春の妖精


「あの、すみません」
「はい?」
「えっと、僕、はじめて来たんですけど」

 黒髪の青年が遠慮がちに、女性に話しかけた。
 その顔は何処か情けない。眉を下げて、背骨が少し曲がっている。肩が詰まっているかのようだ。その表情に見合わず、彼は身長が少し高め。雰囲気だけなら迷子の少年だ。

「花屋さんって、どう買えば良いんですかね……?」

 彼の背中にあるのは楽器か、竹刀でも入っているのだろうか。青年はぎゅっと持ち手を握っていた。

「何か、お求めのものは御座いますか?」
「おもとめ」
「大切な人に花束とか。アレンジメントもありますよ」
「あれんじめんと……」

 彼は店員の言葉を復唱するばかり。店員の女性は困った様子で苦笑いを浮かべた。

「好きな色はありますか?」
「えっと……白、とか」
「じゃあ、それをベースに考えていきましょうか」

 店員の女性は微笑んで青年を誘導した。
 奥にある花を取るために移動する最中に、彼女は予算を尋ねた。彼は「あ、特に気にしないでください」と言う。女性は訝し気な表情になる。彼の見た目は、甘く見積もっても大学生だ。余程バイトをして稼ぎがあるのか、それとも金持ちの子どもなのか。様々な憶測をした彼女だったが、詮索するものでもないと思って振り払い、青年に尋ねる。

「大きめのお花と小さめのお花、どちらがお好きですか?」
「……小さめ、かなぁ」

 予想どおりの返答に彼女は微笑んで「畏まりました」と返す。
 店内の花を確認して、目当ての花に手を伸ばした。

「プシュキニアは如何でしょう」
「ぷしゅき……? はじめて聞きました」
「プスキニア、プシキニアとも言いますが、そうですね。あまり聞かない花かと」

 小ぶりな花が集まって咲いている花だった。青年はじっとプシュキニアと呼ばれた花を見つめて、それからまた遠慮がちに、女性の顔を覗き込む。

「苗字さんはこの花、お好きなんですか?」
「え?」

 彼女は目を丸くする。名乗っていないにも関わらず名前を呼ばれたからだ。
 青年は「名札が見えたんで……」と頭を掻きながら言った。彼女は「ああ」と納得する。彼女は確かに左胸、エプロンに名札をつけていた。白いシンプルなプレートに、ローマ字で読み方が書いてある。

「ええ。私もどちらかと言うと、華やかなものより健気なものの方が」
「……すみません、あの」

 青年は小さく申し出る。

「やっぱり、苗字さんの好きな花で、作ってもらって良いですか」
「……ええ、問題ありませんが、えっと、白ベースで?」
「や、あの。ほんとに、お任せで。何でも良いんです。僕、あの、花というより、その」

 あなたと、話してみたくて。
 青年──乙骨憂太は囁くような声で言った。どんどん、情けなく声がしぼんでいく。
 耳が真っ赤になっていた。

「あ……」

 彼女はそんな彼を見て何も察せない女性ではなかった。
 彼に釣られて頬を染める。仕事中だ、とぺちぺち頬を叩いて「では、ご用意して参りますね」と切り替える。憂太は小さく「はい」と言った。消え入るような声だった。

 名前が動き始めると、憂太はその後ろを着いて行く。戸惑った名前だったが、ひょこひょことただ自分の後をつけてくる青年が雛鳥のようで、愛らしく、咎める気にならなかった。視線をひしひしと感じ、彼女の背筋はピンと伸びた。

 名前は彼の要望どおり、自分の好きな花を探す。店内の何処に何の花があるのかをある程度把握してはいたが、手元にあるプシュキニアと相性が良いか、どのようなデザインにするか次第で組み合わせは無限大だ。店内を見渡して、手に取る前に頭の中でイメージをしてからチョイスをしていった。店内を歩き回る名前を、憂太は無言で追いかけていく。

「此方で、宜しいでしょうか?」
「──わぁ」

 名前が出来上がった花束を憂太に見せると、憂太は目を丸くして、それからキラキラした眼差しでじぃっと花々を見つめた。彼の反応に、名前は照れ臭いような、くすぐったい気持ちになる。目に見えて喜ばれている、感激されているとわかったからだった。

「すごい、ですね。こういうのってやっぱり、沢山練習してるんですか?」

 憂太は少しでも彼女のことを知ろうと尋ねる。名前ははにかんで、花束を持っていない方の手で前髪を弄った。そのままプシュキニアの花びらを優しく撫でて、過去を思い出しながら言う。

「最初は全然でしたけど、昔、少しだけお花の教室に通ったことがあって」
「お花……えっと、華道ですか?」
「はい。生け花とアレンジメントは違うものなんですけど」
「違うんだ……」

 憂太は呟くように言った。それが独り言のように感じた名前は薄く微笑んで「では、整えて参りますね」と言って作業台に向かうことにした。その後ろを、憂太は再び追いかけた。

「生け花は引き算、アレンジメントは足し算と言われています」
「算数、なんですか」

 ぱちん、ぱちんと、名前は茎を鋏で切りながら憂太に説明をした。使う花や活け方が異なることを名前が告げると、憂太は感心したように相槌を打った。

「生け花は床の間……よく、掛け軸とか壺とかを置く、あそこに飾って鑑賞するんです。ですから、あまり後ろを見られることがないので、正面から見て綺麗に見えるように生けるんですよ」
「床の間かぁ……なんだか、縁の無いところの話みたいです」

 憂太の台詞に、名前も「確かに」と頷いた。今時、床の間がある家は少ない。実際彼女も、華道を習っているときに通っていた教室でしか、床の間を経験したことはなかったのだ。
 憂太は小さく整えられていく花を見つめながら質問をする。

「アレンジメントは、何処に飾ったら良いんでしょう……?」
「そうですね……贈り物ではないなら、食卓とか、でしょうか」
「食卓……」

 憂太は寮の自室を思い出した。椅子に座って優雅な朝食をとれるようなテーブルは、憂太の部屋には置かれていない。身長の低い、生徒皆で胡坐をかいて床に座って丁度いい高さになる卓袱台だ。そこに、この小ぶりで控えめなアレンジメントを置くのは、何だか不格好なように思えた。
 憂太の事情を知らない彼女は、それでも憂太の表情が険しくなっていることに気が付いた。

「玄関に飾る人もいらっしゃいますよ」
「……玄関」

 また憂太の表情が曇った。憂太の部屋に玄関というものはない。靴は寮に入る前に脱ぐ。つまり、共同の玄関にこのアレンジメントを置くということになる。もし急に憂太がアレンジメントを共同スペースに飾ったら、パンダと棘が興味を惹かれ、真希にも告げ口をされ、花屋の店員に一目惚れをして花を買ったということまで明らかになってしまう。憂太は、それは気恥ずかしいように感じた。

「まあ、そういうのにお詳しい方が近くにいらっしゃったり、お家にあげたりすることがなければ、好きなところに飾って良いと思いますよ」

 憂太が悩んでいることに気が付いた店員は、前向きになれるよう助言をした。憂太は「それなら」と、自室の勉強机の上にでも置こうと考え、アレンジメントとして整えられた花たちを購入した。

「ありがとうございました」

 紙袋にきっちり入った小ぶりなアレンジメントを確認した憂太は、花屋を後にすることにした。数歩進んだところで振り返ると、名前はまだ外に出て憂太を見送っていた。憂太は唾を飲み、乾いた唇を舐め、一息ついてから言う。

「あの」
「はい?」
「また、来ます」
「……ええ、お待ちしております」
「……あ、僕、乙骨って言います」
「おっこつ……? 珍しいお名前ですね」
「あはは、よく言われます。甲乙の乙に、骨と書いて、乙骨です」

 名前は文字を想像して、「ははぁ、それでオッコツと読むのか」と納得した。

「では、お待ちしておりますね。乙骨さん」
「……はい。もう、明日にでも」
「あ、あした? そんなにお花が必要なら、今お造りしますが……」
「あ、いえ。僕は、その……」
「……ぁ」

 憂太は顔に熱を溜めて、頭を掻いた。
 その姿を見た名前は彼に言われたことを思い出して、また釣られて頬を染めた。
 憂太はちら、と名前を見て、噛みしめるようにきゅっと微笑む。

「……じゃあ、また」
「……はい」


 寮へ戻った憂太は、紙袋から慎重にアレンジメントを取り出してペン入れの隣に置いた。机の上に張り付いてアレンジメントに目線を合わせると小ぶりな白い花を咲かせたプシュキニアがよく見えて、憂太は薄くはにかんだ。