※夜鶯の揺籃の閑話
冷たい風が吹く正午。シャルルはイルーガから買ってもらった服をしっかり着こみ、くるりと首に長いマフラーを巻くと、目をらんらんと輝かせながら家の戸を開けた。
待ちきれないとばかりにピンと立つ耳と、落ち着きなく揺れる尻尾が、彼の高揚感を物語っている。
最近使い方を覚えた昇降機でピラミダの麓までおり、坂道を駆け下りて、壊れて放置された月車の中を覗いた。
先客の毛玉が、三つ、四つ。
「こんにちは! 遊びにきたよ!」
シャルルは彼らと目線を合わせるように地面にしゃがみ込んで挨拶を交わす。それはいつもの拙い人間の言葉ではなく、喉の奥で震える柔らかな音色だった。
「また来たのか、でかいの」「今日も寒いね」「声が大きいぞ」
四方から返ってくる声に耳を傾け、シャルルは一つ一つ頷きながら応じる。
「俺も、そこに座っていい?」
「勝手にしろ。でかいの」
一番大きな毛玉がそう言うと、他の子たちも、シャルルの分のスペースを作るように動く。でかいのこと――シャルルは嬉しくなって、開けっ放しの月車の、その輪の中にちょんと座った。
「今日はみんなで、なんの話をしてたの?」
シャルルが尋ねると、皆思い思いに話し始めた。
「東の丘の上の方、陽だまりができた」「あの家の食糧庫の壁に、穴が空いてる。ちょっと体を押し付ければ、中に入れられるぞ」「北の方に大きな犬がいる。鼻が利くやつだ。見つけたら逃げるといい」
シャルルはひとりひとりの顔を見て頷きながら耳を澄ました。一つ一つを真剣に聞き、深い相槌を打つ。
毛玉たちはそんなシャルルの挙動を興味深げに眺めながら、ひげを小さく動かしたり、しっぽを揺らしたりして親愛の情を示した。
「ナシャタウンの魚屋は、あまり鮮度がよくないな。ああ、ところでおまえさんは、何が好きなんだ?」
「俺? イルーガが作ってくれる、ホットミルク」
「ふぅん。でかいのは、ホットミルクよりも『イルーガ』が好きそうだな」
誰かの一言に、シャルルは尻尾をゆったりと大きく揺らした。胸がポッと暖かくなるような気がした。
毛玉たちは誰が言ったかなど関係がないというように笑い合って、「じゃあ明日からは、イルーガが作ったホットミルクを持って来い」と茶化した。シャルルはそれを受け、大きく首肯した。
「うん、持ってくるよ。でもイルーガは、あんまり帰ってこないから。ここに持ってこられなかったら、俺が住んでる、イルーガの家まできてほしいな。そしたらいつか、イルーガが家にいるときがきっとあるから」
「ほう、なるほど。ところでイルーガとはどんな奴だ? でかいのを好かせるんだ、よっぽど魅力的なのだろう」
「イルーガはね、優しくて、強くて、頭がいいんだ! 俺の、……大好きな人」
シャルルの語彙は未熟だが、その表情と身振り手振りは雄弁だった。
毛玉たちは興味津々で、一匹ずつ質問を投げかける。イルーガはいつもどんな服を着るのか、仕事はどうしているのか、魚を取るのは得意なのか。
シャルルは次々と投げかけられる言葉の雨に、しどろもどろになりながら答えた。毛玉たちはその答えの細部まで興味を持って聞いているようで、問いにまごつきながらも懸命に答えるシャルルを微笑ましく眺めていた。
「イルーガは、ライトキーパーをしているんだ」
「へぇ。あのよく、化け物と戦ってる人間か」
「うん。……仕事に行って、ずっと帰ってこなくて……すごくさびしいけど、そんなことを言うとイルーガは、きっと困っちゃうから」
イルーガの前では決して見せない寂しさを、シャルルはこうして友達にだけ見せていた。弱音を吐ける相手を持つことは、シャルルの救いになっていた。
もちろんシャルル自身にはその自覚はない。しかし確かに、この時間があるからこそ彼は耐えられるのだ。
毛玉たちは、お気に入りがぺしょりと耳を伏せ、少ししょんぼりとした雰囲気に変わってしまったのに気がつき、それぞれ自分の頭をシャルルの腕や太腿に擦り付けた。
「もうすぐ会えるさ。それに、寂しかったらここに来るといい。なぁ、みんな」
「うんうん、そうだとも。でかいのは、いい暖房になるからな」
「……ありがとう」
シャルルは、少し潤んだ目元を拭って、尻尾を大きく一振りした。
毛玉たちはシャルルのしっぽの動きを見て、満足気に目を細めた。
それからまたしばらく、シャルルは彼らの話を聞くことに専念した。どれだけ聞き慣れた情報でも、まるで初めて聞いたかのように頷き、時には驚嘆の声を上げてみせる。その純粋な反応が、彼らには心地良かった。
イルーガはピラミダへの帰り道、なにやらみゃあみゃあと猫の鳴き声がすることに気がついて、目をぱちくりとさせた。随分賑やかだなと思いながら声のする方へ向かっていくと、どうやら放置された月車の中で騒いでいるようだった。
近くまで来てみると、それらの猫の中心に、シャルルが膝を抱えこんで座っているのが見えた。
「あれ、シャルルさん――」
「にゃあ。にう〜……なう、にゃーお」
声をかけようとした途端、シャルルが奇妙な声を発した。まるで猫の鳴き声を真似ているような……いや、本当に猫語で喋っているかのような声音だ。思わず息を飲み、イルーガはその場で硬直した。
「に〜……にゃう、にー?」
「なー。ぅに、にゃぁう……」
シャルルの周りには大小さまざまな猫が集まっていて、皆口々に何かを言い合っているようだった。時折シャルルが相槌を打ち、尻尾を揺らしながら熱心に聞き入っている様子は、とても楽しげで、まるで懇親会でも開かれているかのようだった。
(まさか、猫たちと喋ってる……のか?)
イルーガはしばし立ち尽くしていたが、好奇心が理性を上回り、足音を忍ばせてさらに近づいた。
「でかいの。そんなに好きならしっかりマーキングをするんだぞ。おまえが語るに、『イルーガ』はとてもいいやつだ。気をつけておかないと、別の女に取られるぞ=v
「えっ! うう……マーキングって、どうすればいいの……?=v
(シャルルさんのしっぽが忙しなく動いている……これは興奮しているサインでしょうか)
その様子はまるで、居酒屋で旧友と再会したかのような賑わいようだった。猫の群れの中心で、シャルルは尻尾をしなやかにくねらせ、猫たちとうなうなと鳴いている。
「簡単だ。またたびの匂いをつけておけばいい!=v
「……またたびの匂いって、どうやってつけるの? あと、どこにあるの?=v
「ああ、またたびなんてものは近くの雑木林にいくらでも転がってるさ=v
「ふうん……今度イルーガに、またたびを探しに行っていいか聞かないと=v
イルーガは思わず口元を押さえ、くすりと笑った。彼らが何を話しているのかまではわからないが、シャルルがうにゃうにゃと猫の真似事をして、猫相手にあまりにも真剣な顔をしているものだから、妙におかしく感じられたのだ。
(……全く、猫たちに何を吹き込まれてるんだか)
イルーガは苦笑しながら、シャルルのもとに歩み寄った。
シャルルは彼に気づいていないようだったが、周囲の猫たちは鋭敏に反応し、警戒するようにイルーガを見据えていた。
「……おいまさか、『イルーガ』じゃないか?=v
一匹の猫が耳をぴくりと動かして低く鳴いた。するとシャルルもようやく人の気配に気がついて、ぱ、と顔を上げた。
「イルーガ!=v
シャルルは溌剌とその名を呼んだ。――まあイルーガに届いたのは「にゃあ!」という、元気な猫の鳴き声だったが。
猫たちはお互いに顔を見合わせると、鼻をすんすんと鳴らし、各々ゆっくりとシャルルから離れた。
当のシャルルは、しっぽをぶんぶんと大きく振っている。その目はまっすぐにイルーガへ向けられていた。
「今日はここで遊んでいたんですね、シャルルさん。そろそろ日が暮れますから、暗くなる前に帰りましょう」
イルーガがそう言うと、シャルルは嬉しそうに二度頷いた。尻尾は大きく左右に揺れている。そしてそのまま立ち上がり、猫たちの方に向き直った。
「みんな、またね!=v
猫たちに向かって、シャルルは明るい声で何度もにゃあにゃあと言っている。別れの挨拶だと察したイルーガは、その背中を見守りながら静かに待った。
「……その『にゃあにゃあ』って言うのは、猫の言葉ですか?」
ようやく猫たちとの挨拶を終えたシャルルに、イルーガは優しく問いかける。
シャルルは不意を突かれたように瞬きをして、首を傾げた。
「にゃあにゃあ? そんなことは、言ってないよ」
「?? では、さっきの挨拶は?」
「またね≠フこと?」
「……」
にゃあ、にしか聞こえない。どう考えても猫の鳴き声だ。シャルルは「にゃあにゃあなんていう発音ではない」と主張するが、イルーガに聞こえた音は「にゃあのこと?」である。
しかしこれ以上議論したって埒が明かないので、イルーガはそれ以上追及しないことにした。代わりに、別の疑問を口にする。
「シャルルさんは、いろんな動物と話せるんですか?」
「? ううん。あの子たちとは話せるけど、鳥や犬は、何を言ってるのかわかんないよ」
「……なるほど。猫限定なんですね」
「うん。小さい頃からそうなんだ。なんでだろうね?」
「……」
なんでだろうね、なんて。その頭の三角と、腰の辺りのふわふわが全てだと思うのだが。しかしイルーガはそれを口に出さず、ただ曖昧に笑った。
イルーガの家に戻った二人は、リビングのソファに並んで腰掛けた。
外はすでに薄暗くなっており、窓から差し込む光も、灯台の灯りの他に、ほのかな青白さを帯びている。
部屋の中には、薪ストーブの小さな燃焼音と、シャルルのしっぽがゆっくりとソファを叩く音だけが響いていた。
「ご友人とは、何を話していたんですか?」
イルーガの問いかけに、シャルルは少し考える素振りを見せた後、微笑んだ。
「イルーガのこと、いっぱい話したよ。みんな、イルーガに興味津々だったみたい」
「僕のことを?」
「うん。いろいろ質問されたよ。どういう服を着てるの? とか、仕事は何してるの? とか、魚釣りが上手なの? とか……」
イルーガは思わず息を呑み、目を丸くして、口元に手を当てて肩を震わせた。こみ上げる笑いを必死に抑えて、静かに口角を吊り上げた。
「……ぷっ……まさか、猫の皆さんからそんなことを聞かれているとは……思わなかったです……」
「なんで笑ってるの……?」
シャルルは小首を傾げて不思議そうな表情を浮かべた。その顔は無邪気で可愛らしいが、イルーガの笑いを余計に煽る。
「いえ、ただ……ふふ、面白いと思ってしまって……すみません」
イルーガは、ひとしきり笑い終えた後、笑みを残したまま柔らかくシャルルの頭を撫でた。
「……少しだけ、嫉妬しました」
「え? ……」
シャルルは眉をひそめて困惑を露わにし、その手で忙しなく耳を触った。
ぴるぴると震える耳と、床を掃くように動き出した尻尾の様子から、明らかな動揺が見て取れる。
イルーガはそんなシャルルに優しい笑みを浮かべ、さらさらとした髪の感触を楽しむように指を通していく。
「だって、ご友人と僕、どっちといるのが好きなんでしょうって思うくらい、楽しそうだったので」
「えっ……っと、あの」
シャルルはますます狼狽え、耳は完全に伏せてしまい、尻尾は忙しなくソファを叩いていた。
それが彼の感情を素直に表しているのだと知っているイルーガは、密やかに笑って、一層甘さを込めた眼差しを送った。
「あ、……お、俺は、きみといる時間が、一番好き……」
「……」
「イルーガが、大好き……」
シャルルの言葉はいつも拙い。それでも精一杯紡いだ、嘘偽りない想いだった。イルーガはそれを汲み取り、口角を緩めて微笑んだ。
「……とても嬉しいです。僕も、君が好きです。シャルルさん」
「ん……へへ……」
照れたように笑うシャルルの表情はまさに幸せいっぱいといった様子だった。
◇
◇
早朝。イルーガはキィ、キィと不規則に硝子が引っかかれるような音で目が覚めた。一拍置いて、にゃあ、と小さく控えめな鳴き声が聞こえる。
「……?」
彼は寝ぼけ眼をこすり、寝台から抜け出した。普段の起床時間よりはまだ早いが、この音の出所は明らかにしないといけない。
窓の向こう側に何者かがいる。足を運んでそ、とカーテンを開けた。
そこには数匹の猫たちがちょこんと佇んでいた。みな同じようにしっぽを立てている。なかでも、一等毛艶が良く身体の大きな猫が、真っ先ににゃあ、と鳴いた。
イルーガは咄嗟に窓の鍵を外した。静かに窓を開けると、猫たちは遠慮なしに部屋に入ってきて、のそのそと部屋を巡回する。
「……あ、」
見覚えのある子達だと気がついたのは、猫が寝室を出てリビングに向かったあたりだった。過去に、シャルルが月車の中で一緒にいた猫たちだ。
一匹は毛皮が薄汚れており、身体の小さな子だった。もう一匹は丸っこい体型で、もう一匹は細長くしなやかな身体をしている。一等身体が大きい猫がゆったりと歩き、ソファの上に畳んで置かれた毛布の前で止まる。
「あの……」
イルーガが恐る恐る声をかけてみるものの、全員こちらを一度見たきりで、すぐに視線を逸らされる。なんとなく所在無くなって視線を泳がせると、身体の大きな猫が、つ、と足元に寄ってきた。
「にゃーぅ」
「……、えっと」
あいにくイルーガでは、猫たちが何を言っているのかわからない。
ただ猫がそうやってひくひくと耳を動かしているのを見ると、不在となったかの子が同じように耳を動かしマグへふうふう息をかけてきた姿を、何となく思い出したのだった。
「猫に牛乳って、あげてもいいんでしたっけ……」
そんなことを呟きながらイルーガは冷蔵庫から瓶を取り出し、その中の乳白色を鍋に移し、火にかけた。
猫たちをちらりと見る。彼らはじっとイルーガを見ている。無垢な瞳に見つめられて、なんだか緊張する。
「……お腹が空いていらっしゃるのであれば、どうぞ」
熱くなりすぎないよう、人肌まで熱したそれを浅い皿に写して床に置く。
彼らは鼻をひくひくさせてから、少しずつ舐めるように食べ始めた。ちいさな子は食欲旺盛なのか、器用に前脚を使って牛乳を掬っている。
(可愛い)
イルーガの頬が緩んだ。やはり動物は癒やされる生き物だと思った。
猫たちが飲み終わるのを静かに見守っていると、「うにゃあ」と一匹が鳴いた。
「……」
イルーガは猫の言葉などわからない。けれどなんとなく、どこにいるの、と。聞かれている気がした。
「……どこに、行ってしまったんでしょうね」
イルーガは小さく呟いた。誰に向かって問うでもなく、静かに。
猫たちはすっかり牛乳を飲み干して口周りをきれいに舐め始め、一人ずつゆっくりと立ち上がった。
「……もし見かけたら、『帰ってきてほしい』と、伝えてくれますか」
猫たちは何も答えない。トコトコと寝室に戻って、来た時とおなじ窓の前に止まる。大人しく順番を待っていた。
窓を開けてやる。最初に飛び出して行ったのは小さな子で、その後を細くしなやかな猫が続く。
「にゃぁう」
最後に残った一匹が強く鳴き、部屋に入ってきた時と同じようにゆったりとした動きで窓の外に消えていく。
全員いなくなってしまえば急に部屋ががらんとしてしまった気がして、イルーガは小さく溜息を吐いた。