夜の闇に包まれた森の中、私は地面に横たわっていた。
冷たい土の感触、木々のざわめき、遠くで鳴くフクロウの声。すべてが馴染みのあるものだった。
「……また、ここか」
呟いた声が虚しく夜に溶けていく。
気がつけば、私はこの場所にいた。いつからか分からないが、何度も、何度も繰り返している。空を見上げると、満月が光を投げかけている。まるで私を嘲笑うように、変わらずそこにあった。
初めてここに来た時は、恐怖と混乱で体が震えた。見知らぬ森、聞いたことのない獣の鳴き声、遠くで揺れるかがり火の光。まるで映画のセットのような世界に投げ出され、何が起きているのか理解できなかった。
だが、今は違う。私はゆっくりと身を起こし、服についた土を払う。この流れはもう知っている。やがて、闇の中から気配が現れた。
「動くな」
低く鋭い声が響く。
ほら、やっぱり。と心の中でつぶやいた。影が音もなく近づいてくる。手には抜き身の刃。間違いなく忍だ。最初は驚いて悲鳴をあげそうになった。でも、もう分かっている。警戒されるのも慣れたものだ。
「……貴様、何者だ?」
問いかける声に、私はただ静かに目を閉じる。何度も繰り返したやり取り。森の冷たい土の感触も、満月の光も、忍びの鋭い声も、すべてが私にとっては既視感でしかなかった。
何度も聞いたその言葉に、私はただ薄く笑う。
「……また、これね」
問いかけるように呟いてみても、忍びは答えない。ただ、袋槍を構えたままこちらを睨んでいる。
「貴様、何者だ?」
その声すらも知っている。いつもと変わらない、同じ展開。同じ流れ。
いつかは抜け出せるかもしれないと信じたこともあった。けれど、何度繰り返しても変わることはない。私はここで目を覚まし、捕らえられ、問い詰められ、やがて忍びの世界に足を踏み入れる。あれからどれほどの時間が経った?何度生き直せば、この悪夢から解放される?
もう疲れた。
「……怪しく見えるなら、殺してもいいよ」
乾いた声でそう言えば、月明かりのわずかな闇の中で見える忍びの彼の顔がかすかに揺らぐ。袋槍を構える手に迷いが生じるのが分かった。
「別にこんな思いをしてまで生きたいわけじゃない。だからもういいかなって」
私は笑う。きっと酷く歪んだ顔をしているのだろう。胸の奥から込み上げてくる絶望が、嗤いとなって零れ落ちる。彼は戸惑っているようだった。まだ声に幼さが残る。何度か繰り返す時間の中で接してきた彼は、警戒している対象に死を願われて殺していいと言われたことなど、おそらくないだろう。
たとえ忍びとしての心構えがあったとしても、優しい彼はそれをすぐには受け入れないだろう。
――――なら、せめて私の手で終わりにしよう。
迷いなく、私は彼の袋槍へと手を伸ばす。そのまま自分の喉元に押し当て――
「っ……!」
視界が揺れた。瞬間、頭に鈍い衝撃。ぐらりと意識が傾く。声にならない声を漏らしながら、私は崩れ落ちた。最後に見たのは、狼狽した忍びの顔。
「……っ、ふざけるな」
かすかに聞こえた怒りと、滲んだ夜の闇。そうして、私は意識を手放した。
目を覚ますと、見慣れた天井が広がっていた。これも何度か体験した。学園の保健室。何度か来たことがある。ここで目を覚ますのはもう初めてではない。ぼんやりとした意識の中、目を動かすと白い布が掛けられていた。かすかに薬草の香りが漂う。生きているのだと、改めて思い知らされ、気配に気づいて目を向けると、二人の影が近づいてくる。
「目を覚ましたようですね」
落ち着いた声が聞こえた。
白装束を纏った穏やかな顔の男。新野先生だ。忍術学園の校医である彼はいつも優しく、どんな相手にも穏やかに接する人だと知っている。もう一人は、まだ若い青年だった。
「……気分はどう?」
伊作だ。彼は忍びでありながら、病人を救おうとする医者の心構えを持っている。敵だろうと怪しい人物であろうと、怪我をしているならだれでもその傷を治してあげようとする人だ。静かに私を見つめ、少し困ったように微笑んでいた。
「君をここに運んだ彼が動揺していたよ、死のうとしたんだって?」
新野先生がそう言う。私は何も答えなかった。
「何があったのか、話せるかい?」
伊作が優しく問いかける。
何があったか――?
言えるものなら言いたかった。でも、言ったところで彼らに理解できるのだろうか。
「……言っても、わからないと思います」
かすれた声で答える。新野先生も伊作も、心配そうな顔をしていた。でも、それ以上は何も言わなかった。私はただ、目を閉じた。またこの世界で目を覚ましてしまった。今回も終わることはなかった。それだけで、もうあきらめるには十分だった。
「何かあったのかな」
静かな問いかけが、医務室の空気を震わせた。その声は優しかった。慎重に、私を傷つけないように言葉を選んでいるのがわかる。
「よかったら話してくれないか?」
伊作は何も語ろうとしない私に、それでも問いかけた。私の指がかすかに布を握る。話せるだろうか――いや、話したところで、彼らに伝わるのだろうか。言っても何もわからないと考えた私は沈黙を選んだ。話したところで信じられないだろうし、頭がおかしいと思われるだけだ。
室内は静かだった。薬草の香りが漂う。どこか遠くで、竹筒に落ちる水の音がした。
沈黙が続く中でやがて、伊作が息をつく。
「……君の体には、ひどい傷の跡があった」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。傷を負った経緯を嫌でも思い出してしまう。彼はおそらく私の体の傷を診たのだろう。ここに運ばれるとき、私の体は隠しようがなかったのだから。
「何か、ひどい目に遭って……逃げてきたのかな?」
彼はそう続けた。まるで私の沈黙の意味を探るように。私は目を閉じた。
「ここには、君を傷つける人はいないよ」
怯えていると思っているのかかけられるのは優しい言葉ばかりだ。彼はいつだってそうだ、優しく接してくれた。まるで、どこかに逃げ場所があるかのような響き。
「力になりたい」
伊作の声は、真剣だった。その言葉は本物なのだろう。偽りのない、純粋なものだとわかる。だからこそ、怖かった。彼の優しさに期待してしまいそうになる。
もしこの言葉が、ある日変わってしまったら?この優しさが、私の手から零れ落ちてしまったら?私は、何も言えなかった。申し訳なさが、胸を締めつける。けれど、言葉が出ない。期待をして、それが裏切られるのが怖い。それなら、最初から何も言わなければいい。
私の体に残る傷は、何度も死んだ証だった。
ループのたびに私は死に、そして目を覚ます。
何度も、何度も。
死んでも、またここに戻るだけ。
その痕跡は、もはや消えることのない痣のように、私の体に刻まれている。伊作は、きっとその痕を見たのだろう。驚き、そして心配したのだろう。彼の優しさが痛かった。私はそっと目を伏せ、指を毛布に絡める。沈黙だけが、私の答えだった。
それでも、彼らは何も言わずただ私のそばにいた。
私は現代日本で生きる女子高生だった。毎日楽しく生きていた、どこにでもいる普通の女。ある日、それはきれいな満月の晩。友達が丁度近くのコンビニにいるらしく、私も暇だったのでコンビニにでも行こうかと思い、グループメッセージに今からそっちに行くと告げ、母にコンビニに行ってくると声をかけて家を出て、徒歩10分内にあるコンビニ行こうとした時だ。前日に降った雨でできた水たまりを避けようとしてジャンプで飛び越えようとしたとき、何かに引きずり込まれた。水たまりから出てきたそれは手のような何かで、私はそうして引きずり込まれ、水たまりの中に引っ張られた。
何気なく上を見上げれば大きな月が見えて、「ああ、綺麗だな」と思った。それが、私が覚えている”現代”での最後の記憶。
次に気がついたとき、私は知らない世界にいた。
冷たい水が足元を包む。ゆっくりと揺れる月の光が、水面に映っている。静寂の中、私はただ立ち尽くしていた。
「え……?」
目を瞬かせる。見渡せば、四方を木々に囲まれた池の真ん中だった。こんな場所、知っているはずがない。胸がざわつく。息が詰まる。何が起きたのかまるでわからず、思考が追いつかない。さっきまで、私は町の中にいた。それなのに、今は森の中にいて、池の中で立ち尽くしている。何が起こっているのか理解できる方がおかしいだろう。
困惑している私はひとまず池からどうにか出た。その時だった。
「……何者だ」
不意に、低く鋭い声が響いた。
「――――っ!」
心臓が跳ねる。反射的に声のする方を振り向いた。
闇の中、月明かりに浮かぶ影――そこにいたのは男だった。忍び装束。頭巾に隠された鋭い眼差しが、じっとこちらを見据えている。
答えない私に「何者だ」と男は繰り返した。
言葉が出てこない。喉が詰まったように、声が出ない。
「答えろ」
その声は鋭く、冷たい。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。足元の水が冷たくて、震える。これは夢だろうか?そんなはずがない。これは夢じゃない。水の感覚が冷たくて、突きつけられた刃物はひんやりとしている。
「お前、どこから来た」
詰め寄るように男が問う。私は震える唇を噛みしめ、ようやく声を絞り出した。
「わ、わからない……」
男の目が細められる。
「わからない?」
まるで嘘をついていると疑うように、その声には警戒心がにじんでいた。そりゃそうだろう。突然、夜の山の池の中に現れた女。怪しまれて当然だ。私は言いたかった。「気がついたらここにいた」と。「私もどうしてこんなことになったのかわからない」と。でも、言葉にならなかった。鼓動が速くなる。呼吸が乱れる。
怖い。何もわからない。
訳もわからず、知らない場所に立たされ、鋭い目で詰め寄られる。パニックのまま、後ずさろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れる。
突如、強い力が腕を掴んだ。驚く間もなく、視界が暗転する。遠ざかる意識の中、最後に聞いたのは、男の低い呟きだった。
月が、遠ざかっていく。私の、世界が暗闇に落ちた。
重たいまぶたをゆっくりと開くと、見知らぬ天井が広がっていた。藁の匂い、どこかに置かれた薬草の香り。布団の中にいて体はまだ少しだるかったが、確かに私は寝かされていた。
先ほどまで、冷たい水の中に立ち尽くしていたはずなのに。
訳がわからない。混乱したまま起き上がろうとすると、すぐに扉が開かれた。
「目を覚ましたか」
鋭い声が飛んでくる。
驚いて顔を上げると、見知らぬ大人の忍びたちがこちらを見ていた。彼らはすぐに私の腕を掴み、ぐいっと引っ張り上げる。
「学園長先生がお呼びだ」
…………学園長?
訳もわからないまま、私は強引に立たされ、そのまま連れて行かれる。足がふらつく。まだ状況が飲み込めない。けれど、私の意思など関係なく、彼らは私をある部屋へと連れ込んだ。
部屋に入った瞬間、強い圧に飲み込まれた。中央に座る年配の男――その周囲には、黒い忍び装束の大人たちが並んでいる。ただそこに立っているだけで、空気が張り詰めていた。
喉が詰まりそうになる。この威圧感に、どうしようもなく怖くなった。体が強ばる。目の奥がじわりと熱くなる。泣きそう。けれど、泣いてはいけない気がした。
「お前、なぜあの場所にいた?」
年を召している学園長らしき男が口を開く。低く、威厳のある声だった。私はぎゅっと拳を握る。何を言えばいい?どう説明すればいい?混乱しながらもとにかく話さないとと考えて慌てて話し出す。
「わ、私……」
声が震える。何がどうなって、私はここにいるのか、自分でもわからないのに、説明なんてできるわけがない。
「えっと……私は……えっと、えっと…………」
言葉がまとまらない。ぐるぐるとした混乱の中、なんとか口を開いた。
「私、コンビニに行こうとしてて……そしたら……気がついたら……」
「コンビニ?気がついたら?」
「……池の中に、いました……」
忍びたちがざわめく。学園長が静かに目を細めた。
「お主はどこから来た?」
「……ど、どこ、って…………」
視線をさまよわせて部屋の中を見て、私は息を呑む。
薄暗い明りで最初は見渡す余裕はなかったが、部屋の作りが明らかにおかしい。電気もなくろうそくの明かりだけで部屋が照らされている。どんなに田舎だとしても電気も何もないということはあり得るだろうか?
私が知るのは見渡す限りのビル、電気が灯る夜の街、コンビニの自動ドア、スマートフォンの画面。
ある考えが浮かんだ瞬間、背筋が凍った。
「……ここは……どこですか……?」
忍びたちは無言で私を見つめている。私が知っている世界じゃない。さっきから誰もスマホを持っていないし、着物のような服装ばかり。まさか、そんなはずない。でも、どう考えても――
「……私、おそらく……」
言葉にしながら、膝が震えた。
「ずいぶん……昔の世界に、来てしまったんだと思います……」
認めた瞬間、すべてが崩れた。
私の言っていることに、訳が分からないという様子を見せる彼ら。
「どうしよう……どうすればいいの……」
震えが止まらない。怖い。帰れないのではないか。そんな考えが浮かぶ
「……帰れない……の?」
ぽつりとこぼした瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
「いやだ、帰りたい……帰りたい……」
しゃくりあげるように泣き出した私を前に、忍びたちは目を見交わした。どうするか、相談し合っているのがわかった。でも、そんなことどうでもよかった。私はただ、途方もない不安と恐怖に、泣くことしかできなかった。
「お前の言うことが本当かどうか、すぐには判断できん。だが、訳の分からぬ技術を持つお前を放っておくわけにもいかぬな」
学園長はそう言い、私はひとまず「保護」という名の監視下に置かれることになった。
この時代の人々からすれば、私は異質だった。見たこともない服を着て、布よりも滑らかな素材の靴を履き、妙な言葉を話す女。学園の者たちは私を警戒し、遠巻きに観察していた。優しい言葉をかけてくれる者もいたが、その奥にあるのは慎重に探るような目。私はまるで、どこから来たのかも分からない奇妙な生き物のようだった。
それでも、生きていくためには環境に慣れなくてはならない。朝は早く、鍛錬の掛け声が響く中、私は見よう見まねで手伝えることを探した。薪を割り、水を運び、できることをやろうと必死だった。けれど、手はすぐに豆だらけになり、粗末な藁草履は歩きにくく、何をしてもぎこちない。知らないことだらけの見知らぬ場所はまだ精神が子供だった私の胃をじわじわと締めつけた。
初めのうちは、どこかで目を閉じれば元の世界に戻れるかもしれないと思っていた。けれど、目を開けば変わらぬ朝が来る。何度夢から覚めても、私はこの時代にいた。帰る方法を探そうと、歴史の知識を頼りに考えてみても、本に「タイムスリップの帰還方法」など載っているわけもない。ただ焦りだけが募り、学園の生活に馴染もうとすればするほど、元の世界が遠ざかっていく気がした。
息がしづらい。苦しい。ここは自分の場所じゃない。
元の世界にいる家族や友人、彼氏に会いたい。
涙を隠すようにしながら布団の中で私は眠っていた。
それでも、日々を重ねるうちに、少しずつ周囲の態度が変わっていった。慎重な視線はやがて和らぎ、誰かが私を呼ぶ声に敵意はなくなった。初めて笑いかけられた日、少しだけ涙が出た。手伝いの仕方を教えてもらい、失敗すれば笑って許される。みんな、本来は優しい人たちだったのだと、その時ようやく気づいた。
「お前は不思議なやつだけど、悪いやつじゃないみたいだな」
そんな風に言われたとき、少しだけ報われた気がした。
「元の世界に帰れるといいな」
心からそう言ってくれる人がいた。それが嬉しくて、でも同時に胸が苦しくなった。
本当に、帰れる日が来るのだろうか。
わからない。けれど、ここで生きるしかないのだと思いながら、私はまた新しい朝を迎えるのだった。
一年が過ぎた。学園での生活は、最初の頃の不安と孤独をすっかり忘れさせるほどに、私にとって心地よいものとなっていた。みんなと過ごす日々が、どんどんと深くなっていく。笑い合い、助け合い、時にはお互いの弱さを支えながら、私はここに居場所を見つけた。しかし、それでも胸の奥には、消えることのない寂しさがあった。帰りたい、元の世界に戻りたいという思いが、ふとした瞬間に心をかき乱す。
そんなある夜、私は一人で縁側に座り込んでいた。月明かりが庭を照らし、静かな夜の空気が包み込む中、ひとしきり泣いていた。
「かえりたい…………」
涙がこぼれるたびに、心の中の閉じ込めた思いが、少しだけ外に出ていくような気がして、一度溢れ出せば涙が止まらなかった。
「……こんな時間に、何をしている」
突然、声が響いた。振り向くと、そこには潮江文次郎が立っていた。
彼の姿を見た瞬間、私は慌てて涙を拭おうとしたが、彼はすぐにそれを見て取ったようだ。
「かぐや姫のようだな、月を見て帰りたいと泣いているなんて……」
文次郎はそう言いながら、少し居心地が悪そうに背中を伸ばして立ちすくんでいた。その言葉に、私は何も言い返すことができなかった。彼の冷たく見える表情の中に、ほんの少しの優しさが見えた気がした。
「……そんなに泣くな」
ぶっきらぼうに言いながら、文次郎はそっと手ぬぐいを差し出した。
「使え」
その一言には、言葉にはできない優しさが込められていた。私は黙って、それを受け取った。文次郎の目を見ようとするのが恥ずかしくて、手ぬぐいで顔を拭うふりをした。
「……ありがとう」
声が小さかったけれど、心からそう言った。文次郎は無言でうなずくと、少しだけ肩をすくめるようにして去っていった。その背中を見送ると、再び月を見上げた。彼の言葉が心に染み込むように、今度は涙をこらえた。こんな私を気にかけてくれる人がいる。今はそれだけで、少しだけ心が軽くなった気がする。
必ず元の世界に戻らなくては。
私は決意を新たに、月に諦めないと誓った。
文次郎は相変わらず、私に気を使ってくれた。言葉には出さなくても、彼の行動にはその優しさが表れていて、私を支えてくれた。それは決して口に出して褒められるようなものではなく、彼自身が照れくさそうにしているところもあったが、確かに心に届くものがあった。
ある日、彼と同室の仙蔵に誘われ、街に出ることになった。最初こそ作ったような笑顔で接してくる彼だったが、少しずつ気さくな一面を見せてくれるようになった気がする。何かと私に声をかけてくれて、街の賑わいに包まれながら歩くのは楽しかった。
しばらく歩いた後仙蔵が突然、文次郎のことを話題にしてきた。
「なあ、あいつのことどう思う?」
その問いに、私は少し驚いた。仙蔵は私に視線を向けると、少し興味を持ったように微笑んだ。
「同室である私のひいき目を抜きにしても、あいつはいいやつだと思うぞ」
文次郎のことをよく知っているからこそ、仙蔵はそんな言葉を投げかけたのだろう。私は少し考え込みながら、彼の言葉に答えた。
「うーん、まあ、いい人だと思うけど……」
「へえ、そうかそうか。じゃあ、どう思ってる?」
その時、私はなんとなく、仙蔵が私の気持ちを探ろうとしていることに気づいた。彼の視線が少し鋭く、私の答えを引き出そうとしているのだ。私の心がわずかに動揺したのがわかる。
「そんなに深く考えてないよ……多分、あなたが思っているようなものとは違うんじゃないかな」
つい、そう言ってしまった。仙蔵はすぐに私の返答を引き出したかのように続けた。
「じゃあ、他に好きな奴がいるのか?」
その質問に、私は一瞬固まった。
頭の中で過去の記憶がよみがえる。彼氏の彼。あの頃、確かに好きな人がいた。
「……ええと、私……………………」
少し言葉を濁す。心の中であの人を思い出しながら、無理に笑顔を作った。仙蔵は少し黙って考えるような素振りを見せた後、微笑んだ。その笑みはどこか作られたようで、私には少し怖く感じられた。表面的には優しさが感じられるのに、心の中で何かを計算しているような、そんな気配を覚える。
「そうか」
その一言だけが私の耳に響く。何かがうまく噛み合わないような気がしたけれど、私はそれを口に出さなかった。
「じゃあ、どんなやつなんだ?」
その問いに、私は一瞬ためらった。
「どんな……」
答えようとして、ふと顔が思い出せなかった。
「……どういう人だったか、って」
必死に脳裏で思い出そうとする。
記憶の中には、確かにその人がいたはずだ。だけど、その顔がぼやけて、輪郭がぼんやりとしか浮かばない。名前も、あの頃感じていた温かさも、全てが曖昧になってきている。
それに気づいた瞬間、胸の奥がざわつく。
「……え?」
思わず呟き、思い出そうとする。
「……だめ、だ。思い出せない」
それが何を意味しているのか、私は理解した。現代の記憶が、私の中から抜け落ちている。あの世界、あの人たちがどんどん遠ざかっていく感覚に、私はパニックを起こしていた。この世界に慣れようと必死になり、現代での記憶がどんどんと消えていっていることに気が付いた。
「なに……?」
仙蔵の声が遠くに感じる。目の前の世界がぐらぐらと揺れ、私はその場に立ち尽くした。
「だめだ、だめ、私……」
言葉がうまく出てこない。
突然、仙蔵が私の肩を掴んで、ぎゅっと引き寄せた。その瞬間、何も言えなくなり、彼の温もりが伝わってきた。
「大丈夫だ、しっかりしろ」
その声が、どこか優しさを持ちながらも、私の中で不安を煽るように響く。気がつけば、私は彼に抱きしめられ、学園に戻る途中だった。
震えが止まらないまま私はそうして保健室に運び込まれて呆然としている。
だって、自分の住所もなにも思い出せないの。家族の顔もいつか忘れてしまうんじゃないかって不安なの。ここで過ごす度、帰る場所が、また一つ遠ざかっていくような気がした。
その後、学園の人々の態度がどこか変わった。私に対して、誰もが異常なほど優しく接してくれるようになった。それは、まるで私が壊れてしまったものを扱うかのような、微妙な憐れみを感じさせる優しさだった。元々、みんなは親切で、誰もが温かい人たちだったけれど、その優しさが時折重たく感じられることがあった。
寝不足が続いていたせいか、私は体調もすぐれない。頭はぼんやりとし、目を閉じればどこかで夢を見ているような、現実と虚構の境界が曖昧になった。
「最近顔色が悪いけれど、大丈夫?」
伊作が心配そうに私を見て、問いかける。彼は私がどれだけ元気を失っているか、きっと気づいているのだろう。
「大丈夫だよ」
そう答えたものの、言葉が本当の自分の気持ちと噛み合っていないのはわかっていた。伊作は納得いかない様子でしばらく黙っていたけれど、最終的にはやっぱり何かあったら言ってほしい、と言ってくれた。その優しさが、また私を引き裂いていく気がする。
「……ありがとう大丈夫だよ」
不安を素直に言えない。言えば、何もかもが壊れてしまうような気がして。
留三郎もまた、私の顔色を気にして「無理するな」と言ってくれた。兄のような優しい人だ。彼も気遣ってくれるが、同時にその気遣いが、私の心をますます不安定にさせる。
「俺も伊作も、下級生のみんなもお前のことを心配している……頼ってほしいと思っているんだ」
まっすぐに見つめられる言葉が、人々の優しさが、私をどこかで遠ざけている気がした。みんなが私を心配してくれるたび、私は次第に自分がどうしたいのか分からなくなっていった。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
「謝ってほしいんじゃないんだ……ただ俺たちは」
心配しているだけだと告げる彼の言葉に、どこまでも私は申し訳なさそうに顔を俯かせることしかできない。歯がゆそうにしている彼に、答えることができなかった。
何より怖いのは、自分の記憶がどんどん抜け落ちていくことだった。以前の世界のこと、あの世界の記憶が薄れていくたびに、私は自分を失っているように感じた。大切な人の顔すら、段々と思い出せなくなる。それに気づいたとき、私は自分が誰なのかも分からなくなりそうで、どうしても恐怖を感じてしまった。
「私、何をしているんだろう、なんでここにいるんだろう」
心の中でそう呟いても、口には出せない。周囲の優しさが痛い。自分を支えてくれる人々を拒絶するような態度を取ってしまい、結果的に彼らとの心の距離ができてしまった。本当は、もっと素直になりたかった。もっと心を開きたかった。だけど、どこかでそれをすると自分を見失ってしまいそうな気がして、どうしても上手く接することができなかった。
優しくしてもらっているのに、私はここから出たいと思っている。でも帰ることもできない私は他に頼れる場所もなく、彼らに甘える事しかできない。そんな自分が情けなくて打算的で、泣きたくなる。
そして、心の中でひとり泣いている自分に気づきながら、また一日が過ぎていった。
「おーい、一緒に運動しよう!」
突然の声に顔を上げると、そこには小平太が立っていた。私の顔を見るなり、にっと笑っている。
「最近元気ないだろ?体動かせば、余計なこと考えなくて済む!」
そう言って、彼は当然のように私の腕を引いた。断る暇すらない。運動する気力なんてなかったはずなのに、気づけば私は彼と一緒に走っていた。
とはいえ、小平太の体力は尋常じゃない。最初は並走しようとしていたのに、すぐに息が上がり、私はついていくだけで精一杯だった。彼は楽しそうに山道を駆け抜け、私が苦しそうにしているのを見ると、からかうように笑った。
「お前、まだまだだなー!」
そんなこと言われても無理なものは無理だ。息も絶え絶えに走り続け、ようやく裏山の頂上付近までたどり着いたときには、完全にへろへろになっていた。
「もう、無理……」
その場に崩れ落ちるように座り込むと、小平太はあっけらかんと笑った。
「しょうがないなー」
そう言いながら、彼は私の前にしゃがむ。
「ほら、歩けないなら私が背負ってやる!」
「え、いや、いいよ……」
「気にするな!これくらい軽い軽い!」
そう言うや否や、彼は私をひょいっと背負い上げた。驚いたものの、もう歩く気力もなかったので、されるがままになるしかない。背負われながら、私は秋の山を眺めた。木々は赤や黄色に染まり、風が吹くたびに葉が舞う。季節の移り変わりが感じられる。
「もうすぐ冬が来るな」
私を背負ったまま小平太がぽつりと呟いた。
「冬が来て、春が来たら……私たちも卒業だ」
その言葉に、私ははっとした。卒業――そうだ、彼らは来年にはここを巣立つのだ。一人前の忍者として、それぞれの道を歩んでいく。
でも、私は?
来年、私はどこにいるのだろう。彼らのようにどこかにいくわけでもなくこのままこの時代に馴染んでいくのか、それとも――……考えれば考えるほど、答えは出なかった。ただ、私は呆然としたまま、小平太の背中に揺られていることしかできなかった。
焦りが募る日々だった。
私は毎日のように図書室へ通い、ひたすらに書物を読み漁った。この時代の言葉にもすっかり慣れ、古い書物も何とか読めるようになった。それでも、元の世界に戻る方法が書かれた本はどこにもなかった。
朝から晩まで本に向かい、仕事が終わればすぐに書物を開き、気を失うように眠る。そんな日々を繰り返していた。
「ほどほどにしといたほうがいいよ」
心配そうに声をかけてきたのは、図書委員であるきり丸だった。彼のアルバイトなどを手伝っているうちに少しずつ心を開いてくれた。
「すごく疲れてる顔してる」
彼の言葉は、少しだけ心に響いた。けれど、休んでしまえば記憶が遠のいてしまう気がして、私はまた文字を追った。
忘れたくない。元の世界のことを、忘れたくない。だから私は必死に書き留めようとした。
「……あれ?」
思い出せない。文字にしようとしても、細部が曖昧になっている。ビルの形、家の中の景色、家族の顔、あの人の声――すべてがぼやけて、指の間からこぼれ落ちていく。
私は、戻る方法を探していた。なのに、戻りたい世界のことが思い出せなくなっていた。このままでは、本当に帰れなくなってしまう。焦燥感が胸を締めつける。どうすればいいのだろう。ずっと不安で仕方がなかった。
気づけば、私は眠っていたらしい。ゆっくりと目を開くと、そこはまだ図書室だった。そして、自分が誰かの膝の上で寝ていたことに気づき、驚いて飛びのこうとした。
「っ、わっ!?」
「……図書室は静かに」
低く落ち着いた声が響く。顔を上げると、長次が静かに私を見下ろしていた。
「……長次くんの、膝……?え?私膝の上で寝てた……?」
「もう少し眠るといい」
そう言うと、彼は何のためらいもなく、私の肩を押して再び膝の上に戻した。私はされるがままに、もう一度彼の膝に横になる。しばらくして口を開いたのは彼だった。
「最近、思い詰めているようだが……何かあったのか?」
言葉数は少ないけれど、その一言に、心の奥がひどく揺れた。私は迷った。でも、もう誰かに聞いてほしくて、気づけば口を開いていた。
「……元の世界に、戻りたいのに…………」
小さく呟く。
「どんどん、記憶が消えていくの……」
言葉にするたび喉の奥が震えた。
「みんながいなくなっていくように、変わっていくのに……私は何もできないまま……」
気持ちばかりが取り残されて、どうしようもなくて………………
「つらい……」
抑えきれずに、涙がこぼれた。長次は、何も言わなかった。ただ、静かに私の頭を撫でてくれた。その手は温かくて優しかった。彼も学園から去って行ってしまう。いつまでも甘えているわけにはいかない。どうしよう。それだけを毎日考え続けた。
「なあ、一緒に出掛けないか?」
唐突にそう声をかけてきたのは文次郎だった。
「え?」
顔を上げると、彼はいつも通りのぶっきらぼうな表情で私を見下ろしていた。
「でも、今忙しい時期なんじゃ……?」
「問題ない」
迷う間もなく、彼はそう言い切った。それ以上何かを言うのは無粋な気がして、私は彼に連れられるままに学園を出た。
町の通りを並んで歩く。行き交う人々のざわめき、屋台から漂う甘い団子の香り、どこかの家から聞こえる子どもの笑い声。にぎやかで、暖かい。けれど、私の心はそこから少しだけ浮いているようだった。
「なあ……どうすれば笑ってくれる?」
不意に、文次郎が口を開く。
「え……?」
驚いて顔を向けると、彼は真剣な眼差しで私を見ていた。
「俺は仙蔵みたいに女の気持ちがわかるわけじゃない。だから、まっすぐにしか聞けない」
「……」
「お前は最近ずっと落ち込んでる。俺は、お前に笑ってほしい」
そう言って、彼は眉を寄せる。普段は強気で毅然としている彼が、こんなにも戸惑いながら私を気遣ってくれるのが、なんだか不思議だった。
「……ごめんなさい」
それしか言えなかった。
どうすればいいのかわからない。私はどうしたって、この時代の人間ではない。ここでどんなに居場所を得たとしても、心のどこかではいつか帰らなければならないと思っている。でも、それを言葉にすると、今のこの暖かさが壊れてしまいそうで、私は何も言えなかった。そんな私を見て、文次郎はふっと息をついたかと思うと次の瞬間、腕が伸びて、私は彼の胸に引き寄せられていた。
「っ……?」
驚いて声を上げる間もなく、彼は静かに言う。
「好きだ」
私の心臓が跳ねる。耳元で囁かれた言葉に、思考が止まった。
そして唇に、柔らかい感触が触れて目を見開く。彼の顔が近すぎて、何も考えられなかった。
「……っ」
何が起こったのか、理解が追いつかないまま、文次郎はそっと唇を離した。私が呆然としていると、彼は静かに続ける。
「お前が本来の居場所に戻りたい気持ちは、わかってる」
「………………わたし、は」
「でも、それでも……俺と生きることを、選んではくれないか?」
彼の声は、真剣だった。まっすぐで、不器用で、それでも揺るぎない想いがそこにある。私は、どうすればいいのだろう?
「……ごめん」
自分でも驚くほどかすれた声が出た。文次郎の真剣な眼差しが、私を捉えて離さない。
「私は……」
誰かを、好きだった。
――でも、誰?
記憶の中に確かにいたはずの彼氏の顔が、ぼんやりとして思い出せない。私の中で彼の存在が、霧のように薄れていく。それでも、好きな人がいるという思いだけは、何かにしがみつくように残っていた。
「……好きな人が、いるから」
それだけは伝えなきゃいけないと思った。文次郎の表情がわずかに揺らぐ。胸が痛かった。でも、その痛みよりも強く、頭の奥から鈍い違和感が湧き上がってきた。
ズキン
「……っ!」
急に視界がぐにゃりと歪む。頭が割れるように痛い。さっきまで見えていた文次郎の姿が遠ざかるように感じた。
「おい、大丈夫か――」
彼の声が聞こえた気がした。けれど、その声すら霞んでいく。私は、深い闇に引きずり込まれるようにして、意識を手放した。
水の音がする。ひんやりとした冷たい空気が頬を撫でた。どこかで、見た光景。ゆっくりと目を開けると、目の前に広がっていたのは、闇に包まれた森の中の池だった。
「え……?」
脳が状況を整理することを拒む。さっきまで私は町にいた。文次郎といた。それなのに――
「何者だ」
聞き覚えのある低い声。はっとして顔を上げると、そこには忍び装束の男が立っていた。
文次郎――――これは、前にもあった光景だ。
そう、私が最初にこの世界に来たときと、まったく同じだ。
「……なんで?」
言葉が震える。彼は私の戸惑いなどお構いなしに、鋭い目を向けてくる。
「貴様、どこから来た?」
「……」
私は答えられなかった。目の前の光景が、信じられなかったから。
ここは、あの夜と同じ。そして私はまた、学園に運ばれる。
そこで待っていたのは、驚き、そして警戒する忍たちの視線だった。
「なんですか、これはどういうことなんですか…………?」
「……お前、なぜ私たちの名前を知っている?」
問い詰められ、私はやっと気づいた。
「……日付を、教えてください」
震える声で、必死に尋ねる。告げられた日付を聞き、私は背筋が凍った。
――時間が、巻き戻っている。
「そんな、嘘……」
私は、この世界から抜け出せないまま時間が巻き戻ったことを悟った。
そうして時間は何をきっかけにしてか巻き戻ってしまう。一年ほどの時間がたてば同じようにあの湖の中に私は放り込まれ、またはじめを繰り返す。
異世界の中に来てしまったとしても、時間がたてば受け入れることはできるのかもしれない。それでも同じ時間を繰り返すことになってしまったら?時間が前に進まずに一年を繰り返し続ける。そんな中で正気でいられるだろうか?
どれだけ親しくなっても時間が過ぎれば巻き戻り、なかったことになる。私の気持ちばかりが積み重なり、全部が無に帰るのだ。これを絶望せずにいられるだろうか。
私は二回目のループ以降は突然耐えきれなくなって自ら死をを選んだり、学園を飛び出して山賊に襲われたり様々な理由で死んでしまった。そのたびに傷の痕跡だけが体に残り私は時間を巻き戻る。奇妙な時間旅行を繰り返して私はそうして”また”やってきてしまった。
私はもう、何度この瞬間を繰り返したのだろう。
時間が巻き戻ったのだと悟った時、心が完全に折れた気がした。どんなに学園での日々を積み重ねても、どんなに人と心を通わせても、すべてが無に帰る。努力も、感情も、記憶すらも、この世界の理に踏み潰されるように消えていく。
そんなことが、また繰り返されるのか。そう思ったら、もう何も考えたくなくなった。
私はただ無気力に、学園の中で過ごした。
「何があったのかは知らないが、いつかきっと日の光が差す時が来る」
そう告げたのは、土井先生だった。穏やかで、私よりもずっと大人で、私のような怪しい人間にすら変わらず接してくれる人。私がどれほど絶望していようとも、彼はこうして手を差し伸べてくれる。
「だから、生きることをあきらめるな」
その言葉に、私はかすかに目を伏せる。
「……どうして、そんなことが言えるんですか」
声は震えていた。
「そんな保証、どこにあるんですか……?」
私の未来が明るくなる保証は? こんな世界から抜け出せる保証は? ループが終わる日が本当に来ると、どうして言い切れるの?自分でも情けないほど、問い詰める声が弱々しい。何も悪くない彼に八つ当たりしてしまう自分が嫌だ。
すると、土井先生は静かに答えた。
「私も同じように、人に救われたからだ」
「……え?」
思いがけない言葉に、私は息をのむ。彼はそれ以上多くを語らなかったが、その一言だけで、彼の過去に何かがあったのだとわかった。
私は知っている。土井先生は、本当に人を見捨てない人だ。ループの中で、何度も彼に助けられた。何度も優しくされて、何度も支えられた。その言葉が嘘じゃないことくらい、私にだってわかる。
それでも――――それでも、私はどうしようもなく、壊れかけていた。
「ほんとうに、救ってくれるのなら……じゃあ、殺してください」
気づけば、泣きながらそう言っていた。
「もう、何もできない。何もかもが無意味で……! だからっ……」
嗚咽が喉を塞ぐ。土井先生は、困ったように眉を寄せた。当然だ。こんなことを言われて、すぐに返せる言葉などない。けれど、彼は何も言わず、ただそこにいた。
それが、どれほど温かく、どれほど苦しいことだったか。私はただ、崩れるように泣き続けた。
自室でほとんど無気力に過ごす私は、食事をいつかほとんどとらなくなった。
「食え」
低い声が響いた。
ぼんやりと顔を上げると、文次郎が腕を組みながら私を見下ろしていた。その目には苛立ちと、それ以上の強い感情が宿っている。私はそれを直視するのが怖くて、視線をそらしながら小さく言った。
「……いらない」
生きることがもう面倒だった。食事なんて、どうでもいい。どうせまた時間が巻き戻るなら、何をしても無駄なのだ。どれだけ頑張っても、どれだけ誰かと心を通わせても、すべては白紙に戻る。繰り返される絶望の中で、ただ食事をとることすら、もう意味を持たないように思えた。
「いい加減にしろ」
鋭い声に、思考を断ち切られる。はっとして顔を上げた瞬間、文次郎が無言で膳の上の飯を掴み、そのまま口に放り込んだ。私は呆気にとられて彼を見つめる。何をしているのか理解できないまま、彼の顔がぐっと近づく。
「え、ちょっ……!」
言葉を発する間もなく、唇が塞がれた。温かく柔らかい感触とともに、口の中に食べ物が押し込まれる。
「!? 、んっ……!」
思わず身じろぐが、彼の手がしっかりと私の顎を押さえ込んでいた。逃げることも、口を閉ざすことも許されない。押し込まれた食べ物が喉の奥に触れ、反射的に飲み込んでしまう。唇が離れると、私は荒い息をつきながら文次郎を見上げた。
「な……なに……っ?」
「全部こうやって食わせてやろうか?」
文次郎は真顔だった。その口調も表情も、本気のそれでしかなかった。
「それが嫌なら、自分で食え」
怒りとも哀れみともつかない目で見下ろしながら、彼はそう告げる。本気だ。
胸が締め付けられるような感覚が広がる。生きることに執着しなくなったはずなのに、こんな形で強制されると、わけがわからなくなる。ただの食事なのに、食べることがこんなにも重たいものに感じたのは初めてだった。
私はしぶしぶ箸を取る。手が震えるのを感じながら、ほんの少しだけ口に入れる。たった一口なのに、胃がずっしりと重くなるような感覚がした。けれど、それと同時に、温かい湯気と味が舌の上に広がる。そのぬくもりが、私をこの世界に繋ぎとめるような気がした。
生きたくなくても生きろと願われ、食事をとることが必要な体がうらめしい。
いっそ、完全に壊れてしまえば楽になれたのだろうか。
箸を握る手が震えた。小さく息を吐きながら、私は無理やり口に食べ物を運ぶ。ひとくち噛むたびに喉が詰まるような感覚に襲われる。胃が受け付けないわけではない。ただ、胸の奥が痛くて苦しくて、何を口にしても涙が込み上げてくる。ぽたり、と器の中に一滴落ちた。
自分の嗚咽が、息をするたびに喉を震わせる。箸を握る指に力が入らず、私は食べることすらまともにできなくなった。泣きたくなんかないのに、涙は止まらない。
「……っ、ひっ……、 ぅ あぁ…………」
どうしてこんなにも辛いのか。生きることが、こんなにも重たいものだったのか。
次の瞬間、文次郎の腕が伸びてきて、私はぐっと抱きしめられた。背中に回された腕の温もりは、驚くほど力強くて、私の体をしっかりと包み込んでいた。
「……なんで、生きなきゃいけないの…………?」
泣きながら問いかける。自分でもどうしようもないほど幼稚な問いだと思った。でも、今の私は、それ以外の言葉を持っていなかった。
「お前に、生きてほしいと願うものがいるからだ」
低く静かな声が、私の耳元で囁かれる。
「……っ」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。ただ、彼の抱きしめる腕が強くなるのを感じた。彼の顔は見えなかった。でも、その腕の力が、言葉以上に彼の想いを伝えてくる。私は、ただ泣くことしかでず、嗚咽を漏らしながら、彼の胸に顔を埋め、涙を流し続けた。
希死観念を抱えながら過ごす私に、学園の人々は次々と役割を与えようとした。雑用、手伝い、誰かの補佐……それが彼らの優しさなのだとわかっていた。私に生きる理由を持たせようとしている。
誰かの役に立てば、自己肯定的になれば死ぬなんて考えなくなるかもしれない。そう思ってくれているのが伝わってくる。
けれど、どこかで私は死を求めていた。どれだけ優しくされても、どれだけ温かく接せられても、それが続く保証はどこにもない。どうせまた時間が巻き戻れば、彼らとの関係も、私が築いたものも、全て消えてしまうのだから。
それでも、一年以上の時間が経過したら、私はもう少し前向きになれるだろうか?そんな淡い期待を抱くことも、あるにはあった。しかし何度繰り返したかわからないこの時間の中で、先に進めたことはないのだ。希望など抱くだけ裏切られるだけだった。
「おーい、これ見てくれよ」
ぼんやりと縁側に座っていると、留三郎が嬉しそうに声をかけてきた。
「……?」
差し出されたのは、小さな木彫りの人形だった。
「こういうの、好きか?」
そう言いながら、彼は人形を私の手のひらに乗せた。小さくて、素朴な造形。だけど、どこか温かみのある形をしていた。
「かわいいとは思う」
そう答えると、彼はパッと表情を明るくした。
「そうか! よかった!」
嬉しそうに笑う彼を見て、少しだけ胸が痛む。これもまた、時間が戻ればなくなってしまうんだろうな。何を手にしても、それは必ず消える。どんな思い出も、どんな関係も、何もかも。そう思うと喜びを摘み取られてしまう気がした。
「……どうして、私に構うの?」
ふと、口から出た言葉に、留三郎は少し目を丸くする。
「放っておきたくないからだ」
当たり前のように言うその言葉が、私には理解できなかった。
「……わからない」
「それでもいいさ」
彼は笑った。その笑顔があまりにも眩しくて、私は何も言えなかった。彼はどうして笑ってくれるんだろうか。
草むしりをしている最中、うっかり鎌を滑らせてしまった。
「……っ!」
瞬間、手のひらに鋭い痛みが走る。無意識に手を引き、血がじわりと滲み出てくる。そのまま立ちすくみ、見ると切れた部分から赤い血がにじんでいた。細かい筋が手のひらを赤く染めていくのが、まるで遠くの出来事のように感じられた。
呆然とする間もなく、隣で草むしりをしていた小松田さんが私の様子に気づき、驚きの声を上げた。
「た、大変だーーー!!」
慌てふためく小松田さんの声に、ようやく現実に引き戻される。顔色はすでに青ざめ、両手をバタバタと振りながら、私は一歩も動けなかった。
「大丈夫ですから……」
「そんなわけないよ!血がいっぱい出てる!!!ほ、保健室!!!!!!!」
必死にそう言うも、彼はあまりにも真剣すぎて、私の言葉を完全に無視するように腕を引っ張り、急いで保健室へと引っ張られていく。
「ちょ、ちょっと……!」
言葉を続けようとしたが、もう手遅れだった。彼の勢いで、何もかもが決まってしまった。
「これは……!」
保健室に飛び込むと、伊作がすぐに私の手に気づいて驚きの表情を浮かべた。
慌てて言われ、私は右手を差し出す。伊作はすぐにその手を取って、丁寧に傷を確認した。見れば見ぬふりをしてくれたら楽なのに、彼はただの事務仕事でもなく、真剣に向き合ってくれる。
「すぐに治療するよ、少し痛いかも……ごめんね」
小さな声で言うと、素早く薬箱を取り出して、消毒液を手にとった。冷たい液体を傷口に押し当てられた瞬間、私は自然と顔を歪めた。痛みが染み込んでくる。
「痛っ……」
その声に、伊作は少し困ったように眉をひそめて、そっと薬を使っていく。
「傷が残らないといいけれど……」
悲しそうに眉を下げる伊作に、痛みや傷を作ることに慣れた私は気にしないでくれと告げる。
「大した怪我じゃないから、心配しないで」
「そんなことない!君が、たとえ痕が残らないものだったとしても、傷を作るのが、とても悲しいよ……」
ふっと優しい言葉が響く。伊作は私をじっと見つめたまま、傷をしっかりと処置してくれる。あまりにも私に対し心配してくれているように思う。このループでは彼とはまださほど交流も深めていない。なぜそのように思うのだろうか。
「……悲しい?」
何も言わずに治療していた彼が、ふと小さく笑いながら、静かな口調で言った。
「その理由が、君にわかるようになってくれたら嬉しいな」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で何かが震える。伊作の笑顔には、どこか深い哀しみが含まれていた。彼の目は、私を見ているのに、遠くを見ているようで、その温かさと切なさが、まるで私を試すように感じた。
何も答えられない。私はただ黙って、彼が傷を治してくれるその手に頼り続けた。
小平太は相変わらずだった。どこか憎めない無邪気さで、今日もまた私を引っ張り込もうとしてきた。
「おい、バレーやろう! それか、走りに行こう!」
彼の元気な声が耳に響く。でも、私はどちらも気が進まない。気力が出ないし、何よりただ体を動かすことに意味を見出せなかった。
「今日はいいよ……」
断ると、彼はにやりと笑って、何も気にしない様子で言った。
「昨日もそう言った!特に予定もないならいいだろう!一緒に行くぞ!」
その言葉が終わると同時に、私は肩をがっしりと掴まれて、無理矢理担ぎ上げられる。
「ちょ、待って……!」
抵抗も虚しく、小平太の腕の中で軽々と持ち上げられ、山の方へと走り出していった。私はどうしようもなく彼の勢いに巻き込まれ、ただされるがままだ。
山の中を走りながら、少しずつ疲れてきた頃、私たちは一つの場所に足を止めた。
小さな清流が流れ、周りには色とりどりの花が咲いている。とても静かで、穏やかな空気が流れていた。
私はふとその美しい花々をじっと見つめていた。どこかで見たような花もあれば、知らない種類のものもあり、思わず見入ってしまう。
「ん? なんだ、気になるのか?」
そう言いながら、小平太はブチッと花を摘み取ると、私に突き出した。その瞬間、私は少しだけ申し訳なく思った。見ているだけで十分だったからだ。花はそのままで美しいし、触れる必要はない。
「……見ているだけでよかったのに」
「もう摘んじゃったからな!」
そのまま、嬉しそうに言う。
「お前のものになったんだから、これからはお前が責任をもって愛でろ!」
私の手のひらに無理矢理押し付けられる花。その言葉に、私は笑うしかなかった。正直、少しだけ恥ずかしかったけれど、その無邪気な彼にどうしても逆らえなかった。
「笑ったな!そうしている方がいい!」
「……ありがとう、なんか変な感じだけど」
花を受け取ると、もう少しだけ山の景色を楽しむことにした。静かな空気と、心の中で少しだけ温かい気持ちが広がっていくのが感じられた。小平太は私をきっと慰めるために無理矢理連れ出してくれているのだろう。わかっているのに、私は気持ちに答えられないままだし生きる希望を持てずにいる。
手のひらにのせた野花は、もう少しでしおれてしまいそうだった。その儚い姿を見つめながら、私はどうしたものかと考えていた。花の命は短い。美しく咲くその瞬間が一番輝いているけれど、それを無理に引き延ばすことはできない。
「どうしよう……」
心の中で呟くと、長次が静かに近づいてきた。
「……押し花にでもすればいいんじゃないか」
そう言って、彼は目の前に机を整え、花をそっと並べていく。彼の手は慣れたもので、花を押し花にする作業を何の迷いもなく始めた。私は花を見つめ、またつぶやく。
「美しい瞬間をとどめて保管しておいても、輝きはいつか失われてしまう。無理矢理に命を引き延ばすのは、いいことなのかな……」
その言葉に、長次はふと手を止めて私を見た。
「…………それでも、その輝きを残したいと思った気持ちは無駄じゃないはずだ」
彼の言葉は穏やかで、どこか優しさに満ちていた。私の心にじわりと染み込んでいく。その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸が温かくなる。
「長次君は、そういう過去があったの……?」
私は思わず尋ねた。彼が何かを大切にしているような気がして、それが気になったからだ。長次はしばらく黙って考え込み、そして静かに答えた。
「そうだ」
その一言には何か重みがあった。彼の言葉が、まるで過去に何かを背負っているかのように響く。その表情は踏み入ることを許されない何かがある気がして私はそれ以上、何も聞けなかった。
その目にはどこか深いものが宿っているように感じた。それが彼にとって、何か大切なことだったのだろうと思う
彼は何を守ろうとしたんだろう。
夕暮れ時、長屋の縁側に座り込んでぼんやりと外を眺めていた。空はオレンジ色に染まり、柔らかな光が辺りを包んでいる。もうすぐ夜が来る。この穏やかな時間が、あっという間に過ぎ去るのが、何だか寂しくてたまらなかった。
皆からもらったもの、与えてくれた優しさや、与えてきたと思っていたもの。そうしたものが増えていくたびに、心のどこかで感じるのは、これもまた終わってしまうんだろうなという、無意識の予感だった。どうしても、そう思わずにはいられない。
「……」
ぼんやりとした思考に浸っていると、気づけば文次郎が横に立っていた。いつの間にか、彼の姿がそこにあった。
「……文次郎くん?」
彼の表情は逆光のためよく見えない。
私はふと思い出す。あの日、私が帰りたいと泣いていた時彼はそばに来てくれた。そのまま彼と一緒に月を眺めたこと。あの時の月の光の下で、何もかもが違って見えたような気がした。
「……あれから、少しでも生きたいと思えるようになったか?」
彼の声が、ほんの少し震えているのがわかった。私はその言葉に答えるのをためらった。どうしても、今は答えを出すのが怖かった。
「……わからない」
正直に答えた。心の中で、今もまだ答えが見つからないのだ。生きる理由、ここにいる意味。考えるほどに迷子になってしまう。
文次郎は無言で私を見つめていた。
「……すまない」
その言葉に、私の胸が少しだけ痛んだ。文次郎の顔には、申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。まるで、自分が私に負担をかけていることを気にしているようだった。
「……どうしたの?」
私は少し声をかける。いつもの強気な文次郎が、どうしてこんなにも沈んだ顔をしているのだろう。
「お前を困らせてしまっている」
突然の言葉に、私は驚き、そして少しだけ戸惑った。文次郎は何かを思い詰めているようだった。顔を合わせることもなく、ただ視線を落とし、言葉が続かない。
その時、彼が突然、私を抱きしめた。
「……え?」
驚き、息を呑む間もなく、彼は私を強く抱きしめた。その力強さに、私は少しだけ硬直する。何も言われず、ただそのままでいることしかできなかった。
何も言わない彼の胸の中で、私はただ動けずにいた。
「……すまない」
その言葉が、再び響く。文次郎の声はどこか哀しげで、私の胸を締めつけた。
「……何も言わないで、こうさせてほしい」
その言葉に私は口を開けることができなかった。振り払おうとする力も、悲しみが胸に込み上げてきて、結局、彼から離れることができなかった。
そのまま、しばらくの間、私は彼に抱きしめられ続けていた。
夜の静けさの中、私はぼんやりと過ごしていた。外はすっかり暗くなり、部屋の中の灯りだけが頼りのような時間。無駄に流れる時間に、ただ身を任せていると、いつの間にか仙蔵がやってきた。
「お前、文次郎といろいろあったんだろ?」
その声に、私は顔を上げた。仙蔵は特に驚いた様子もなく、静かに続けた。
「でも、変わらずに接してやってほしい。あいつ、いろいろあってな、参ってるらしい」
「別に構わないよ」
私は淡々と答えた。特に何も感じなかった。ただ、そう言っておけばすべてが落ち着くと思ったからだ。仙蔵は少しだけ頷くと、何も言わずに黙って座った。時間が少しだけゆっくり流れる気がした。
それからしばらくの沈黙の後、仙蔵が突然、声をかけてきた。
「なぜお前は死にたがっていたんだ?」
その言葉が私の心に深く突き刺さった。息を呑み、何も答えられなかった。
「……」
言葉を探すように頭の中を駆け巡らせる。
「……何度も繰り返しているから」
ようやく声を出してみると、何だか心が少し楽になった気がした。みんなの温かさが心に染み渡り、少しずつ心を許していった自分が、また自分を縛り付けていたのだろうか。自分がこの一年を繰り返していることを告げる。彼は何も言わずに聞いていた。
「こんなのおかしいよね」
小さく笑ってみると、仙蔵は静かに頷いた。
「そうか……”お前も”覚えていたのだな」
その言葉に私ははっとした。
「え?」
思わず顔を上げると、仙蔵は嬉しそうに、しかしその笑顔の奥に何か不気味なものを感じるような表情を浮かべていた。
「そうか、私たちだけかと思っていたがお前もか。合点がいったよ」
その言葉に私は何も言えなかった。心臓が一瞬、止まりそうになる。
「な、何……?」
後ずさろうとすると、仙蔵はゆっくりと私に近づいてきた。その動きに、私は恐怖を感じて足がすくんだ。どこかでその瞬間が訪れるのを感じたからだ。けれど、彼の目は穏やかな笑顔を保ちながら、どこか冷たさを感じさせる。
近づいてくるその足音が、私の心をますます震わせる。
「なに、ある男たちの話をするだけだ、怖がることはない」
仙蔵はそう言って、穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔には、どこか不気味な輝きが宿っていたような気がしたが、私はそれに従い、静かに彼の言葉を聞いた。彼の語り始めた話の内容に、少しずつ心が引き寄せられる。彼は静かな声で、遠い過去のことを語り始めた。
「私たちは仲のいい友人だった」
6人の仲の良い友人たち。何も特別なことはなく、普通の人々が普通に過ごしていた。だが、ある晩、たまたま集まったその仲間たちは、すべてが運命に絡まるかのように交差していった。
「その時、みんなで連絡を取っていたんだ、もう一人の仲の良い友人を呼ぼうということになってな……」
仙蔵は、仲間たちの集まりのことを話していた。だがその時、もう一人の友人が来なかった。
「彼女も暇をしていると言っていた。だからみんなで待った」
けれど、来なかった。
「どうしてだろう?みなそのように疑問に思った」
その疑問を抱えながら、彼らは待っていた。だが、ついにその答えが来ることになる。
「友人は通り魔に刺されて死んだ」
その言葉に、私は息を呑んだ。目の前にいる仙蔵の顔に浮かんだ表情が、少しずつ暗くなっていくのがわかった。その時の痛みや後悔が、今も彼に深く刻まれているように感じた。
「……来なかった友人の死を、皆で悲しんだ」
その言葉の中には、まだ鮮明に刻まれた悲しみが宿っているようだった。
「私たちが、あの時に呼ばなければ、そうはならなかったのではないか」
誰もが自分を責めた。あの時、もしもう少し早く声をかけていたら、もしあの場所で待つ時間を変えられたら……。その思いが、全員に重くのしかかった。
それから、どうにかして彼女を蘇らせる方法を探し始めた。そんな中で、ある日、奇妙な儀式の話を聞いた。
死者を蘇らせる儀式だ。
その儀式を知った時、彼らは少しの希望を持った。それが本当に可能なら、死者を生き返らせられるのなら、今すぐにでもその儀式を試してみたかった。どんな手段を使ってでも、あの日の悲しみを取り戻したかったのだ。
だが、仙蔵が語るその儀式には、ただの願いだけでは叶わない、恐ろしいものが隠されているような気がした。それでも、彼の目には確かな決意が感じられる。
彼らが行った儀式は、ただの願いではなかった。それは、絶望と後悔の中で生まれた強烈な欲望が引き起こした、禁断の儀式だった。
「六人の魂が必要だった」
仙蔵の言葉は、徐々に私の中で形を成していく。彼らは、それぞれの心に強く根付いた思いを抱えていた。あの日の死を引き寄せることになった友人に対する後悔、そして「もう一度会いたい」という無垢な願い。
彼らはその思いを胸に、儀式を受け入れた。
「時間を巻き戻して、彼女に会い、穏やかな、変わらない日々を送りたい」
その願いが、強く、強く、彼らを駆り立てた。彼女の死を取り戻すために――。
だが、そう願ったことが運命を狂わせた。儀式が彼らの望みを叶えるとき、それは呪いとなって彼らを縛った。いびつな形で。
時間を巻き戻し、彼女を取り戻す方法は、魂を捧げた六人が別の時間の自分に憑依し、そのうえで彼女と結ばれることだった。その言葉に、私は震える。魂が、別の時間の自分に憑依する。それは一体、どういうことだったのか。
「私たちの魂は、そうして別の場所にいる、"自分"に継承された」
仙蔵の声が続く。その言葉が、私をもっと深い闇へと引き込む。
「私たちは、違う時間の中に生きる自分と同じ存在と融合し、忍者として生きたのだ」
彼らの魂が、別の自分に宿り、忍者として生きる。彼らは信じていた。きっと、どこかで彼女と出会うことができるだろうと。だが、その出会いを果たすためには、時間を越え、違う自分と結びつかなければならなかった。
「そして、彼女はやってきた」
その瞬間、私は理解する。彼女がやってきた理由、彼女が存在する意味、それが。私だろうと。
「私たちの魂が、もう一人の自分と結びつく時間には差があった」
仙蔵の声は、ゆっくりと沈み込むように響く。時間の流れが、それぞれの魂に異なる速度で働いていた。それゆえに、彼らは完全に融合することなく、それぞれが別々の時間軸の中で生き続けた。
「だから、覚えているものと覚えていないもので分かれていて困ったよ、私は二番目だった、最初は誰だと思う?」
面白そうに笑う仙蔵は私に問いかける。時間の中で、彼らの意識が交錯し、混乱していた。その結果、儀式は不完全なものとなり、失敗に終わったのだ。
「儀式が失敗に終われば、同じ時間軸を繰り返すんだ。お前が私たちを拒絶するか死ぬか……何度も死ぬ姿を見ては絶望した」
その言葉に、私の体が硬直した。時間が繰り返される?そんなのまるで――――
「この一年を、何度も何度も繰り返していた」
仙蔵は、静かに告げる。
「それに、全員が覚えている状態でなければ儀式は失敗なんだ、全員で彼女に会うことが目的だったからな……苦労したものだよ、同じ時間を何度も繰り返すんだ、気が遠くなるようだった」
その言葉が、私の脳裏に深く突き刺さる。彼らは、あの儀式を失敗させてから何度も同じ一年を繰り返してきた。そして、私はその中で生きてきた。
それが、彼らが抱えてきた呪いだったのか。
「わたしは、じゃあ……」
「ああ、死んでいるんだ。そうして蘇る儀式で君はここにやってきた」
この時間でなければお前は生きられない。そう告げる仙蔵は美しい笑顔で、ぞっとした。自分の真実、すでに死んでいるという現実。彼らが同じように時間を繰り返したというその事実に、執念に、私は震えてしまう。
「儀式は複雑だがおじゃんにする方法は簡単でな。お前を殺せば、この”繰り返し”も終わる」
仙蔵の声は、普段の冷静さとは違って、どこかひどく痛んでいるようだった。彼が語るその言葉の重さに、私は言葉を失った。
「誰かが発狂して完全に狂う前に、やめようと文次郎が提案したこともあった、あいつはそういうやつだ。心根がまっすぐだからな」
その提案――それがどれほどの絶望から生まれたのか。仙蔵は、どこか場違いなほど穏やかな表情を浮かべながら話し続ける。
「長屋の部屋で眠るお前のもとに、深夜に忍び込んで、殺そうとして刃を振り下ろせぬまま、あいつが泣いていたこともあったか」
その瞬間、私の胸が締め付けられる。こんなにも近くで、こんなにも私に迫っていた死があったのだと。繰り返す時間の中で絶望しながらも、それでも、彼はその刃を振り下ろすことができなかったのだ。
「でも、できなかった」
文次郎の言葉は静かに続いた。
「あきらめられなかったんだ、お前が好きだったから」
どこか儚げなその表情に、私は目を閉じたくなる。ここではない記憶が、彼を苦しめていたのだろうか。彼の言葉に込められた痛み、後悔、そして愛――それらすべてが交錯していた。
「ここではない記憶に苦しめられ、何度も同じ一年間を繰り返すのは、何という拷問か、私が記憶がある時もあれば文次郎が記憶がないときもある、かといえば文次郎が記憶がある時に私が記憶がないときもあったり、みんなが記憶のある状態はなかなかなくてな、毎回探るのが大変だったよ」
その言葉が胸を抉るように響いた。繰り返し続ける時間の中で、彼らはどれほど苦しみ、そしてどれほど私を恨んできたのだろうか。それが少しでも和らぐために、あの儀式を行ったのだろう。
「始めたのは自分たちだが、原因であったお前を恨みそうになったこともあった」
彼は一度、目を閉じ、深く息を吐いた。
「でも、それ以上にお前が愛おしかったよ」
その言葉には、彼の心の奥底にある感情が詰まっていた。彼が頬を撫でるその手のひらに、私はただ身を委ねることしかできなかった。
「お前を生かすために始めたのに、お前は死のうとするし……どうしたものかと思っていたがようやく、みんなで集まれた」
その時、扉が開かれ、他の5人が静かに部屋に入ってきた。彼らの顔はどれも無表情で、ただ静かな重圧を感じるだけだった。だが、その重みの中に、共に歩んできた年月が詰まっていることが、言葉なくとも伝わってくる。
私の中で何かが崩れ、また新たな恐怖が胸を満たす。 彼らの存在、そして私の存在、すべてが交錯していく。時間を巻き戻すために、私を含めた6人の魂が決して引き戻すことのできない過去の呪縛に繋がれている。
「儀式の完遂は、全員が記憶がある状態でお前が新たな命を宿すことだ」
仙蔵の言葉が、静かに私の耳に届いた。最初はその意味がわからず、ただ耳の中で反響するだけだった。何を言っているのか、どうしてそう言ったのか、その背後に何があるのか。
その瞬間、嫌な予感が胸に広がる。
「なに……?」
その言葉が私の中で繰り返されるが、答えはない。何かが間違っていると感じた。
瞬時に、私の体が反応した。咄嗟にその場から逃げようと、足を踏み出した。心臓の鼓動が速くなり、背筋に冷たい汗が流れ落ちる。だが、逃げる間もなく、後ろから強い腕が私を抱きしめた。その力は予想以上に強く、私はその腕から逃れることができなかった。
「やめて、放して!」
声が震え、体が硬直する。恐怖と混乱が一気に押し寄せてきた。どんな言葉も出てこない。
「ようやくこの縛られた時間から抜け出せるのだから、お前もうれしいだろう」
仙蔵の声が耳元で囁く。その言葉の意味が、私の中で絡まり合っていく。新たな命、記憶を持つこと、そしてお前がそれを宿す……その言葉の裏に、私をどうしようというのかが見え隠れする。
必死に声を絞り出すが、その声はかすれ、届くことはない。彼の腕はますます強くなり、私は動けないまま、ただ震え続ける。
「すまない、それでもお前が好きなんだ」
文次郎が私を後ろから抱きしめて口づけを落とす。私の叫び声が吸い込まれていく。
その時、扉が静かに閉められる音がした。
その音が、私を完全に閉じ込めたような気がした。何も言えないまま、私はそうしてしまい込まれる。恐怖と混乱の中、ただひとつの事実だけが頭の中で繰り返された。私が、逃げることのできないまま彼らのもとで永遠に閉じ込められているのだということ。
ぼんやりとした意識の中で、横たわる私の目の前に伊作の顔が浮かぶ。彼は静かに私を見守り、私の手に触れている。その手が、傷の上に優しく重なった。
「僕たちだけが繰り返しているのかと思っていたけれど、君も繰り返していたんだね」
その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。繰り返し続けている日々、その意味が少しずつ明らかになり、私は無力さに息が詰まるような思いがした。
「ごめんね、傷だらけになってしまって、つらかったね、傷が増える君を見る度にずっと後悔していたよ」
その言葉が、私の心をさらに揺さぶる。伊作は、傷の痛みを理解してくれているようだった。優しい手が傷の上で動き、温かさが伝わってくる。その手が医師としての手のひらでありながら、どこか懐かしく、包み込むような温もりを持っていた。
「大丈夫だよ、もう大丈夫」
伊作は優しく私の手を取って撫でた。
留三郎は静かに私の目を見つめながら、少しだけ頬をかすめるように笑った。彼の目には、言葉にできない感情が浮かんでいるのがわかる。その目線は、どこか遠くを見つめるようで、でもその瞳は確かに私に向けられていた。
「お前に兄みたいに頼られるのがうれしかった」
留三郎はそう言って、少しだけ目を伏せる。彼がそんなふうに感じていたなんて、私には想像もしていなかった。
「俺があの夜に連絡しなければ、お前は来なかったんじゃないかと思うと、後悔しない日はなかった」
その声に、私は少しだけ息を呑んだ。彼が言う通り、もしあの日、もしあの瞬間に彼から連絡をもらわなければ、私はこんなふうにここにいなかったかもしれない。私がここにいることで、彼が感じている後悔がどれほどのものだったのか、言葉にすることができない。
その後悔が、彼の中でどれほど深いものだったのかが、手に取るようにわかった。
「もう一度、笑っている姿を見れてうれしくて、苦しめているってわかっていながらも、この儀式をやめられなかった」
その後、留三郎は静かに私の頭をなでてくる。その手のひらが優しく、あたたかい。
「お前がここにいてくれるから、少しは報われる気がする」
そう告げて笑う顔は、泣き出しそうな顔だった。
小平太の声が静かに響く。彼の目線は真剣で、どこか照れくさそうにも見えるが、その眼差しの中には何か深い想いが込められていることがわかった。
「手を引けば、いつでもついてきてくれるお前が、かわいくて好きだった」
その言葉が、私の胸をぎゅっと締めつける。小平太の目には、あの頃の私を見守ってくれていた優しさと、どこか守りたいという強い気持ちが浮かんでいるように思う。
「私よりも弱っちくて、どうしようもないお前が愛おしかった、いつか終わる命があると知っていても、それでもお前がいなくなることを許容できなかった、これは私の弱さだな」
その思いが、どれほどの重みを持っているのか私は知らない。
「美しい花を摘むように、可能性を捨てられなかった。それでも後悔していない」
私はそのまま黙って、小平太を見つめ返す。彼の手が、そっと私の手を包んでくれる。いつでも私を無理やり引っ張っていく大きな手だ。
「思い出にしてしまいたくなかった」
長次の言葉が、静かな空間に染み入るように響く
「方法があるのなら、どんな形でもいいと思った」
そのまま、長次は私を静かに抱きしめる。彼の胸が、私の背中にぴったりと伝わって、心臓の音が、私の耳元に響き、静かなリズムが繰り返されていた。
彼は心音を確認するように、私を抱きしめながら、まるで心臓の鼓動を感じ取りたくてたまらないように、そっと耳を近づけている。
長次の手が、私の背中を優しく包み込む。私が生きていることを確かめるように彼はそうして静かに胸に耳を当て、確認するように抱きしめている。
ただ、心臓の音だけが、私たちの間で確かに響いていた。
「お前が好きだ、どんな方法を使ったとしてももう一度一緒にいれるならそれでいい」
うっすらと涙を浮かべながら抱きしめる文次郎に何も言えずにいる。これでよかったんだろうか、そう思いながら私は身をゆだねて眠りの世界に落ちていく。ほとんど忘れかけていた現代の記憶の中で、多分だけど私は現代に生きていた彼と付き合っていた。不器用だけど優しくて、カラッとした笑みを浮かべる彼が愛おしかった。
繰り返される日々はおそらく終わるのだろうという確信を抱きながら、私はこれからの事を考えてどう生きていいかわからず、考えることをやめた。
どうせ、私はもう死んでいるのだし。考えるだけ無駄ということだ。
簡潔にこの話をまとめると、現代で死亡した夢主の友人と彼氏だった6年生がその死をあきらめきれず魔術とかを使って、平和な時空の自分たちのもとに自分たちを憑依させ、その世界に呼び出した彼女と共にその世界でずっと幸せに生きようね〜ってする話です。アニメも一年間から先がない、ずっと時間を繰り返すお話なので、こういうちょっと怖いネタを考えてしまいます。
現代で付き合っていたのは文次郎だけど、他のみんなもループを繰り返すうちに執着心が強くなってもはや愛憎を抱きながら恋とか愛とかを超えて夢主を自分のものにしたいという感情が芽生えてます。ループごとに夢主と結ばれている六年生各自とかあったかもですね。