Fall For The Man


 簡単に体を晒して男の欲望を受け入れた女の話を聞いた。

 本人から相談に乗って欲しいと言われて聞いてやったけど、相手の男から大事にされていないと感じる・「好き」も「愛してる」も言ってくれない・私の体だけが目当てなのではないか、と被害者面して話す相手に同情するどころか、馬鹿な女だと思った。出会ってすぐそういう関係になれば、もうその先を求めることはできない。都合よく呼び出され、都合よく消費されるだけになるに決まっている。

 涙ぐんで語るから、その場ではそれとなく合わせておいた。夜の街に入ったばかりの女だ、知らないんだろう、常識を。酒に逃げ溺れたその子を介抱していると、カウンターの奥にいるバーテンから薄暗いサングラス越しの視線を貰った。「代わろうか」と送られているのが分かり、「要らないよ」と手を振った。

 馬鹿な女を抱えて地上に上がり、運よく通りかかったタクシーを捕まえた。やっとのことで女を乗せた後になって、こいつの住所なんて知らないことを思い出す。勝手に鞄を漁って財布を出し、身分証に書かれた住所を読み上げて、そこまで向かうよう運転手に投げてバーへと潜った。乗り掛かった舟なんて知るか。気持ちよく飲んでいるところに寄ってきて自分語りを始めたのはあの女だ。知り合いでも何でもない。聞いてやって損した。時間の無駄とはこういうことを言う。休日を何もせずに無意味に過ごしたと後悔する方がまだマシ。

「長かったですね」
「校長先生の話くらいにね」
「面白い例えだ」

 さっきまで座っていた席に戻り、グラスを下げてくれていたバーテンに次の注文をする。馬鹿女のお悩み相談に聞き耳を立て、そのくだらなさに気づき、そして対応している私が早々に飽きていることを察していたはずの男はくつり、と笑って手際よく用意したカクテルを出してくる。グラスの淵に添えられたレモンを何となく突いてみると、水滴が指についた。カウンターに線を引いて拭った。

「ねぇ、ギィさん。何か面白い話してよ」
「唐突ですねぇ」
「口直ししたいの」

 折角のくつろぎの時間を邪魔された。この苛立ちを鎮めて欲しい。

「そちらが口直しでは?」

 意地の悪い男はさっき自分が出したグラスを示す。

「言い直さないと分からない? ならそうしてあげる。『耳直し』してって言ってるの」

 ここまで言わせるな、と少しばかり睨みを利かせると、彼は肩を竦めた。骨張った指をタオルで拭い、聞き分けの悪い子どもを嗜めるように「しぃ」と息を吐いた。

「お忘れですか、マドモアゼル。私は情報屋。有意義な話を聞きたいのならば、それ相応の対価をいただかないと」
「私は『パソコンに向かいたい』だなんて言ってないわよ?」
「ふむ。手厳しい」

 彼から情報を買ったことはないけれど、買っている連中とのやり取りを盗み見たことはある。見えるところでやっているのが悪いのだ。情報を買った奴らに彼がいつも同じ説明をしているのも、自然と耳に入ってしまうのだから私に非はない。寧ろ見て欲しくて、聞いて欲しくて態とやっているようでもある。

 どうやら本当に金を貰わないと話すつもりがないらしい。酒を頼んでいるのだから話くらい付き合え、というのは、男がホストでもなければホステスでもないのだから通らない要望なのだろう。諦めてカクテルを一口。

 すると後ろから扉の開く音がする。時計を見ると閉店間近だった。てっきり今日の客は私が最後だと思っていたのに、此処にはまだ人がやってくるのか。

 振り返ると、心臓が盗られた。私の内側から何一つ音がしなくなった。呼吸も止まっていたと思う。目の前の紅に、瞳だけでなく、心臓だけでなく、心も体も奪われた。
 綺麗な男。美しい切れ長の双眼。

「──おや?」

 その男は黒いステッキを回してから先を地面につけた。

「珍しいね、君がこんな時間まで客を残しているなんて。誰も居ないと思ったのだけれど」
「いらっしゃいませ。こちらの方は少々、厄介なお客様に絡まれておりまして。お気を悪くされたのではないかと思い、おもてなしをしていたところです」

 今までの態度の何処に「もてなし」の要素があったのか。きっとこの男は今飲んでいる一杯の金すら取るだろう。バーテンに言いたげな視線を向けていると、横で物音がする。目を移すと美しい男がすぐ傍に来ていて、私は仰け反り落ちそうになった。

「では、私もそれに付き合おうかな。レディには常に心穏やかであって欲しいからね」
「それは良かった。こちらのお嬢さんは『面白い話』をお求めだそうです」

 バーテンは自分の代わりに紅の似合う男に話をさせるつもりらしい。話の中心に居るようで、何処か二人の間に漂う空気に圧倒されてしまい、表情が強張っているのが自分でも分かった。男は肘をついて私の顔を覗き込むようにしてくるのだから、やめて欲しいものだ。

「面白い話。それは、どういうジャンルの?」
「……特には」

 変に緊張しているのがばれないよう、夜に馴れてない女だなんて思われないよう、精一杯の含みを持たせて答えた。綺麗な男はス、と目を細める。見透かされているみたいで、首の裏に汗が噴き出た気がした。

「こだわりがないのなら、とっておきの話をしてあげようかな」
「まあ。どんな?」
「馬鹿な男の話だよ。こういうのは好き?」
「お馬鹿さんは好きよ。可愛いもの」
「そうかい」

 男は真っ赤なジャケットを脱いで横の席に掛けた。ジャケットと同じ真赤のベストに、黒いブラウス。女性的な衣服なのに男性の厚みがあって、奪われたはずの心臓が縮んだ。

「むかぁし。と言っても、そう遠くない昔」

 孫に童話を聞かせるような口調で話し始める。

「あるところに、馬鹿な男が二人いました。一人はそこまで頭は悪くなく、もう一人は威勢だけはありましたが、他には何もありませんでした。あるとき、二人はマフィアを名乗る男に金儲けの話を持ち掛けられ、それに乗っかることにしました。ところが男たちは愚かだったので、マフィアに喧嘩を売ってしまったのです。怒りを買った二人はマフィアによって陥れられ、威勢だけの男はこの世から消え、そこまで頭の悪くないはずだった男は冤罪で捕まってしまいましたとさ。めでたしめでたし」
「……」

 当然「めでたし」ではない。綺麗な男はまた私の顔を覗き込んで来た。

「どうかな。面白かった?」

 どう反応するのが正解だろう。苦笑してみせるのも何だか違う気がした。

「冤罪の男は、今も獄中?」
「さぁ。そうじゃないかな」
「そう。お気の毒ね」

 詰まらない女だと思われたくなかったけど、私にできる返しはこれくらいだった。カクテルに口をつけてチラ、と彼を窺うと、目が合った男はふっと微笑んでみせる。すぐに逸らした。

 バーテンと彼の雰囲気から、私は早く退散するべきなのだと気づいていた。彼は恐らく情報を買いに来た男だ、私がいると本題に入れないのだろう。無言の圧が掛けられているような気がして居心地が悪くなるけど、逃げたくもなるけれど、どうしてもこの紅の似合う男に自分の爪痕を残してやりたい気分になる。心にも、体にも。

「お名前は?」

 せめて名前を聞きたいと思った。きっと裏社会の人間だから、本名は教えて貰ないだろうけど。呼び名くらいは。

「ケンジ」

 どんな字だろう。漢字を想像していると「お嬢さんは?」と問われる。こういう男には偽名を教えた方が良いけど、するりと下の名前を言っていた。どこにでもある名前だから、探せば同姓同名くらいいるだろうし、まあ良いだろう。この人には、自分の名前を呼んでもらいたい。そんな気がする。

 期待の籠った目で見つめていたのだろうか。ケンジさんが口角を上げて、グラスを持つ私の手に指を滑らせてきた。こんなに高揚したことは人生で一度もない。

「綺麗な爪をしているね」
「そう、かしら」
「ああ。とても」

 肝心の爪に触れることはせず、彼の指は私の人差し指と中指を行き来して、関節や血管まで撫でていく。その動きの艶めかしさと言ったら。

「……貴方も」
「ん?」
「貴方も、綺麗だわ」
「ふふ。それは、手が?」

 全部よ、言わせないで。
 心の中でそう言って、わざとらしい上目遣いで恥じらって彼の手から逃げると、なんと彼が追いかけてきてくれた。手首を止められる。ああ、脈の速さがばれてしまう。

「今日は情報は良いよ」
「左様で」

 ケンジさんはバーテンにそう言う。一瞬なんのことか分からなくて、自分に向けられた言葉かと思ってしまった。唖然としているとケンジさんが私の手首を掴んだまま席を降りた。私も引っ張られて地面に足をつけることになる。

「おいで。行こう」

 さっきの子、馬鹿な女なんて言ってごめん。私も大概だ。
 それにたぶん、私の方が馬鹿だと思う。