母の顔は知らない、私が生まれた時に亡くなったと聞いている。写真で見る限りはとても優しそうで穏やかな雰囲気の人だった、それ以外は本人を知らない以上分かるわけもなかった。
父親の顔なら朧気に覚えている、髭が生えてて、酒臭かった。母が亡くなってから酒に溺れてたらしく、いつの間にか帰ってこなくなった。
そうなると今度は親戚の家に引き取られた、といっても『世間体の為』だったようで殆ど家の中で召使いのようにこき使われてた。母の姉にあたる叔母は男遊びが激しく、叔父は暴力をよく振るってきたし、二人の子供である義兄は散々私をいじめていた。人として扱われることは無かった、学校にも味方はいなくて、唯一心許せるのは野良猫くらいだった。
当然のように嫌気がさすもので、高校に行けないことはわかっていた私は中学卒業と同時に親戚の家を出た。あんなところ、二度と戻ってたまるか。意地となけなしの根性でアルバイトを掛け持ちしながら暮らし、それでもまともに食事にありつける日々が有難いとしみじみ思い始めた頃に交通事故によって私の短い生涯は私の短い生涯は幕引きとなってしまった。
どこまでも理不尽だと思いつつ、この世の中に期待することなんて忘れた私は自分が死ぬというのに酷く冷めきっていた。人生なんてものはこんなものだろうと諦観がころりと転がって、今更だと、嘆くこともなかった。呆気ないなぁ、それだけだった。流れていく血も、動かない四肢も、叫べない喉もどうでもいい。楽になりたくて仕方がなかった、それが、前の私。

それを突然雲が浮き上がるように思い出したのは13の時、母も父もなく独りで行く宛もなくふらふらと彷徨い、虫やら何やら何でも食べていた頃だった、その生き物にーーー鬼に出会ったのは。
人の形はしているから盗賊かなにかかと思えば、かっぱりと開けられた口から覗いた歯と有り得ない色をした肌と明らかに目が多かったそれが後々鬼だと知ることになるが、私はその時何も知らずただ身の危険を感じて逃げようとした。けどその鬼は足が速かった、幼い私なんてあっという間に捕まって、首を締められるように木の幹に叩きつけられた。私の皮膚に牙が刺さろうとした刹那、走馬灯のように思い出して、そして。

ああ、また、私は死ぬのか。

あの時と同じような、冷えた空気が肺に流れ込むように私はそう悟った。世の中には“いてもいい人間”と“いなくてもいい人間”があって私は後者なんだろう、その証拠に今まさにこの世から排除されようとしてる。神様仏様がいるなら、わざわざそんな生命をこの世に誕生させるなんて残酷だ。恨みつらみすら声に出せず、きつく目を瞑った。
覚悟していた衝撃も激痛もこなかった、代わりに蛙が潰れるような悲鳴が聞こえて、喉を潰そうとしていた圧力がふっと消えて軽くなって急に入り込んできた酸素に咳き込んだ。何が起きたのか、顔を上げると知らない男の人がきらりと光る何かを持って私のそばに立っていた。
その人は育手と呼ばれる人間であること、元鬼殺隊の人間であること、襲ってきた生き物が鬼と呼ばれるもので人に害を成す存在であることなど自分の住処に連れていった私に教えてくれた。 それから私はその育手のもとで暮らし、修行を積むことになった。


「人間…人間だァーーーーーーーー!!!!!!」


あれから二年、私は遂に鬼殺隊に入るための最終選別に挑むことになったのが今日だ。育手から借りた日輪刀を手に襲い来る爪を躱しては頸を斬る、鬼を殺せるのは太陽の光と日輪刀だけ。頸を斬ると鬼の身体はぐずぐずと泥が湧く様な音を立てて崩れていき、やがて肉片は跡形もなくなる。手の甲がひりっと軽い痛みが走った、少し掠ったらしい。


「ひ、いっ、やぁぁぁぁぁーーー!!」


悲鳴が響き渡った、なんだろうと思ったけど考えてみれば今この山にいるのは幾多の育手に育て上げられた剣士未満の子供だけだ、それ以外に人間はいない。見れば暗闇でも目立つような浅葱色の着物を纏った女の子が追いかけられているのが見えた、しっかりと日輪刀は持っているのに何で斬らないんだろう。力のかぎり叫ぶくらいなら頸を斬ればいいのに。
すぐ側の木の幹に片足を上げ深く息を吸う、集中、血流がもっと巡るように、それが全身に回るように集中、集中。胸の奥からぶわっと熱が溢れる衝動のままに力強く幹を蹴った、へし折れそうな音をひとつふたつと鳴らしていく、いくつかの木々を蹴って跳んでいく先は女の子を襲っている鬼の元。私の気配に気付いたそれが金色の瞳をギンッと開いて、この時には既に距離は詰めていた。腕を上げる、勢いのままに真一文字を描くように振る。石が転がり落ちるように、鬼の頸は雑草の上に埋もれた。
それが落ちるのと同時に着地した私は鬼が消えるのを見届けると、私は移動するべく足を動かし始める。ふと、茫然としている女の子と目があった。彼女は日輪刀をきつく握り締めて大きな瞳を見開いて、そこには私の姿と一緒に月も見える。


「赤い、髪…」


ぽつりと鼓膜に届いたつぶやきに私は『またか』うんざりした、『今世の私』の容姿には最大の特徴がある。それが赤い髪だ、暗闇であろうとも目立つ赤い髪は生まれつきのものである。育手にも驚かれたが、正直あまりいい気持ちではない。それはさておき、と口を開いた。


「…なんで逃げるの」

「え、」

「何のためにここに来たの?鬼を狩るためじゃないの?生き残りたくないの?」

「あ、あの、だって、怖くて」


純粋な疑問だった、鬼狩りのためにここに居るはずなのにどうして斬らないで逃げ回るのか、私は分からなかったからだ。彼女は最初瞠目しながら、次第に俯き溜まっていた。軽く首を傾げる、答えは返ってこないようだ。別段どうしても今すぐ聞きたかったわけでもなかったので背中を向けて雑草を踏み締める、枝を踏んだようで小さい音が鳴った。ざくざく、ざくざく、進んでいく。すると後を追いかけてくる気配がした、鬼かな、と思ったら途端にべしゃりと情けない音が。まさか鬼が転んだ?そんな事あるのかな、だとしたら間抜けな鬼だなと振り返るとそこに居たのは。


「ぅあっ、ああぁぁぁああああ〜〜〜…っ!ひっ、く、ぅ、痛いっ、痛いよぉ、比虎丸ぅぅぅ〜〜〜!」

「………、何してるの………」


さっきの女の子だった、転んだのはどうやら彼女のようで顔にどろがついて着物も汚れてしまっている。座り込んで泣きじゃくるそれは非常に耳障りで私は両手で耳を塞いだ、森が静かなせいか凄く響く。座り込んだ彼女は『だって、』とか『むり』とか、嗚咽を零しながら彼女は涙と一緒に弱音をぽろぽろ落とした。それを私に言ってどうする、みっともなく泣き叫ぶ女の子を見下ろしながら途方に暮れたのは私の方だった。だって、どうしろと。考えた末に無視することにした、したんだが、………着物の一部を掴まれて動けなくなった。


「…離して」

「やだぁ!一人じゃ怖いよぉっ、ひっ、ぅ、あし、うごかなっ」

「…そう言われてもなぁ」

「ぅ、えっく、ううぇぇぇぇ…、う、ぅぅっ、!」


振りほどこうとしても離してくれないその子は顔をぐしゃぐしゃにしながらなおも喚き散らす、正直縋られても困るのだけど。私は私の身を守るので精一杯だし、そもそも他人の生き死にまで面倒見る義理も義務もない。にも関わらず、彼女は一向に離す気は無い。どうしたものか、動けずに困ってるとガサガサと草をわけいって進んでくる気配。速い、ばっと振り返った時にかち合ったのは血走った目。咄嗟に無理矢理身を捻ったら肩に抉られるように線が三本走る、痛い。


「血だ、人間の血だ、お前美味そうだなぁ!」


大分興奮してるだろう鬼が爪先に着いた私の血をべろりも舐め取りながら雄叫びを上げた、不味いな、と感じながら刀を振るおうとすると肩に激痛が走る。思ったよりも深いかもしれない、そうこうしてるうちに鬼はこちらへと向かってくる。すると横で小さくキンッと金属が弾かれる音が鳴った。そして、浅葱色が私と鬼の間に立ち塞がる。


「だ、めぇぇぇぇぇぇーーーっ!!」


きらっと月光を反射したそれは迷いなく鬼の頸へ、爪を掠めるかギリギリで彼女は避けてぐっとそれを真横に振った。ずっ、皮膚から筋肉、肉をすべて裂いて鬼の頭と胴体は分かたれた。岩が転がり落ちていくが如く、そして溶けて消えていく。肩で息をしながら彼女は膝から崩れ落ちた、その細腕からするりと離れた日輪刀が鳴る。


「き、れた…頸…、鬼、の…」


絶え絶えに息を切らしながら、彼女は自分を抱き締めるように肩を縮める。さっきまで逃げ回ってたのに、と半ば肩透かしをくらった気分だったけども取り敢えず立ち上がって土を払う。助けられてしまった、別に良かったのに、震える手を無理矢理動かすほどの価値はーーー私にはないのに。お人好しだなぁ、とこっそり呟いた。すると彼女は我に返ったのかこちらを振り返った、瞬間に自分の着物の袖を大きめに裂き始めた。え、何事…。


「肩、手当しないと…」

「へ、あぁ、別にいらな…」

「駄目っ!」

「ええぇぇぇ…」


もはやされるがままだ、こちらの反論にならない反論を遮ってこれでもかと言うほど目を吊り上げた彼女は浅葱色を私の肩のそれに巻き始めた。痛い、とは言わなかった。騒いだら面倒くさそうだし、終わったらとっとと離れて欲しい。きゅ、繊維が擦れ合うような音が結ばれて、ようやく手当とやらは終わったらしい彼女は短く息を吐いた。


「………ごめんなさい」


ぽつり、俯いたままその唇から零れた言葉は謝罪だった。何度か瞬いて“ああ”と何となく察しが得られた、少女は恐らく私が負傷したことに関して責任を感じているのか、思い当たるのはそのくらいだ。腰に片手を当てて、もう片方で持った日輪刀で怪我をしていない肩を軽く叩く。責任を感じられても困るのだけど、面倒臭いだけだから。
ふいっとそっぽを向いて歩き出す、このままじっと一箇所に留まってたら血の匂いを嗅ぎ付けて鬼がやってくる。一体ならともかく何体かで纏めてこられたら面倒だ、ちゃんと呼吸を使えなければ、これからの課題だ。何歩か進んで、彼女を見れば全く動く気配がない。数秒考えて肩を落とす、仕方がない、このまま死なれても後味が悪い。


「いかないの?」

「、え」

「死にたいのなら別にいいけど」

「ま、待って!」


二言目を発した後ですぐに背中を向けると、彼女は慌てて追いかけてきた。陰々たる木々の隙間から覗く月明かりを睨む、これは自分の為だと言い聞かせることにした。さくさく、さくさく、風が吹かないおかげで草を踏むそれがやけに大きく聞こえる。梟の鳴き声も聞こえない、精々遠くで獣の走るくらいだ。
それに耐え切れなくなったのか、後ろをついて歩いていた少女が“ねえ”と話しかけてきた。一瞬誰に話しかけてるのか分からなくて、反応が遅れてしまったが少しだけ歩く速度を緩めた。


「あなたは、怖くないの?」

「…何が?」

「鬼…、あんなに、あっさり倒してたから」


鬼が恐ろしくないのか、何のことは無い、恐らく少女にとってただ身を震わせる恐怖を誤魔化すための話題だったろう。私はそれに馬鹿正直に眉間に皺を寄せた、口に手を当ててどう答えたら良いか悩む。ほんの少し、数秒だったけども。


「…私は人間の方が嫌い、嘘つくし、裏切るから」

「え、」


思い浮かんだのは前世、叔母がアレ盗まれたとかどうとか適当な理由をつけて真偽に関係なく罵ったことが数え切れなくあった。自分が悪いだなんて思わない、図々しくて、狡くて、そんな生き物を好きになるわけもなかった。そんな突拍子もない事情など知らない彼女は瞠目した、それは驚愕だったのか、それとも別の何かなのかはその時点で私には分からない。分かるのは彼女が言葉を詰まらせたことだけ、正直どうでもいいけれど。

最終選別は朝が来れば幾分かマシだった、日陰が多いので活動できる鬼もいたけれど殆どが夜になってから襲撃をかけてきた。明るいうちに多く移動を繰り返して、夜が来たら迫り来る狂気を斬る。弱肉強食がそこに体現されたような気がした、気を緩めれば死ぬ。
その間、不本意なことに少女ーーー清姫は共に行動していた。“修行は頑張れても本番は無理!”と言わんばかりに最初こそ怯えていたが腹を括ったのか、横で震えてばかりでなくなった。私はそれに文句を言う気もなく、代わりに庇うこともしなかった。そもそも自力で生き残らなきゃいけないんだから、他者に寄りかかる真似はする気もなかったし、されるのも嫌だった。

そして、七日目。
狂い咲き乱れる藤の木を潜って、数人が生き残った。
私―――朱神あけがみ こうも、その一人として。
小説TOP


🐾ほーむに戻るにゃー!