なんとなく夜の街を歩き回っていた。そのときに屋台の暖簾があがったのはただの偶然で、客が出ていくその隙間に見慣れた赤いスカーフを捉えたのもたまたまだった。
足を止めた時点で、俺は彼の世話を焼く気でいたのだろう。
暖簾を押し上げれば「いらっしゃい」と気前の良さそうな男が声をかけてくる。ちら、と視線を潰れているそれに投げると、店主はなにかに納得したように頷いた。
「お迎えが来てよかったよ。兄ちゃんもなにか食べるかい?」
「……持ち帰りでもいいですか?」
「もちろん」
お迎え、なんて言われたことは若干不服であったし、別に空腹なつもりもなかったのだけれど、一食くらいして行くのがマナーかなとチ虎魚焼きを注文した。
店主が魚を焼き始めるのと同時に、突っ伏している男の肩を叩いた。ぴくりと小さく反応して、彼はゆっくりと顔を上げる。
とろりと溶けたような青い瞳で俺を捉えた瞬間、タルタリヤは、まるで幼子のように顔を綻ばせた。
「……シャルル」
たどたどしい声が俺の名を呼んだ。
熱でも出したのかと思わせるようなほど朱を帯びていた頰が、彼がどれほど飲んだのかを物語っている。
大きな組織のお偉いさんがこんなところで前後不覚に陥っていていいんだろうかと内心呆れた。俺のことはわかるようだけれど、こいつ、多分自分じゃあ歩けないだろう。
「……立って」
「ん、……むり。おんぶして」
「…………頭に吐かないなら」
「だいじょうぶ。シャルルにそんなことしないよ」
「……どうだか」
そんな会話を交わして、俺は彼の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。ふらふらと千鳥足の気配がして、背中に体重が乗る。ずしりと重い。
華奢な男とはいえ成人男性、しかも呆れるほどに鍛えているタルタリヤを背負うのだから、俺もそこそこ力があってよかったと心底思う。
「チ虎魚焼き。できあがったぞ」
「ありがとうございます」
店主にモラを渡して使い捨て容器に入れてもらったそれを受け取った。わざわざビニル袋にまで入れてくれるのだから気の利く人だ。
北国銀行に送り届けてやろうかと思ったが、こうもベロンベロンな上司を届けられても部下は困るかもしれないと思い直し、背負ったタルタリヤは自分の宿に連れてきた。
酒は飲むとも飲まるるな、とはどこで聞いた言葉だったか。顔を赤くしてうう、と唸るタルタリヤを見下ろしながら、わけもなく小さく息をつく。
ベッドで眠ればいいのに、そこに投げてやったタルタリヤは何を思ったのか座卓の前に座って本を広げる俺のところまで、壁やら家具にぶつかりながらやってきて、俺の隣にどかりと腰を下ろすと、机に突っ伏したのである。
横になるよりも起坐位の方が楽なのならば好きにすればいい。とは思うが。
「……なんでこっちくんの」
「ん゙ー……」
彼の酒耐性など知らないが、今更こんな失態を見たところで特に驚きはない。
ファデュイの執行官も大変だな。なんて他人事のように思いながら、読みかけの本に栞を挟んで机に置いて、うつ伏せのタルタリヤの背中を軽く摩った。
「大丈夫?」
「……だいじょうぶじゃない」
力のない返答が面白くて笑ってしまった。少なくとも受け答えができるのなら、まだ、マシな方だろう。
タルタリヤは自分の手の甲を枕代わりにして伏せたままだ。おかげで何だか安っぽいバーでつぶれた、面倒臭い酔っ払いみたいになっている。
「水でも飲む?」
「いらない」
もう何もする気がないのか、タルタリヤはそれだけ言ってまた唸る。これはもう気が済むまでこのままだろうなぁと半ば諦めた。
「シャルル」
「なに?」
「……シャルル」
「……」
「ん゙ー……」
なんだこいつ。とは思ったが、特に言わなかった。酔っぱらいの戯言だと思えばいいのだ。
とはいえ急に吐かれでもしたら大惨事になるので、水を取ってきて、バケツかなにか探してくるかと腰を上げた。
「どこいくの」
「水取ってくるだけだけど」
「ここにいてよ」
「……はぁ?」
いや、もうほんとなんなんだこいつ。とは思ったし溜め息も出たけれど、酔っ払い相手に何を言っても無駄かと思い直す。今のタルタリヤは呂律も回ってなくて、態度なんかも彼の小さな弟、テウセルみたいだ。
突っ立ったまま情けない男の姿を見下ろしていると、ふらりと伸びてきた手に、ぐい、っと強い力で服の裾を引かれ、その不意打ちに体勢を崩してしまった。
「っおま……危ないな、なんなの。ほんと……」
倒れ込んでもなんとかタルタリヤの頭を守ったやったのは反射だった。
彼に引っ張られて体勢を崩し、そのままタルタリヤを組み敷く形で倒れた。タルタリヤの後頭部を抱え、反対の腕を思いっきり床で打ったので結構痛い。
何をしているんだこいつは。酔ってても馬鹿力だけは健在か?
「もー……」
なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだと不満に思いながら、庇ったタルタリヤの頭をそっと寝かせた。
タルタリヤは俺の動きをじっと観察するみたいに見つめていて、俺が体を起こそうとすると、寝転んだままガッと、急に首を掴んできた。
「おいっ……ん゙、……!」
流石に声を荒らげるが、言葉が続くことはなかった。
体を軽く起こしたタルタリヤは俺の首を掴んだまま酒臭い顔を近づけた。重なった唇からねじ込まれた舌が口の中を無遠慮に荒らす。それを止めようと自らの舌で押し返すけれど、逆に絡め取られてしまう始末だ。
「……っふ……」
「ん……」
「……っ、やめろ」
「はぁ、……やだ。……ね、シャルル」
「なに……」
「首絞めていい?」
会話ができる程度に顔が離れた。
俺の首を片手で掴んでいる彼は熱っぽい瞳で俺を見上げている。
「……おまえほんとなんなの?」
その質問には答えず、タルタリヤは軽く手に力を込めてきた。少し、呼吸が苦しくなる。
「っ、……ちょっと」
「だめ?」
「……だめ」
自分の口から出たのは、子供を叱るような声音だった。む、とタルタリヤが不満そうに頬を膨らませる。
タルタリヤはもしかして酔うと甘え上戸にでもなるんだろうか。彼は、テウセルの前ではいいお兄ちゃんだった覚えがあるが、上にも兄弟がいるらしいし、こういう顔もあまり、違和感はない。
「なんでだめなの?」
「……殺そうとするな」
「きみは俺に殺されたいんじゃないの」
空いていた手で腹を撫でられて眉間に皺が寄る。
彼は本当に勝手な男だ。勝手に穿った腹の傷をそういうふうに解釈しているなんて、なんという横暴だろう。
ダメだ、と言っているのにこの酔っぱらいはうきうきとした様子で俺の首を締め上げようとしているのだからややこしい。
「タルタリヤ……」
「ん?」
「手、離して」
「やだよ。だって離したら逃げるだろ? ……ねえシャルル、なんでだめなの?」
「……っぐ……」
また少し首が絞まった。本当にこの酔っぱらいは人の話を聞いていない。……いや、俺の言葉なんか彼にとっては重要ではないか。彼は自分のしたいことしかしないのだから、俺が何を言ったって無駄だ。
「ね、シャルル」
「……はあっ、……」
「苦しいね」
タルタリヤは嬉しそうに笑って俺の首を握ったまま起き上がる。と、と背中が床につく。体勢が逆になった。今度は俺が床に寝て、タルタリヤが俺に覆いかぶさっている。
首を絞める手は少しも緩められず、逃げるなとでもいうようにもう一度ぎゅっと力を込めてきた。ぐぅっと詰まった声が喉で鳴る。息ができなくて視界がくらりと揺れる。このまま死んでしまうんじゃないかと思うくらいには、その感覚を鮮明に感じることができた。
首を絞める腕を引っ剥がそうと思ったけれどどうもうまくいかない。タルタリヤの力が強い。酔っぱらいでもW公子Wの名は伊達じゃないんだなとか、そんな間抜けな考えが頭をよぎった。
「……シャルル?」
俺の反応が鈍くなってきたことに気が付いたのか、彼は少し不思議そうに俺を見下ろしてくる。俺はといえばもう抵抗する気も失せて、ただぼんやりと彼の瞳を見つめていただけだった。
「あは」と小さな笑い声を漏らした彼がまた顔を近づけてくる。こつ、と額がくっついて、焦点の合うギリギリの距離まで近づいて来た青い瞳にひとつ瞬きをした。
酒臭い。
「シャルル」
「……っ、ゔ……」
「俺ね」
首の圧迫がなくなった。急に流れ込んだ空気にゲホゲホと咳き込む俺の頰を両手で包んで上を向かせるとタルタリヤは笑う。
「殺したいぐらいきみが好きだよ」
「……」
その笑顔はやっぱり子供みたいで、俺はもう何も言えなくなってしまうのだ。
◇
「あ゙〜〜……頭割れる……」
バカみたいに二日酔いに苦しんでいるタルタリヤを横目に「気が済んだら出ていけよ」と声をかけて、昨日読めなかった本を手に取った。「シャルル」と、か細い声で名前を呼ばれても、俺は本から目を離さない。
「シャルルってば〜……」
「……なに?」
あまりにも情けない声だったから思わず返事をしてしまった。
「水飲みたい」
「自分で取りに行けよ……」
「動けないから言ってるんだけど?」
「……はあ……もう……」
仕方なしに本を閉じた。水差しの水をコップに入れて渡してやると、気だるげに上半身を起こした彼は「ありがと」とだけ言ってそれを受け取った。
「……ねえシャルル」
「ん?」
「昨日何かあった?」
一口水を飲んで、タルタリヤがじいっと俺を眺めてくる。二日酔いのわりにはましな色をした彼の端正な顔を見つめ返し、はあ、と息をつく。
「どこまで覚えてんの」
「……君が屋台に来て俺をおぶったところまで」
「ふーん……」
そのあと俺とここまでやってきてだる絡みをしてきたのは覚えてないということだ。酔っ払いには都合のいい記憶喪失という必殺技があるが、どうやらタルタリヤはそれを使えるたちらしい。
もしかしたら二日酔いのせいかもしれないけれど、どことなく気まずそうなタルタリヤを見つめる。
昨夜は別に変わったことなどなかったけれど、俺といて、覚えていなかったら困る事象とはなんだろうか。と、少しだけ愉快な気持ちになった。そういうものがあるのなら、勝手に悶々としていればいいと、意地の悪い気持ちになったのだ。
「教えてやんない。ばーか」
「……は?」
「忘れるようなことだったんだろ。いいじゃん、別に」
フンと鼻で笑ってやった。少しの間ぱちぱちと瞬きをしていた彼は「ちょっと待って」と手を伸ばしてきたけれどそれを避けて体を翻した。
なんだかいい気分で本の続きを読めそうだった。