My dearest sister


 姉に向かって『死んでしまえ』と思ってしまったことが一度もないとは言えない。
 自分と違って健康に生まれ、健やかに育った姉を見て、腹の中で僕の分の養分を根こそぎ奪って生まれてきたのだと思った。

 僕が姉上と呼ぶと、あの人は少し寂しそうな顔をした。昔はお姉ちゃんなんて呼んでいたっけ。もしかしたら『ねえね』だったかもしれない。僕にだって天使のように純粋で無垢な時期があった。

 けれど、幼い頃から天祥院だった僕は、その呼び方を直された。お父さんでもパパでもなく、父上。お母さんでもママでもなく、母上。だからそれと同じように、あの人のことも呼ばなくてはならなかった。

 僕が高熱を出して寝込んだときも、発作で倒れたときも、入院したときも。あの人は『ごめんね、ごめんね』と涙を流していた。自分だけ健康なことに罪悪感を持っていたらしい。

 敬人の家に遊びに行ったとき、密かにあの人が着いてきた。陰に隠れていたあの人を見つけた敬人は目を剥いて、僕はカッとしてあの人に怒鳴った。僕の後を勝手に着けてきて、僕から養分だけでなく友達まで奪う気なのではないかと焦った。怒鳴った後、咳き込んだ。罰が当たったと思った。寺で自分の欲望のままに、負の感情のない真っ新な、菩薩のような人に酷い言葉を投げたから、僕に跳ね返って来たんだ。
 咳き込んだ僕に、あの人は近くにいた敬人よりも早く駆け寄って来た。僕は『お前じゃない』と思った。姉上ではなく敬人に、傍に来て背中を撫でて欲しかった。
 あの人は僕の気持ちなんて知らないで、敬人と打ち解けた。

「ケイトちゃんって、素敵なお名前ね。海の向こうの人の名前みたいだわ」

 敬人の名前をそう言って褒めた。敬人は意味がわからない、と言いたげな顔をしていたけれど。ケイト・ブ*ンシェットとか、ケイト・ウィ*スレットとか、あの人は洋画が好きだったから、その時期に見た洋画の女優の名前と敬人の名前がリンクしたんだろう。

 恨んでいたと思う。能天気で、いつもにへらと笑って病室にやってくるんだ、あの人は。僕は男に生まれ、当主になることを余儀なくされた。あの人が自分よりも恵まれているようにしか見えなかった。蝶よ花よと育てられたから、あの人はいつも笑いかける。周りが全員味方だと思っているんだ。自分は守られて当然だと。
 この世が悪意で満ち溢れていることを、あの人に突きつけてやりたかった。

 ついこの間、僕は憧れていたアイドルを踏み台にした。その結果が、傑作。友達だと思ってくれていた子を突き放した、仲間だと思った子は自業自得で離れて行った、友達になれそうだった子を利用した。多くの人の心に残りたくて、多くの人の心を傷つけた。その報い。

 誰か僕の物語を喜劇に仕立て上げてくれないだろうか。いっそのこと、そうなれば、僕もカラカラと笑えるかもしれない。他人事のように。

 病室にやってきたあの人は、不器用に林檎を剥いた。「兎の形にしたのよ。ケイトちゃんに教えてもらったの」と言って、歪で小さな林檎を紙皿に並べて渡してきた。

 僕はそれを床に捨ててやった。僕の手は、バスケットに入っていた質の良い紙皿を確実に掴んで、意図的に叩きつけていた。あの人は固まって、床に転がる兎を震える丸い目で見下ろした。

 そのとき、僕は「姉上を悲しませた」と思った。あの人はいつも笑ってばっかりだったから、その表情に苛立たされてきたから、違う顔を見られたのは収穫だった。はずだった。それなのに、思った以上にその顔は僕の心を抉り取った。バースデーケーキに均等に飾り付けられた綺麗な丸い形のメロンのように、僕の心臓がくり抜かれた。あの人はメロンアレルギーだったから、一緒には食べられなかったのだった。

 あの人は少しの沈黙の後、すぐに笑みを貼り付けて「御免なさいね、無理させちゃったわ。お姉ちゃんが食べさせても良いかしら?」と謝ってきた。
 また、カッと熱くなった。僕が、紙皿も受け取れないくらいに非力だと言いたいのか。そんなわけがないだろう。僕はあの人がもう病室に来ないかもしれない、来なくても良い、そう思って捨ててやったというのに。

「もう無いでしょう」
「あら。また切るから大丈夫よ」
「結構です。姉上の綺麗な手に傷がつきますよ」
「もう、英智ちゃん。二人のときは良いじゃない、敬語なんて」
「……言い方を変えればいいですか。その手付きじゃあ怪我をするって言いたいんです」
「ああ……私も花嫁修業しないとね。家庭科の授業中、玉葱を切ったら涙が止まらなくなっちゃったの。結局、お友達が代わりに切ってくれてね。情けないったらないわ」

 冷たく返す僕を無視して、姉上はまた林檎を切り始めた。小さな手では掴み切れない程の大ぶりな林檎だ。覚束ない手付きで、皮ごと果肉をどんどん切り落としていく。シェフや主婦が見たら『勿体ない』と言って姉の手から果物ナイフを取り上げただろう。

 ボト、ボト、と膝に置いた紙皿に皮が落ちていく。点滴の雫みたいだった。僕の命のタイムリミットを刻んでいるようで、嫌いな光景だった。窓を見ると、陽が随分傾いているように見えた。

「はい、お待たせ」

 差し出された紙皿をもう一度跳ね返そうと思う程、僕も落ちぶれてはいなかった。可哀想、と思う気持ちも、善意も、良心の呵責も、僕にはまだ残っていた。意外だ。あんなことをしたのに。僕はこの人を、姉上を、身内で、心を許せる存在だとでも思えているのだろうか。

 受け取ってシャク、と一口。僕に食べさせるものは全て天祥院に相応しいものだ。誰かが用意して姉に渡した果実は瑞々しく、上品な甘みを持っていた。安いスーパーで買った林檎を買って食べてみれば、僕の舌はどういう反応をするだろう。

「お友達とはどう?」
「友達は居ません」
「嘘。敬人ちゃんは?」
「……敬人は、カウントしてません」
「まあ。数えてあげないと可哀想よ」
「一緒に居るのが当たり前なんです」
「そう、ふふ」
「……何か、可笑しいですか」
「いいえ? 何も可笑しいことなんてないわ。仲良しさんだもの、二人は。私の入る隙なんてないくらい。敬人ちゃんも英智ちゃんも男の子だものね。私も恐竜さんとか、お車とか好きなら良かった。難しいんだもの」

 舞台上で倒れた僕に何があったのかも知らずに、姉は僕に話しかける。
 この人は、僕のことを、ずっと昔の英智ちゃんだと思っている。貴女の可愛い英智ちゃんは、此処には居ない。天使の英智ちゃんは居ない。

「あ、そうだ。あのね、この間……英智ちゃんがまだ、目を覚ましていないときにね、素敵な人とお話したのよ」
「そうですか」
「お名前は、何て仰ったかしら。髪の毛の長い……元気なお喋りをする方だったわ。劇場に居るわけでもないのに、ミュージカルを観てるみたいで。可笑しいわよね。ふふ、動物の物真似もしてくださったのよ」
「……え、日々樹君っ?」
「そう! そうよ、ヒビキさんって仰ってたわ。やっぱり、英智ちゃんのお友達だったのね」
「友達、なんかじゃあない。僕は、彼に……」

 とんでもないことをした。尊敬するアイドルの彼を悪役にでっち上げて、舞台上でとどめを刺したんだ。彼の友人も、彼自身も。

「お話って……此処で?」
「ええ。お部屋を少し出たところでお茶をしたわ」
「……何か、言ってた?」
「え? そうね……」

 彼との会話を思い出そうとしている姉を、僕は固唾を飲んで見守った。こんなに彼女を見たのは久しぶりかもしれない。いつからか、目を合わせないようにしていた。

「褒めていたわ、英智ちゃんのこと」
「……え? ど、うして?」
「どうしてって。英智ちゃんが素晴らしいことをしたからでしょう。輝かしいアイドルだって仰ってたわ、ヒビキさん」

 嘘だ。そんなことを、彼が言うはずがない。
 だって僕は、

「……英智ちゃん、あまり学校でのこと話してくれないでしょう? 敬人ちゃんがお見舞いに来てるときはお話してるみたいだったけど、楽しそう、では、なかったから。敬人ちゃんも……なんだか、焦っているみたいだったわ」

 当たり前だ。この温室育ちに話すことがあるものか。貴女は何も知らないところで、僕に干渉せず生きていれば良い。僕がいつ死ぬかもわからない瀬戸際で生きている中、貴女は精々、日々を無駄に過ごせば良い。貴女は、知らなくて良いことが沢山ある。

「……日々樹君から、聞いたんでしょう」
「何を?」
「僕が、何をしてきたのかを」

 この人と話したなら、彼はわかったはずだ。僕が姉に何も話していないことを。事実を突きつけて、『これがお前の弟だ』と。姉を傷つけて、僕に対して失望させて、復讐できる。彼にはその権利がある。
 姉は目を伏せて笑った。菩薩の微笑みのようだった。

「いいえ。何も」
「……え」
「教えてくれなかったわ。『私の口から話すことではないでしょう』って。『私の視点で伝えることはできるけれど、貴女は弟さんの視点から聞いてあげてください』って。でも、英智ちゃんが話したくなったときで良いのよ。お父様にもお母様にも、内緒にして良いのよ。英智ちゃんが話しても良いかな、って思う人に、話してあげて」
「……敬人じゃなくて、良いんだ」

 幼馴染の名前を出さず、『自分に話せ』とも言わないで『話しても良いかなって思う人』と濁した姉に問いかけてみる。すると姉は少し首を傾げて、窺うように此方を見つめてきた。

「敬人ちゃんには話していないの?」
「話せなかった。失望させると思って」
「敬人ちゃんだから、打ち明けられなかったのね」
「……そうだね、近すぎて」
「私も、お父様とお母様にお話し出来ていないことがあるわ」
「……へぇ。意外だな」
「そう?」
「姉上は隠し事なんて出来ないでしょう」
「そんなことはないわよ」
「じゃあ、七歳のときにお稽古をさぼったことは?」
「……え、え、どうして知っているの? あ、あれ、お母様にしかばれなかったのに!」
「挙動不審でした。僕の担当が話しかけたとき、『今日はお休みなの〜』なんて誤魔化していたけど」
「や、やだわ……恥ずかしい」
「あの後、姉上の執事に確認を取って、連れ戻されたんですよね」
「ええ……お母様がいらっしゃって、目をこーんなに吊り上げてね? お父様には言わないでって言ったから、お𠮟りを受けることはなかったけど……」
「まあ、父上の耳にも入っていたでしょうね」
「ええっ?!」
「だって翌週、授業時間が増えていたでしょう。あれは罰ですよ」

 今では大学に通う立派なレディになっているけれど、姉上は無邪気な少女だった。姉上の失敗談を聞いていると苛つくと同時に滑稽だった。嘲笑っていたはずなのに、何故だろう。今は何処か微笑ましいように感じる。胸の内が穏やかだった。

 先程の姉の言葉を思い出す。『花嫁修業』と言った。天祥院にとって利益になる家の子息と婚約をすることになる。逆に今まで許嫁が居なかったことが不思議なくらいだ。そろそろ、そういう話が出てきても可笑しくはない。

 僕は皿の上の二個目の不格好な林檎を取って、よくよく形を眺めてから口に入れた。

「……婚約の話でも上がりましたか」
「え、どうして?」
「いえ、何となく」
「うーん、そういうお話は、お父様からもお母様からも伺っていないわ。まだ早いってことかしらね。私よりも英智ちゃんの方が優先されるんじゃあないかしら。素敵な女の子だと良いわね」
「……」

 咀嚼をしている振りをして、返事はしなかった。

 紙皿の上に並べられていた林檎は五つ。僕はそれらを全て食べ切ることが出来そうになかったから、二切れを姉上に渡した。姉上は「自分で作ったものって、どうして美味しいのかしらね」と頬張っていた。林檎の質が良いのだろう、とは言わないでおいた。

 病室にゴミ箱くらい用意されているのに、「英智ちゃんに悪いから」と言って姉上は持参したビニール袋に紙皿と果肉付きの皮──寧ろ皮付きの果肉だ──を入れて縛り、バスケットの中に仕舞った。

「じゃあ、もう行くわね」
「はい」

 いつもは見送りなんてしないし、会話も長く続かないけれど。長く生死を彷徨っていたからだろうか。全く記憶には残っていないけれど、夢の中で仏様にでも会ったのだろうか。バスケットを持って病室を出て行こうとする姉上の背中に、何か言わなくてはいけない気がした。

 可愛げのない弟になってしまった僕に、姉を喜ばせるような気の利いたことなんて。

「姉さん」
「…………え? 私?」
「はは。貴女以外に僕の姉がいる?」
「い、いいえ。いないわ、たぶん」
「たぶん?」
「……ほ、ほら、お父様にだって、その、側室とか」
「側室。成る程、愛人か」
「愛人でも浮気相手でも何でも!」
「大きな声を出さないで。外で聞いてるヤツがいる」
「あ、ごめん……」

 ハッとして口を隠した姉に笑みが零れた。僕は逸れてしまった話の軌道修正をすることにした。

「気を付けて」
「……あ、うん」
「また来てよ、何も無くて退屈なんだ。姉さん、チェスは出来たよね?」
「え、ええ、一応……でも英智ちゃん、ボードゲーム強いじゃない」
「ああ、昔いっしょにやったっけ」
「私、いつも負けてばかりだったわ」
「手加減してくれてたんじゃあなかったんだ」
「手加減なんて。そんな」
「ずっと負けてるから、てっきりそうなんだと思ってた」
「もう、酷いわ」
「拗ねないでよ、小さい子どもじゃあないんだから」

 唇を尖らせる姉の姿は、小さいときと変わらない。姉は手を擦り合わせて、バスケットに指を絡ませて揉んでいる。落ち着かない様子だった。

「どうしたの?」
「なんだか、むずむずするわ。英智ちゃんが敬語じゃないなんて」
「戻した方が良いのかな」
「いいえ! どうかそのまま話して頂戴な」
「わかったよ」
「……でもね?」
「うん? なあに?」
「…………お姉ちゃん、の方が可愛いと思うの」

 人が折角呼んであげたというのに、この人は。

「姉さんじゃあ不満なんだ」

 意地の悪いことを言うと、姉は「そういうんじゃあ、ないんだけどね……」とぽそぽそ話す。僕は耳が良いから全て聞こえているけれど、聞こえていない振りをした。

「なら姉上に戻そうか。数十分前のように仲の悪い姉弟みたいな会話をご所望かな?」
「あ、あー、違うの! 違うのよ、姉さんで、姉さんで良いわ……! …………な、仲が悪いだなんて、そんな風に思ってたの?」
「……良いとは言えなかったと、僕は思ってるよ」
「…………そう」

 正直に話すと、姉が目に見えてシュンと縮こまるのがわかった。肩をがっくりと落として項垂れているみたいだ。僕は唾を飲み込んでから口を開く。

「でも今後は僕も努力する」
「え?」
「姉さんにつっけんどんな態度を取らない。敬語も使わないし、用意された林檎を捨てもしない」
「……あ、あれ態とだったのっ?」
「態とじゃないと思ったの?」

 姉は餌に集る池の鯉のように口をパクパクさせて、先程の僕の忠告も忘れて大声を出した。令嬢に相応しくない姿だ、見ていられない。このままでは他所の家に出せないじゃあないか。一生、天祥院にいるしかないじゃあないか、姉さん。

「た、食べ物を粗末にしちゃあ、メッ! じゃない!」
「だから、悪かったって」
「ちゃんと謝って貰ってないもの!」
「はいはい、御免なさい」
「心が籠ってないわ」
「……御免なさい」
「……敬人ちゃんにも怒って貰おうかしら」
「なんで敬人が出てくるんだよ」
「だって私より敬人ちゃんの方が、英智ちゃんもしっかり聞いてくれるんじゃあないかしら。私じゃあ英智ちゃんに……えっと、なんだか、舐められているような……?」
「驚いたな。自覚があったんだね」
「……やっぱり敬人ちゃんを呼ぶわ!」
「待って。わかったよ、ごめん。ごめんってば」