彗星みたいな夜だった

「海に行きたいな」


 名前が発したその言葉は、行き交う車のヘッドライトに照らされ、そしてそのまま夜の蒸した大気に溶けた。

 こんな時間に海に行きたいだなんて。目の前の御幸はさぞかし困っていることだろう。

 しかしそれでいい。
 こんな我儘も、今日で最後なのだから。


「⋯⋯分かった。あんま遠くまでは行けねぇけど」
「えっ、でも、わたし甲子園浜に行きたいの」


 名前の家の前に停めた車の脇で、御幸は目を丸くした。御幸のかたちの良い双眸は、夜の中でもよく見てとれる。


「お前⋯⋯何時間かかると思ってんだ」
「だめ?」
「だめっつーか、さすがに無理」
「⋯⋯ケチ。行きたいとこどこでも連れてってやるって言ったのに」
「そうは言ったけど限度があんだろ。ケチじゃねえの、無理なもんはむーり」


 もともと行けるとは思っていない。言ってみただけだ。それでも、最後はあの場所が良かったというのは、本当。御幸とはじめて想いを交した、夏の海。青い空。潮風。すべてを覚えている。

 だから、あの場所で。

 終わりにしたかった。


◇ 


 あの夏から、四年が経った。

 御幸はプロの世界でどんどん頭角を現し名を上げ続け、その一方で名前は就活真っ最中。もとより会える機会は少なかったが、今年度は輪を掛けて少ない。直接顔を見る──各メディアで名前が一方的に目にすることは多々あるのだが──のなんて何ヶ月ぶりだろうか。

 運転席に座る久方ぶりの御幸の横顔を、気づかれぬ程度にだけ顔を回して見つめる。

 ──大人になった。

 こんなふうにかっこよく車も運転しちゃうし、お酒だって飲めるし、名前の両の目が飛び出るほどのお給料だってもらっている。

 ──大人に、なった。

 無垢に白球を見つめていた高校時代とは違う。より男らしくなった顔立ちに、よりおおきくなった身体。その身一つでプロの世界で生きている人。

 御幸は昔から連絡無精であるし、本当に多忙で、ここ最近は連絡という連絡も取れていなかった。

 完全にすれ違っていた。

 御幸にとっては違うのだろうが、名前の中では御幸の存在はいつだっておおきくて、おおきくて、何かに没頭して一時忘れたとて、次の瞬間には考えてしまうのだ。

 今頃何をしているだろうか。声を聞きたい。顔を見たい。会いたい。触れたい。抱きしめてほしい。同じ時を過ごしたい。

 迷惑だろうかと危惧しつつ、この気持ちを伝えてみたこともある。しかしまあ、想像通りの結果である。わかっている。御幸にとって野球がどれだけのものであるか。それにそんな御幸が、名前は好きなのだ。

 しかしそうは言っても、だ。

 邪魔にならぬようにと気を揉むうちに、いつしか自分から連絡をするというのも怖くなってしまい──連絡するたびに御幸の反応が素っ気ないというのもあるし──、ここ数ヶ月の御幸と名前は、自然消滅目前なのでは、と疑うレベルの接点のなさだった。

 信じたくないとは思いつつ、それでもどこかで受け入れる準備さえはじめていた。わたしたちは、これで終わっちゃうのかも、と。

 御幸がいなくなる。

 いや、正確に言うなれば、“御幸の生きる世界に名前がいなくなる”だろうか。

 それは想像するだけで心臓が抉りとられるような痛みだった。御幸にとって名前は、もうそういう存在なのだと。想像だけで泣けてしまうような想像などしたくはないのに、気がつくとこんなことを考えてしまう。

 そんな折だ。

 久々も久々に連絡が来て飛び上がったのも束の間、「大事な話があんだけど、会えねぇかな」なんて言われてしまえば、終わり以外の何者も予感されない。

 それで、最後だからか何だか知らないが、「名前の行きたいとこ行こうぜ」なんて言って車を出してくれるものだから、先程のように我儘を言ってみたというわけである。

 月灯や街灯、対向車のヘッドライトに疎らに染まる御幸の横顔からは、真意が汲み取れない。ただ静かに前を見つめるその表情を、名前もただ、静かに見つめた。





 潮の香りだ。

 御幸の静かで綺麗な横顔を見ていたのと、このあと待ち受けているのであろう出来事への気持ちの整理とで、行き先を気にする余裕がまったくなかった。ゆえに今自分がどこにいるのかまるでわからない。どのくらいの時間車に揺られていたのかもわからない。

 わからないが、ここが海であることだけは確かだった。

 目の前には、悠々と広がる深い深い濃藍。闇とも見紛う水面が、月と星の瞬く夜の空を受け静かに煌めく。緩い風に紛れ、波の音。海の匂い。

 綺麗で、しかしどこか恐ろしい。

 気を抜けばその漆藍に引きずり込まれてしまいそうな、その暗闇に落ちてしまえば二度と戻ってはこれないような。そんな漠然とした不安が、心の隅にしっかりと巣食う。

 しかしそれでも、前者が勝った。


「わたし夜の海ってはじめて!」
「そういや俺もだな」


 駐車スペースからは、すぐに砂浜へ降りられるようになっていた。夜に色を落とした砂を素足で踏みしめる。


「あ、意外と冷たい」
「名前、海には入んなよ」
「? どうして?」
「なんか戻ってこなくなりそうだから」
「ふふ、やだ、怖いこと言わないでよ」


 ていうか、戻ってこなくなっちゃうのは一也でしょ。

 浮かんだ言葉を飲み込んで、名前は睫毛を伏せて考える。今、わたしはうまく笑えただろうかと。御幸に残るわたしは、笑顔だろうかと。

 思い返せばこの四年間は、名前にとっては本当に幸せなものだった。周りの大学生のような堂々とした恋愛ではなかったものの、それを羨むことなど一度もなかった。

 ただ、御幸がいればよかった。

 幸せだった。

 波打ち際で、振り返る。ジーンズのポケットに片手を入れた御幸と目が合う。


「ねえ、一也」
「ん?」
「話ってなあに?」
「──⋯⋯」


 途端、御幸の眉が寄り唇に力が入る。それを見て、名前は思わず笑いそうになってしまった。そして、泣きそうになってしまった。そんなに言いにくそうにされては、名前もどうしたらいいかわからないではないか。

 二人の間に居座る沈黙を、穏やかな波の音が攫っていく。月灯に照らされた御幸の唇が動くまで、現実から逃げるように、一定間隔で踵すれすれを濡らす波へと想いを馳せていた。


「⋯⋯最近さ、」
「うん」
「全然会えなかっただろ。いつにも増して」
「うん」
「言い訳に聞こえちまうかもしんねえけど、本当に時間が作れなくてさ」
「うん、わかってるよ」
「色々考えたけど、俺はどうしてもこうなっちまう。やっぱ野球は譲れねえし。でも、この先もずっとこんな感じなのはちょっと無理なんだわ」
「⋯⋯うん」
「だからさ、」


 名前はきつく目を瞑った。やっぱり嫌だ。言わないでほしい。いなくならないでほしい。何かできることがあったのではないか。ここまで来てしまう前に、もっと。往生際悪くそんなことを考える。数々の後悔が押し寄せた。

 御幸がちいさく息を吸う。ついに迎えてしまったその瞬間に、名前は息を詰めた。


「⋯⋯一緒に暮らさねぇ?」










 ざざ──⋯⋯ん。

 波が何度も打ち付ける。

 名前は目を見開いて御幸を凝視し、御幸はこれまで見たことのないような硬い表情で名前の出方を窺っていた。

 その時間たるや、一体どれほどだっただろうか。

 沈黙に耐えかねたのか、ついには御幸が近づいてきて、目の前で手をひらひらと振りながら「あのー⋯⋯、おーい、聞こえてる?」と問うてくる。


「あ、はい、聞こえてます⋯⋯」
「なんか言ってくれよ。蛇の生殺しなんだけど⋯⋯」
「あ、はい⋯⋯」


 今一度、御幸の言葉を思い返す。


 ──一緒に暮らさねぇ?


 彼は確かにこう言ったはずだ。まさかとは思うが、幻聴? 「別れようぜ」を都合よく脳内で変換してしまったなんてことはないだろうか。

 あり得る。十分あり得る。そんなことがあり得てしまう自分が恐ろしい。


「あの、ちょっと、もう一回言ってくれる?」
「だーかーらー、一緒に暮らそうぜってば。何回も言わせんなよ、恥ずいんだから」


 視線を逸らしてそう告げる御幸は、本当に恥ずかしそうだった。こんな御幸ははじめて見る。可愛い。ではなくて。


「は、え、それって、同棲しようぜってこと? お別れするんじゃないの⋯⋯?」
「は? 何でそうなんの」
「え、だ、だって」
「ちょっと待て、まさかお前別れてーの?」
「そんなわけないじゃん〜〜〜」


 一気に力が抜け、そのままふにゃりとしゃがみこむ。安堵と安寧とが入り乱れ、胸が苦しい。手先の感覚が痺れたように曖昧で、きつく拳を握っていたのだと気づく。


「なんでこんな勿体つけて言うの⋯⋯別れ話かと思ったじゃん⋯⋯」
「バカお前、緊張すんだろ。俺だけががっついてんのかなーとか、断られたらそれこそ俺振られんのかなーとか、名前まだ学生なのに重てえかなーとかさ」
「バカは一也だよ⋯⋯」


 目線を合わせるように同じく屈んだ御幸は、少し逡巡する素振りを見せてから名前をそっと抱き締めた。


「もー無理。限界。こんなにお前と会えない生活、もうマジで何の修行だよって感じ。欲求不満すぎて、この間なんて二打席連続ホームランだぜ」
「ふふ、欲求不満のほうがいいんじゃん」
「お前がいてくれたら三打席連続になんだよ」
「あは、ほんと?」


 笑った声は、みっともなく濡れていた。頬をぽたぽたと涙が伝う。顎先付近で落ちた涙が、砂に塗れた素足にぽつぽつと降ってくる。


「キャンプとかで会えない期間はどうしてもあるけどさ、一緒に暮らしてたら絶対どっかで顔見れるだろ。名前も忙しいだろうけど、考えてみて」
「考えるまでもなく、今すぐ引っ越したいくらい一緒に暮らしたい。です」
「あ、ほんと? よかった。まあ実はもう俺んちの空いてる部屋、名前用に整理しちまったんだけどな。ああ、引っ越し業者も手配してあるから」
「え」


 先程のどこかしおらしかった姿は仮初のものだったのだろうか。目の前には、いつも通りの不敵な満面の笑顔が広がっている。頬を拭ってくれて濡れた指先が、夜の中にきらきらと光る。

 凪いだ水面では、月がゆらゆらと揺れていた。







◇彗星みたいな夜だった◆

本作と「海と宇宙って同じかな」の間のおはなしが一周年企画にあります


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