海と宇宙って同じかな

「海に行きたいな」
「ん?」
「見てこれ。ここに甲子園浜ってあるの」


 灼熱の太陽が注ぐ真夏日のことだ。
 名前と御幸は、甲子園駅のホームへと降り立った。駅構内の地図を眺めている最中、名前の指先がその場所を示す。


「へえ、ほんとだ。去年は気づかなかったな、それどころじゃなかったし。帰り寄ってくか」
「いいの? やった!」
「うん。てか暑ぃな⋯⋯午前中だってのに何度あんだこれ」


 蒸せ返すような熱気が纏わり付く。
 その熱気に、高校時代の記憶が否が応にも惹起されていく。

 野球に捧げた高校生活を終えたのが、たった数ヶ月前のことだ。
 卒業後、プロの道へと進んだ御幸と、大学へ進学した名前。その他各々の場所へと散った同級生たち。なかなか会う機会もなかったが、沢村ら後輩たちが甲子園出場を決めたことを契機に皆で連絡を取り合い、現地で応援をしようということになったのだ。

 名前は、当然のように皆が来るのだと思っていた。あんなに目標にしていた甲子園の舞台に後輩が立つのだ。いても立ってもいられない。皆そうだと思っていた。

 しかし今はもう、それぞれに新たな生活があるのだ。

 来られる者、来られない者、遅れて来る者、オンライン参加の者。
 皆様々だったが、何の縁か、丸一日暇であったのが名前と御幸だけで──なぜシーズン中に御幸が暇なのか? ということは深く考えないことにした──、二人きりで朝早くから新幹線に乗り込んだというわけである。

 駅を出て、目と鼻の先に聳える甲子園球場へと向かう。蔦で覆われる様子がはっきりとわかるようになってきたあたりで、名前はスマホを片手に非常に高めなテンションで声をかけた。


「御幸、御幸っ、写真撮ろう!」
「えー、俺写真とかあんまり⋯⋯」
「いくよ! はいちーず!」
「聞いちゃいねぇ」
「あははっ、見てこの顔。もっかい撮ろう! 笑ってね」


 なんだか変な気持ちだ。
 去年は皆で、戦うためにここに来た。日本の頂点を懸けて、自分たちのすべてを懸けて。それなのに今は、ちょっとした観光気分まで入った完全な外野だ。

 撮りたての写真へと視線を落とし、名前は複雑そうに眉を寄せる。


「⋯⋯なんか、変な気持ち」
「あー、俺も。お前はどんな?」
「なんて言うか、もう自分の番じゃないんだなあって。ドリンク用意したりスコア書いたりしたいよ〜〜〜」
「書きゃいいじゃん、どーせ入ってんだろ、そのでっけえリュックに」
「ま! なんて趣のないことを。スタンドじゃなくてベンチで書きたいの」
「ははっ、スコアブック入ってることは否定しねぇんだ」
「ふふ、うん」


 マネージャーをやっていた頃の癖というか、なんというか。球場に行くからにはスコアブックは持たねばならぬと身体に刷り込まれているし、メガホンとか、その他色々なグッズがリュックには詰め込まれている。

 だから重い。
 肩にずっしりとのしかかる。

 まるで、高校三年間で味わった以上の青春はもう味わえないと言わんばかりに、重い。


「御幸は? どんな気持ちなの」
「んー⋯⋯なんで俺がスタンドにいんのかねって気持ち。久々にアイツらの球受けてぇな」
「あ、それわたしも見たいな。沢村たちも絶対喜ぶよ、奥村は嫌な顔しそうだけど」
「嫌な顔どころか暴言吐かれそうだよな」
「あははっ。でも結局嬉しさの裏返しなんだよね」


 スタメンは誰だろう。対戦チームはどんなだろうか。後輩たちに声はいつ掛けようか。等々話しながら入場手続きを済ませ、スタンドへの通路を行く。

 天井が途切れ、太陽が差す。
 視界が開けた直後、ぶわりと。グラウンドからの熱気に煽られ、ふと一瞬、足が止まる。ひゅ、と細く息が通った。

 グラウンドでは試合前ノックが行われていた。どこに行っても元気な沢村の声。白球が飛び、砂煙が上がる。この匂い。この音。この高揚。


「──⋯⋯」


 半年も経っていない。たった数ヶ月だ。

 それだけなのに、もう、名前には手が届かない。あの笑顔と苦悩の渦中には入れない。泣いて笑って喧嘩して。ただ強くなることを掲げて、皆でがむしゃらに生きる。

 そんな頃には戻れない。

 時の流れは非情だ。何者にも、何物にも、留まることを許さない。許してくれない。

 駆け抜けた高校生活に後悔などない。やりきった。御幸たちと過ごした三年間は、何物にも代え難い一生の宝物だ。

 それなのにどうして。

 こんなにも、胸が苦しい。


「⋯⋯やばい、泣きそう」
「なに、おセンチ?」
「⋯⋯もう、すぐ茶化す。そういうとこ全然変わんないね」
「会わなくなってからたった四ヶ月だぜ。変わりゃしねぇよ。お前も変わってないし」
「? どこが?」
「泣き虫なとことか」
「む」


 口を尖らせてはみるものの、自他ともに明白なる事実なので何も言い返せない。

 御幸は可笑しそうに笑ってから、「俺らはさ、」と口にした。


「お前のそういうとこに、救われてたりしたんだぜ」
「⋯⋯? すぐ泣いちゃうの、結構気にしてたりするんだよ。そんなとこに救われることなんてある?」


 迷惑に思うことならいくらでもあるだろうが、救いになることなどあるだろうか。

 穿った気持ちも込めて、御幸を見る。御幸は少し昔を懐かしむように目を細め、晴天に高々と立つバックスクリーンのあたりをぼんやりと眺めている。


「俺らが堪えた分もお前が泣くからさ。お前のこと泣かせたくねぇなって、皆思ってたよ。逆に嬉しいときは『おう、泣け泣け!』って感じだったけど」
「⋯⋯御幸に堪えた涙なんてあるの」
「俺はない」
「ふふ」


 御幸は、強かった。

 主将として、四番として、正捕手として。責任。期待。重圧。悩んでいた姿も、周囲とぶつかる姿も、怪我と戦う姿も見てきた。しかしいつだって前を見据え、それらをすべて力に変えてきた。

 泣きたいことなんて、いくらでもあっただろうに。それをおくびにも出さず。


「行こうぜ、おセンチ名前ちゃん。確かに俺らはもう戻れないけど、だからこそここにいるんだぜ」
「ちょっとかっこよさそうなこと言わないでよ」
「ははっ、惚れそう?」
「おバカ」


 本当に、おバカ。

 前を歩くおおきな背中に向かって、名前はぽつりと呟いた。





「あーっ! キャップ! 来てたんすか! 苗字先輩も! 連絡してくださいよ水臭い!」
「相変わらずうるせーな、沢村。顔見せたことだしもうさっさと帰ろうぜ」


 そう言って名前に向き直る御幸の背後から、沢村がぷりぷりと追いかけてくる。

 その顔を見ればわかる。沢村は嬉しいのだ。御幸が来てくれたことも、自分のピッチング──今日は非常に調子がよかった──を見てもらえたことも。お褒めの言葉やアドバイスの一つや二つ貰いたいに決まっている。それなのに御幸のこの塩対応ときたら。はたから見ててもしょっぱ過ぎて血圧上がりそうだよキャップ! と、名前は思う。

 しかしこの程度で挫ける沢村ではない。


「酷い! 酷いよキャップ! 勝利を収めた可愛い後輩におめでとうもナシですか?!」
「あーはいはい、おめでとさん」
「それだけ?!」


 そんな沢村に、だんだん御幸が真顔になっていく。「そーだった、コイツこーいうヤツだったよな⋯⋯」なんて心の声が聞こえてきそうだ。頑張れキャップ。

 と静観を決め込んでいたら、突然矛先が名前へと向けられる。


「俺に構うよりさあ、戻れない日々への憂いが全然晴れないヤツがいるから、そっち何とかしてやってくれよ」
「???」


 御幸が指した方向を、沢村の視線が素直に追う。その先には当然名前の顔があって、名前は抗議の声を上げる。


「ちょっと⋯⋯ひどい無茶振りで沢村が可哀想すぎるし、わたしの恥ずかしい話しないでくれる?」


 そんな名前に一向に構う素振りを見せずに、沢村は腰に手を当ておおきく笑った。


「苗字先輩、大丈夫っす! 皆そういうセンチメンタルな気持ちを抱えて大人になっていきますから! わはは! それに先輩子供っぽいから俺らに混ざっても分かんねぇっすよ、いつでも遊びに来てくだせぇ!」
「ありがとう、予想外に素敵な返答で正直びっくり⋯⋯でもいい感じに励ましたあとになんで貶したの? わたしそんなに子供っぽいかなあ⋯⋯って御幸笑ってるし」


 ちくり。

 御幸や沢村のおかげで取れそうな棘が、まだ少しだけ心に刺さっている。
 きっとこれは完全には取れず、皆、一生抱えていくのだろう。たまに思い出したりして、あの頃はああだったね、なんて話をしたりして。


「てか何、今日は二人で来たんすか? あれ? あれあれ? もしかしてそういう関係?!」
「あーもー、そこはかとなくうるせぇ。たまたまだっての」
「えー?! ほんとですか?」


 沢村の言葉に、名前は視線を落とす。地面では名前と御幸の影が、すれすれで接し合っていた。

 ──たまたまじゃなきゃよかったのにね。

 そんな言葉を、飲み込んだ。





「すごーい! 海だーーー!」
「あんま遠く行くなよ」
「うん! リュック見ててね!」
「はいはい」


 砂浜へと続く階段に腰を下ろした御幸に荷物を預け、名前は砂浜に駆け下りた。むきゅり。砂独特の感触に心が踊る。


「ねえ御幸! 海だよ!」
「うん、そうだな」
「御幸もおいでよ!」
「荷物見とけっつったのどこのどいつだよ⋯⋯」
「あっ、わたしだ! ごめん!」
「いーけど」


 なんだかんだ言いながら名前の荷物を背負い、御幸も足を向けてくれた。足取り軽く海辺を歩く名前の後ろを、ゆっくりとしたペースで歩いている。

 風が気持ちいい。海の匂いだ。

 今日は色々なことがあった。様々なことを考えた。少しやり切れないような、切ないような気持ちになった。そして、雄大な自然が目の前にある。

 多くの出来事が重なったせいか、なんだか堪らない心地になり、気づけば名前は──海に向かって大声で叫んでいた。「あ」とか「わ」とか。文字にすればそんな音に近い声で、お腹の底から叫ぶ。

 これでもかと。精一杯に。

 映画やドラマではよく見るシーンだが、実際にやったのは初めてだった。

 気持ちいい。爽快感が半端ない。
 この行動が御幸にどう思われているかだけが怖いが、それを差し引いても断然シャウトが勝る。

 全部。全部。

 この叫びと一緒に海に飲み込まれてほしい。どうかこのまま。海の藻屑となってくれ。


「御幸の馬鹿ーーーーーーっ!」
「なんだよ、突然叫びだしたと思ったら次はすっげー大声で詰るじゃん」


 呆れた御幸の声を聞きながら、力の限りで叫ぶ。


「好 き だーーーーーーーー!」








「⋯⋯⋯⋯は?」


 長過ぎる沈黙を破ったのは、間の抜けた御幸の声だった。名前は一種の達成感さえ滲ませた紅潮した顔で、張り上げた声の余韻か若干息を上げたまま御幸を見る。


「聞こえた?」
「⋯⋯マネで培ったいい声だった」
「それならよかった」


 蟠りはいらない。後悔もいらない。伝えたいことは全部伝える。そんな生き方をしたいと、今日、強く思った。

 だから長年の恋心を、手渡そう。


「あのね御幸。ずっと好きだったの。わたしと付き──」
「おっと。待て、何言いかけた」
「え、だから、わたしと」
「ストップストップ!」
「ふふ、なあに? 言わせたいのか言わせたくないのかどっち?」
「言わせたいけど言わせたくねぇんだって」
「はい?」


 波打ち際で向き合う御幸の頭には、後ろ向きにキャップが乗っている。似合う。ああ、やっぱり格好いいな。御幸の姿を見るたびにこんなことを思うのにも、年季が入ってきた。


「一応聞くけど、マジだよな」
「うん。かれこれ三年くらい経つかなあ」
「はあ?」


 急に逆ギレされた。
 告白してキレられることもあるんだな、と暢気に思う。長きに渡る想いを吐露した今の名前は気が良いのだ。御幸の返答に気を揉むよりも、伝えられた事実のほうに充実を感じている。だから大抵の発言は気にならない。


「お前、そーいうことはもっと先に言えよ⋯⋯」
「あはは、簡単に言えたら誰も苦労は、きゃ⋯⋯っ」


 突然のことだった。

 ふわりと、宙に身体が浮く。

 見るはずのない高さからの景色。青空と、海と。風に髪が靡く。両脇には御幸の力強い手の感覚。抱き上げられているという現状への理解は追いつかないのに、目の前の景色だけが妙にクリアだ。そのくせ、現実ではないようにも思う。

 自分がどんな顔をしているのかわからない。頬があつい。目の前で見上げてくる御幸の視線が、あつい。御幸の唇が、ゆっくりと動く。


「──俺も、好きだ」









「⋯⋯⋯⋯え?」


 二度目の長過ぎる沈黙を破ったのは、間の抜けた名前の声だった。なるほど、先程の御幸の気持ちが手に取るようにわかる。自分の耳を疑うところから始まり、その言葉を理解するまでに至らない。

 いつの間にか、宙に浮いていた身体が御幸の腕の中に降りている。海の匂いに、御幸の匂いが混ざる。何がどうしてこうなっているのか。なぜ御幸に抱きしめられているのか。

 わかるはずなのに、わからない。


「⋯⋯うそ」
「ほんと」
「だ、だって、これまでそんな素振りひとつもなかった」
「それはお前だってそうだろ。俺だって一年のときから好きだったっつーの」
「⋯⋯うっそ」
「ほんとだって。だから、ほんとは俺から言いたかった」


 ずっと片想いだと思っていた。
 だからこそ三年間も想いを伝えずにきたし、今だって玉砕覚悟での告白だったのだ。それがどうして。御幸も三年間も想ってくれていたというのか。俄には信じられない。

 抱きしめられたまま、御幸を見上げる。近い。近すぎる。息ができない。というか息をするのさえ許されないような気がする。


「⋯⋯その、わたし息してもいい? 許される?」
「は?」


 などと意味のわからないことを口走る程度には、混乱している。


「てかこんなことあると思うか? あんだけ同期いんのに、都合つくのが俺とお前だけって」
「⋯⋯まさか」
「そ。アイツらが俺に気利かせてくれたってわけ。まぁ半分揶揄われてたみたいなもんだけど⋯⋯感謝しねぇとな」


 迷った末おずおずと胸に頬を預けてみると、頭を撫でてくれた。ゆっくりと実感が伴ってくる。どうしよう。嬉しい。胸がいっぱいだ。いっぱいで、苦しくて、もう一度叫びたい。大声で、海に向かって。


「いやー、でもまさかなー、あんな大声で叫ばれるとは思ってなかったわ、はははっ」
「⋯⋯っ、忘れてください」
「ムリムリ」


 心底可笑しそうに笑う御幸に複雑な気持ちになる。笑ってくれて嬉しいような、今頃になって恥ずかしいような、もう一度叫んでしまわなくてよかったような。


「⋯⋯じゃあ御幸もやってよ、それでおあいこ」
「やだ」


 波の音。御幸の笑い声。暑い夏。
 戻れない日々と、これからの日々を。忘れたくないと思った。





◆海と宇宙って同じかな◇

本作と「彗星みたいな夜だった」の間のおはなしが一周年企画にあります


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