「あ、の、副局長…?」
「何だ」
「いや何だではなくて」

今私の目の前にいるのは副局長だ。私を壁際に追いやっているのも副局長で、私の腕を押さえつけているのも副局長だ。呼べばさも当然のように疑問符が返ってきて、いやまじで何だはこっちの台詞だ。何してんだあんたは。
局内の廊下を歩いていたら、突然副局長に腕を掴まれて。無人の研究室に連れ込まれて今に至る。薄暗い室内や足元にバラバラと散らばった書類が、なんともそれらしい雰囲気を漂わせる。

「これはどういうことでしょう」
「随分と察しが悪ィな」

この状況で察することができるのなんて、副局長がお盛んなことと副局長が誰彼構っている余裕がないということくらいだ。余裕があれば私みたいな凹凸のない幼児体型に迫るなんて愚行は冒さないだろう。なんだ薬でも盛られたのかこの人は。

「離して頂けますか」
「そりゃ聞いてやれねえな」
「仕事中ですよ副局長」
「その方が燃える」

あ、だめだこのひと。腕を押さえつけている副局長の手は、決して痛みを感じるほどの拘束ではないが抜け出すには少々困難で。脳みそをフル回転させて逃げる算段をつけようとするものの、何通り考えてみても私が副局長から逃れる術はないという結果に落ち着くだけだった。頭のいいこの人のことだから、そういうのも全部計算した上で私をこの状況に追い込んだのだろう。このあたりは局員もなかなか通らないから助けを呼ぶことも出来ないし、監視カメラもないから誰かが見つけてくれることもない。女の私が男の副局長の力に勝てる可能性だってゼロに等しい。むしろこの状況下でここまで落ち着いている自分を誰か褒めてほしいものだ。誰も見てないけど。

「あの、副局長」
「…いいな、それ」
「はい?」
「この状況で役職名で呼ばれると背徳感が増す」
「…いつからそんな変態になったんですか」
「俺は元々こういう男だ」
「こんな変態上司の下で働いてたなんてショックです」
「悪ィな、イメージと違ったか?」
「それなりに」

副局長が拘束している私の手を片方だけ解放し、そしてその指先に自身の唇を押し当てた。指に通った神経は、副局長の薄く柔らかいその感触を嫌というほど拾う。さすがに驚いて手を引くと、副局長はにやりと口角をつり上げた。

「な、にしてるんですか」
「求愛行動」

求愛、って、何を言ってるんだこの人は。そしてなんで私はこんなに嫌じゃないんだ。急に拉致された上にこんなセクハラを受けたんだ、普通ならそれなりに嫌悪感とか抱くはず、なのに。副局長の唇が触れた部位はじんじんと熱を持って、四肢の末端とは思えない温度を成している。あつ、い。

「は、離してください」
「さっきも言ったろ、それは聞いてやれねえ」
「や、あの、ほんとに、困ります」
「その顔で言われても説得力ねえな」

その顔、とは、一体どういう顔だ。熱を持った指先で頬に触れてみる、と、あれほど熱く感じた指先と負けず劣らず、顔も熱を帯びていて。ああ、私今赤いんだと察するには十分だった。

「だってそんな、あんなことされたら、そりゃ赤くなるに決まって」
「違ェよ」

まだ言い終えてもいないのに、副局長は私の言葉を遮る。違うってなに、どういうこと。現在進行形で火照る顔に羞恥を覚えつつ、副局長の言葉の意味を探る。けれどすぐに紡がれたその意味に、私は更なる羞恥を覚えることになる。

「最初から真っ赤だぞ、お前」
「…は」

最初から、ってつまり、ここに連れ込まれた時からってこと?嘘だ、私はあんなに落ち着いていた。副局長の言葉にも冷静に対応していた。最初から赤かったなんて、そんな。

「真っ赤な顔して平静保ったつもりでいるんだからよ、笑い堪えんの大変だったぜ」
「嘘、です」
「嘘じゃねえよ。んなそそる顔されて我慢してた自分を褒めてえくれえだ」
「や、あの」
「で?俺はこの先に進みてえんだが、お前はどうだ」
「…は」
「本当に察しが悪ィな、分かりやすく言ってやろうか?キスして脱がして事に及び」
「や!あの!大丈夫です!」

とんでもないことを言い出す副局長を今度は私が遮る。…まああまり遮れてないけど。触れなくてもわかるくらいには顔が熱くて、きっと先程より赤くなっているであろうことは容易に想像できた。最低なこと言われてるのに、最高にドキドキしてる私の心臓は何かの病気かと疑うほどに忙しない。もうだめだ、ごちゃごちゃ考えるのも馬鹿馬鹿しい。

「…順序が、違いませんか」
「あ?先に脱がしてほしいのか?」
「そうじゃなくて!…その、つまり」

自由な右手で、副局長の白衣を掴む。震えそうになる手を叱咤して、この緊張が彼に伝わってしまわないように。まあ顔真っ赤な時点でそんな虚勢もあまり意味は成さないけれど。

「私は、副局長のことが、好きなんです、けど」

副局長は、と言うよりも先に、私の唇は自由を奪われた。さっき指先に触れたそれは、今度は私の唇にそっと触れていて。

「好きだ、なまえ」

目を見てそう告げられて、泣きそうになってしまったのは内緒だ。副局長の真剣な瞳が私だけを映していて、副局長の視界を独占している事実が嬉しくて。もう一度触れた唇は、さっきよりも甘く優しく感じられた。

「結局、順序、違うじゃ、ないですか」
「もう喋んな」

唇が少し離れた隙に言葉を紡ぐも、途切れ途切れになってうまく喋れなくて。瞳に熱を宿した副局長に制されて、私は押し黙る他なかった。薄暗い研究室、足元に散らばった書類。きっとこんな生々しい状況も、変態副局長にとっては興奮材料なのだろう。