過去の記事(転載)

▽2016/07/05(Tue)
虚空に向かってエロスを叫ぶ
mixi転載。2012年06月15日23:59
多分、GREEから転載した分だと思う。
長文。
誰かの責任を問うとか、そういった意図ではない。
ドン引きな内容。
内容はドン引きだけど、結論はいたってまとも。
*****



先日も書いたのだけど、『レイプ・男たちの発言』というインタビュー本を読んだ。もともとは1982年にアメリカで出版されたもので、日本では1988年に筑摩書房刊行、1993年文庫化されていて、私が読んだのは文庫のやつ。
著者はティモシー・ベイケネっつーアメリカのフリーライター。反暴力運動のスポークスマンをしてる人らしい。
内容は、一般・司法関係者・警察官・医者・加害者・被害者の代弁者、へのインタビューと、ベイケネによる考察・結論。訳者である鈴木晶と、落合恵子の対談が巻末についている。

まぁ、つまりは、1980年代前半のアメリカにおけるレイプ事情と、世間が持つレイプ観への考察が主旨なんだけど。
これによると、レイプは確かに性的な行為であるけれど、その実は社会的な由来を持つっていう話で。

いや、他の本でも「レイプは社会的抑圧から来るものであって、性欲というよりも支配欲であり暴力である」みたいなことは読んだことあるから、別に今更新鮮でもなんでもなかったんだけど。

そもそもレイプっつー犯罪が、何によって構成されてるかって言うと、「被害者に対する生命的な圧力」と「性的な陵辱行為」なのよね。
被害者は、命を狙われるくらいなら、プライベートを差し出す、という状態になる。

じゃ、そこにいたるまでの、加害者側にある要因は何なのか。
「女性に対する恐怖」「社会的な抑圧」。
それが要因となって、「弱者に対する優位性の誇示」として被害者を犯す。

インタビュー記事に度々出てくるのが、「女はその外見で男をメロメロにする」「そうやって攻撃してくるから、男の反撃は当然」っていう考え。
まー、平たく言えば、「そんな破廉恥なカッコして、人気のないトコ歩いてるほうが悪い」ってことだ。

それに対して、ベイケネや鈴木・落合は「女には自由に外を歩き回る権利はないのか」「性欲のせいにしやがって。結局は責任放棄じゃねーか」と主張するわけだ。

ところで。
私の手元に、1枚の切抜きがある。

2009年9月1日の、朝日新聞の記事なんだけど、「性犯罪を裁く人へ−被害者らの思い」と題された、裁判員裁判の記事。

↓抜粋。
女性は大学時代、3人組の男に車に連れ込まれて被害にあった。警察で受けた事情聴取で「生きて帰りたかったので抵抗をあきらめた」と説明すると、抵抗し続けなかったことを厳しく問われた。

実際、私の夫も、私自身も、「破廉恥なカッコしてるほうが悪いです」と思ってる。
でもよく考えたら、やっぱり変だよね。
服装が持つ意味合いとか、ルーツ的なものとか、現代においてはどれほどの価値があるんだろうか。女(言い換えるなら、レイプ被害に合いやすい、社会的弱者)は、自分の着たい服を着ちゃいけないし、歩きたい道も歩いちゃいけないってことになる。
現状、どの道ソンナモンだから、最低限の自衛が必要なのは分かってるけど。そもそも、これって「性欲は抑えがたい」っていう、ともすれば甘えとも取れる発想から来てるわけで。

被害者の外見を、勝手に言語化したのは加害者だし。
他にも、「女は犯されたがってる」みたいな幻想もあるらしい。

もっと色々と背景があるのだけれど、インタビューを受けた精神科医によると、「レイピスト(加害者)はアニマを破壊してる可能性がある」みたいなことも言ってた。
アニマを破壊するってことは、自己の女性性の否定。(やさしさとか、弱さとか、女性が受け持つ属性を破壊するってことらしい)
自分の中の女々しさを全否定するために、自己の「男らしさ」を全開にしたくなる。そうなったとき、男の武器として男根が、打ち負かすアニマとして被害者が選ばれる。その結果がレイプ。

(続く。)


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タグ: 過去記事 考察

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