003

初めて『死』を理解したのは、五歳の時だ。
多分、私はその人が世界で一番大好きだった。誰よりも、何よりも。ずっと隣にいて、片時も離れたことなんてないくらい、その人が好きだった。
相手も同じ気持ちだったと思う。
パズルのピースのように、欠けた部分を補うように、私達はお互いにお互いが必要だった。

けれど、その日。出掛けたあの人は、左手だけになって帰ってきた。それ以外は、何も残らずに。
それまで繋がっていた糸がプツンと切れてしまった気がした。
家族が送る支度をするのに慌ただしくしているのを見ても、納棺の手伝いをしても、何をしても、一枚ガラスを隔てた向こう側の事の様な感覚だった。
目の前に並んだ二つの木棺を眺めていても、涙一つ零れない。
小声で愛しい人の名を呼んだ。
返事は、ない。
──ああ、そうか。
無意識に胸元を掴む。そこにぽっかりと穴が開いたことにようやく気付いた。
いつもなら、笑って言葉を返してくれる。いつもなら。
けれど、もう二度とそれは無いのだ。

それが『死』なのだ。


※※※


「八代は、死体とか大丈夫な方かい?」

薄暗い廊下を歩きながら、夏油先輩の問いに苦笑いを浮かべた。

「好きなわけでは無いですけどね」

呪いに関わった死体は大概が見れたものでは無い。けれど、呪術師としてそれらを祓うということは、嫌でも見る機会が増える。最初は直視することもままならず、残穢の確認のため間近で見れば吐いてばかりだった。だが、今は食事を摂りながら何の感情も持たずに必要な情報収集を行えるようになっていた。年齢が上がったことも理由にはあるだろうが、それでも慣れとは恐ろしいものだ。

「取り乱さなければ何も問題ないさ」

夏油先輩は言った。
淡々と、当たり前だという先輩は、誰かの死に慣れるのに時間はかかったのだろうか。
前を歩く先輩を見る。
記憶違いでなければ、夏油先輩は非術師出身だったはずだ。呪いなんて微塵も知らない人の中で、なるべく呪霊に関わらないようにしていたなら、そう慣れるものでは無い。現に初めて散乱死体を見た灰原や七海はしばらく肉が食べられなかった。非術師出身ならそんなものだろうと思う。まあ、私含め比較になるような呪術師出身は同期にいないため分からないが。
──一般家庭の、非術師出身者にとっては死が遠い場所にあった日常のはずが、一転、真隣りで微笑んでいるような非日常に飛び込む。たった一年、されど一年。先輩は慣れてしまったのだろう。麻痺したというべきか。
かつん、こつん、と足音だけが響く。

「先輩は、人の死とか慣れてるんですか?」
「……まぁ、そこそこかな」

肯定。

「呪霊とは切っても切れないからね。『死』は」

少し疲れたような声色だった。
……麻痺したというのは語弊があるのかもしれない。多分、麻痺『させた』という方が正しい。無意識か、意識してかは付き合いが長くないので分からない。けれど、もし無理に麻痺させたならいつかガタが来るだろう。

「さ、着いたよ」

夏油先輩が足を止めた。私も足を止める。
目の前には一枚のドア。扉には『死体安置室』と書かれていた。



何故そんな物騒な場所に来たのか。簡単な話だ。件の任務に進展があったからだ。
今からおよそ半日前。任務地である集落にて遺体が発見された。
その数、七つ。死因は不明。
今はそれに関しての話があるからと夏油先輩についてくるよう言われたので、行動を共にしていた。
遺体は高専に回収されたと報告を受けていたが、まさかこんなところが校内にあるとは知らなかった。
私は目を瞬かせ、夏油先輩を見上げる。

「死因不明なら、それを調査するのも高専の役目だからね」

そうは言うものの、呪術による殺害以外は判別するのは難しくないだろうか。呪殺ならば、『残穢』による捜査が可能だ。『残穢』とは呪いの残りカスだ。少しでも呪いに纏わる事物なら確実に存在する。
だが、それと死因の調査は別問題だ。
ますます分からず首を傾げると夏油先輩がドアをノックした。
少し間を開けて中からはどうぞと返す声。
くぐもっていたが高い声だ。少なくとも男性ではない。というか、私も知っている声だ。
ギィと軋んだ音を鳴らしながら扉を開ける。
部屋は廊下と同じく薄暗く、そして淀んだ空気に満たされていた。
先輩の後に続いて部屋に踏み入れる。
真っ先に視界に飛び込んできたのはストレッチャーだった。数は二つ。それぞれ布の小山が乗っている。
そういったものは、ドラマなどで見かけたことがある。あれは……。

「おー、八代も来たんだ」

脱力したような声だ。やはり、と声の方を見れば丸椅子に腰を掛けた家入先輩がいた。
たった一人の同性の先輩だが、何故こんな場所にという疑問は尽きない。

「解剖は終わりかい?」

お疲れ様、と労う夏油先輩に思わず「え゛」と声が漏れた。

「え、かいぼ……解剖って、先輩が!? え!?」
「そうだよ」
「え、ええー!? ……そういうのって、免許とか何かいらないんです!?」
「ま、その辺りは気にしない」

呪術師界隈、資格免許とか大丈夫なのか?
フグ食えって言われたら怖いなと割と真面目に思ってしまった。

「けど、なんで家入先輩が解剖なんて……。先輩、回復担当だって思ってたんですけど」

家入先輩は数少ない反転術式を使える。反転術式は言ってしまえば回復技。死人を生き返らせるようなことはできないが、傷を癒せる反転術式はそれだけで貴重なものだ。
解剖と、反転術式がどう繋がるのかと顔に出ていたのだろう。家入先輩は軽く笑った。

「さっきから言ってるじゃん。気にするなって」

気にするなと言われると気になるのが人の性。追及したい。
が、それは今やるべきことではないと不承不承ながら頷いた。

「じゃ、本題入るよ。死体は65歳と81歳の男性。死因はどちらも衰弱死。外的要因、病気、一切無し」

家入先輩は夏油先輩にカルテを渡した。

「衰弱死……?」

夏油先輩が聞き返す。
家入先輩は足を組むとちらりとストレッチャーに視線を向けた。

「そ。でも老衰とかじゃないし、奇妙といえば奇妙」
「先輩、衰弱死なのに変ってどういうことなんです?」
「あー……八代は衰弱死がどういうのか分かる?」

首を横に振る。
医療に関してはさっぱりだ。

「衰弱死っていうのは免疫とか筋力が低下して起こんの。それでもって、大概が何かしらの病気を併発してる。体力の低下と病気が組合わさることで、死に至る。これが衰弱死。
けど、この死体は病気を発症していない」
「じゃあ、餓死とか?人間、水飲まなくても死ぬって聞きますし」
「それも違うな。胃の中身も検出されてるし、健康状態は良好すぎるくらいだよ」

確かに、それは分からない。
餓死や衰弱死の定義はなんとなく理解できたが、ではこの遺体の死因は何なのだろうか。
布の小山に目を向ける。
二つ、そこに確かに遺体が並んであるはずだ。
けれど、本当にあるのだろうか。
……私には、布の小山があるようにしか認識できない。
死体は、何度も見たことがある。大体の遺体が纏う『死』の空気のようなものも知っている。けれど、いまはそれを全くと言って良いほど感じられない。

「……家入先輩」
「ん?」
「あの、一応見てもいいですか?」

ぱちくりと家入先輩は目を瞬かせた。

「良いけど……八代、大丈夫か?」
「ええ、まあ」

ふぅん、と意外そうな顔で先輩は此方を一瞥した。

「ま、別に遺体を傷付けなきゃ構わないよ。八代なら家的にそんなことはしないだろうけどね」

許可は降りた。
私は布の端を摘まむと少しだけ捲り上げる。
そこには、確かに遺体があった。眠っているような穏やかな顔だ。
だが、どうにも違和感がある。
そこに在るのに、そこに無い。存在が稀薄というのだろうか。とにかく、そんな感覚だった。
あまりにも感覚的すぎるというか、表現のしようがないことなので口に出すのも悩んでしまう。

「何か分かりそう?」

後ろから夏油先輩が覗き込んでくる。
そう問われても私は眉を顰めるだけだ。

「残穢がものすごく少ないことは何も。あとは、何かこう違和感があるというか」
「違和感?」

遺体に布を被せる。長い間見ていると、違和感で気持ち悪くなりそうだった。

「存在感が無い、というか、何と言うか……」
「あ、それ。アタシも思った」

驚いて顔を上げる。
そう感じたのは間違いでなかったのだという思いと、一人だけの勘違いでなかったことへの驚きだ。

「なんかさ、ずっと変な感じだったんだよね。バラしてて。夏油は?」
「私も確かに違和感はあったけれど、気のせいかと」

どうやら、全員感じていたことらしい。

「他のも確認してみるか」

……結局のところ今回の発見された遺体全てが、存在の希薄な奇妙な遺体だった。
呪いのせいというワケでもない。病気のせいでもない。理由、過程、全てにおいて不明。
こんな時に限って、呪力を見れる特別な目を持った先輩は不在だ。
頼りになる情報は何もない。むしろ謎が増えただけ。そんな状態で下された指令は、再度任務に従事することだった。