんな非常識な訪ね方をする友人を持った記憶もない。そして例え相手が誰であろうと絶対にただ事ではない。危険を察知。何があっても玄関は絶対に開けてはいけない。
というか、普通に怖い。
竦む足でゆっくりと室内に戻り、そっと窓を閉める。怖いけれど、でも確認せずにはいられない。そんな心理が働いて、恐る恐るインターフォンのモニターを確認しにいく。
その途中、玄関から男の人の「来ましたよー! 開けてくださいー! わははは!」という大声が聞こえてきて、わたしは泣きそうになった。
警察、警察を呼ばなければ。何番だっけ、警察って何番だっけ。
爆発しそうな心臓と背中を伝いだした冷や汗、そして震える指先を自覚しながらモニターに近づき、そうだお巡りさんは百十番だ、と思い至ったところで、わたしはぽかりと口を開けた。
「え⋯⋯沢村くん? 何してるの⋯⋯」
モニターには、にこにこと満面の笑み、もといアホ面でリズミカルにノックをしながら「開けてー、開けてー」と陽気に続けるおバカさんが映っている。
「絶対酔っ払ってるじゃん⋯⋯ていうかなんでうちに? 意味がひとつもわからない⋯⋯」
大学の同期である沢村くん。彼のキャラ的な問題でわたしは彼をそこそこ知っているけれど、接点はほとんど持ったことがない。もしかしたら彼には認識されていないかもしれない。そのレベルの距離感だ。
ちなみに高校も同じなのだけれど、一度も同じクラスになったことはない。
彼は悪い子ではない。悪意を持ってこんなことをする子でもない。それはわかる。わかるのだけれど。お願いだから勘弁してほしい。
震えの名残がある人差し指で、モニターの通話ボタンを押す。
「沢村くん、たぶん部屋間違ってるよ」
「キャップー、早く開けてー」
「わあ、全然聞いてくれない」
聞いてくれないというか、沢村くんがずっと喋っているせいで、そもそもわたしの声が聞こえていないのかもしれない。
少し迷った末、諦めて玄関の扉を開ける。
「わははは! やーーっと開けましたかキャップ!」
「沢村くん、部屋間違ってるよ。うちにはキャップという人はおりません」
「わはは、は⋯⋯あれ? 苗字?」
紅潮した頬。いつにもまして高いテンション。どこかでお酒を引っ掛けてきたこと確定である。
「わたしのこと知っててくれたんだ」
「そりゃあ同級生だからな。てかなんでお前がキャップんちに?! まさかそういう関係?!」
「だからうちはキャップんちではありません。だあれ? それ」
首を傾げた、その時だった。
玄関に向かって左隣の部屋の扉が開く。タイミング的には明らかに沢村騒動が原因だろう。
わたしは身構えた。
ここに住んで二年半になるが、生活リズムが違うのか左隣の住人を一度も見かけたことがないのだ。女の子のひとり暮らしなので挨拶回りもしていない。故にどんな無頼漢が出てくるかわからない。対してこちらは酔っ払いの野球青年にただの女子大生である。
いつでも誰かを呼べるようスマホを握りしめるのと、同時だった。扉の向こうからドキドキのそのお顔が覗く。
「沢村お前いい加減にしろよ、近所迷惑だろ!」
「あ! キャップ! そっちでしたかー!」
どうやら沢村くんはドアをひとつ間違えていたらしい。
あははと暢気に笑う沢村くんの隣に佇むわたしを見て、隣人は「げ、」と洩らした。
「もう迷惑かけた後かよ⋯⋯すみません、ほんとコイツ馬鹿で⋯⋯ほらお前も謝れ!」
対するわたしは、お目見えしたそのご尊顔に目を見開き硬直していた。
「⋯⋯御幸先輩」
「ん?」
名を呼ばれ、先輩の視線がしっかりとわたしを捉える。記憶の中を彷徨うように僅かに瞳を揺らしてから、合点がいったのか焦点が合う。
「⋯⋯あれ、何してんのこんなとこで。球場で見るのと雰囲気違くて一瞬わかんなかった」
「何って、ここわたしの家です⋯⋯」
「ここって、隣? まじで。ついになっちまったか、ストーカーに」
「ちっ、違います! ほんとに! ほんとーーにたまたま! 偶然なんです!」
「ははっ、わかってるよ。でもあんま否定すると本当っぽくなるぞ」
「んぐ⋯⋯ていうか覚えててくれたんですか、わたしのこと」
「何をいまさら。昔からこんなに熱心に応援してくれるファン忘れたらバチ当たるわ。つーかこんだけサイン書いたり写真撮ったりしてて覚えないとかムリムリ」
「そうなんです、先輩の大ファンなんです⋯⋯握手してください⋯⋯」
「はっはっはっ! 相変わらずだな」
笑いながら伸ばしてくれた手を、そっと握る。球場で求める握手よりも、少しひやりとした温度だった。
──高校時代、彼は、わたしの憧れだった。その顔立ちに、類稀なる野球の才。ちょっと不敵な笑みも、グラウンドで見せるプレーも、そのどれもに憧れていた。ファンだった。そして現在進行形でファンである。
いつでも応援に行ったし、あしらわれるのを厭わず、姿を見かければいつだって熱々の声援に隠したラブコールを送りつけていた。
正直、たぶん、ちょっとだけ、うざかったと思う。そして現在進行形でうざいのかもしれない。
ドラフトでわたしがファンクラブに入会している球団に決まったときは一日泣いて喜んだし、部屋なんてもう彼のグッズで溢れている。二軍の頃から練習や試合観戦も足繁く通い、機会があればサインをもらい、写真も撮ってもらったりする。
彼にとってはファンのうちの一人との記憶にも残らぬ出来事だと思う。しかしわたしにとっては、夢のような出来事だ。
それはいつだってわたしの活力になっている。スポーツ選手とか、アイドルとか、存在だけで見知らぬ誰かの力になれる人。その裏の苦悩や痛みは想像することしかできないけれど、本当に、尊敬している。
そんなわけで、御幸先輩が沢村くんとバッテリーを組んでいたことも、キャプテンを務めていたことももちろん知っている。しかしまさか高校時代のキャプテンのことを今もキャップと呼んでいるとは思わなかった。“キャップ”の単語を、御幸先輩に結びつけられなかった。
まあ、例え結びつけられたとしても、このマンションに住んでいるとは到底考えが及ばなかっただろう。だって、もっと豪勢でセキュリティとかもしっかりしていて、他にも有名人が多数住んでいます! みたいなマンションに住んでいるのだと勝手に思っていたから。
「おいおい、泣くなよ、握手なんていつものことだろ」
「だってここ球場じゃないですもん〜〜」
わたしは御幸先輩のことが大好きだけれど、それはあくまでも野球選手と、一ファンという関係だ。
それがこんな、こんな。
だって目の前の先輩ときたら完全にオフモードではないか。感極まって涙だって溢れてしまうというものである。ていうかオフの姿も格好よすぎてわたしは一体どうしたら。
自分の感情を整理しきれず、ただ頬を涙がはらはらと落ちる。辛うじて発した言葉は涙声で情けなく掠れていた。
「⋯⋯御幸先輩、オフもかっこいいです」
「はは、今日もストレートだな。サンキュ」
「そうやってスマートに流すのも相変わらずです。⋯⋯先輩、わたし自信がないです」
「? 何の?」
「その、理性というか⋯⋯そもそも先輩はなんでこんな庶民が暮らすマンションに住んでるんですか、防犯とかマスコミとか大丈夫なんですか」
「へーきへーき。万が一何か書かれたって別に気にしねぇし。つーか書かれるネタもねぇし」
「ふふ、気にしなさそ〜〜」
「だろ。で、何に自信がないって?」
隣で最推しが生きているという生活に、わたしの心臓や理性は耐えられるのだろうか。ファンと選手。その垣根を越えることを絶対に望むまいとする強靭な意思を、持ち続けられるだろうか。
⋯⋯自信がない。これっぽっちも。
この先どうやって生活していけばいいのか、まったく想像ができない。
「うう、絶対無理です⋯⋯」
「自分で話振っといて教える気ゼロじゃん。まぁいいけど。⋯⋯とにかくいっつもありがとな」
更には時折見せるこの笑顔である。
目の前がちかちかする。眩し過ぎる。遠く夜空で輝く星々が、一思いに収束したみたいだ。
このままではお星様に導かれ天に召されてしまう。⋯⋯でも、それもいいか。こんなに幸せなら。
だなんて勝手に有頂天になっていた、その時だ。
「キャップー、早く部屋に入れてくださいよ、凍えちまいます!」
昇天しかけた魂が、存在を忘れ去られていた沢村くんの声によって戻ってくる。そうだった。沢村くんがいたんだった。
「お前はどーやったらそんな図々しく生きられるんだよ⋯⋯」
「わっはっは! これが俺の生き様ですから!」
「は?」
このあたりの沢村くんの発言は、お酒のせいなのか元来のものなのか、わたしには判断ができない。どちらと言われても納得してしまう。
「そういえばなんで沢村くんはここに?」
「ああ、コイツさぁ、マジ先輩のこと何だと思ってんだよって話なんだけど、駅から自分ちまでの途中にこのマンションがあって、酔っ払うとなぜか寄り道する習性なんだよ。しかも五割くらいの確率で勝手に泊まってく。何言っても直んねぇから最近は俺も諦めてんの」
「それは酷いですね⋯⋯」
「だろ? 一体何だってんだよな」
「⋯⋯本能とか?」
「んな本能あってたまるか」
「なんていうか、かつての女房役のところに帰巣しちゃう本能みたいな」
「なんだそりゃ、超迷惑。かつてじゃなくて今の女房んとこいけ」
「痛い!」
軽いチョップを脳天にくらった沢村くんは、室内へと渋々招き入れる御幸先輩に促され扉の向こうへ消えていった。このまま先輩も部屋に入ることだろう。
これで、お別れか。
嵐のような奇跡だった。二度とはない夢の時間だった。どれもこれも傍迷惑な沢村くんのおかげである。今度何かお礼をしよう。
そんなことを考えながら、せめて扉が閉まるまで見送ろうと留まっていると、一度扉の向こうへ消えかけた先輩のお顔が、ぴょりと戻ってきた。
な、何事ですか。
最後に何か置土産でもくれるんですか? めっちゃ喜びます。
なんて少しの期待を図々しくも込めて、首を傾げてみせる。
「?」
「来いよ、嫌じゃなけりゃ。沢村さ、こういう時いっつも俺に飯作らせんだよ。迷惑かけたお詫びっつったらアレかもしんねぇけど、一緒に食おうぜ」
「え⋯⋯」
理解がまったく追いつかず、ひたすらに呆然とするわたしの頭上では、きっと、星々が変わらず瞬いているのだ。
◇一番星が落ちちゃって◆
一周年企画に続篇があります。