夕暮れ時の蝉の鳴き声は、どことない憂いを感じさせるものだ。そもそも日が海に沈んでいく光景が寂しい。じっと見つめていれば、じゅっと音が鳴るとか、幼い頃よく構ってくれた漁夫が言うものだから、自分は精一杯耳を澄まして、その音を聞こうとした。
 聞こえないと文句を言えば、俺には聞こえるぞと彼は言う。たくさんのものを見ていた目を、静かに閉じて。小麦に焼けた肌を、今度は茜色に染めて。
 その姿を真似ればいいのだろうか。そんなことを薄ぼんやりと思った。「ほら」不意を突くように漁夫に声をかけられて、慌てて自分も目を瞑り、耳に手を当てる。
 潮風が頬を撫で、薄く開いた口を刺激する。
 じりじりと海に迫る茜色は、確かにまぶたの裏側で、憎たらしいほど揺らめいていた。
 ――がらがら。
「蚊に刺されるよ」
 真琴はふっと瞼を持ち上げた。その調子のまま、頬杖を崩して視線を遣ると、ずいっと開封していない棒アイスを目前に差し出される。断る理由もなく受け取り、「おかえり」と声をかけると、水希は、おう、と小さく返事をした。
 牛乳たっぷり。アタリが出たらもう一本。そんなキャッチコピーの書かれたそいつは、水希が小学生の頃から好んで食べるものだ。
 変わらないなあと、目を細める。屈んで蚊取り線香に火をつけていた水希も、その作業が終わったらしく、立ち上がって真琴に並んだ。
「溶けてた?」
「ううん、わからない。まだ開けてないから」
「そっか」
 2つ渡されたうちの1つを水希に返して、真琴は初めて封を切った。薄黄色のそいつは、ほんの少しくたびれた様子ではあった。
 真琴が控えめにアイスをかじり、ぼんやりとした目を再び海に向けたのを見て、水希は何を言うわけでもなく、自分もアイスを取り出すと、片手に引っ掛けていたビニル袋にゴミを突っ込んだ。ついでに真琴の分も彼の手から取っておいた。
 蚊取り線香独特のにおいが鼻をつく。
 水希は壁に背を預け、仰ぎ見た。ベランダの入り口でゆらゆらと揺れる風鈴の赤い尻尾は、ほんのり色褪せている。
「日が長くなってきたね」
「ん」
 すでに尾が溶け始めていたそいつにかぶりつく。豪快だねと真琴に笑われた。
 ガラスに描かれた赤や黒の小さな金魚が、ゆらゆら泳ぎ、きらりと太陽に反射する。水希はそれをじっと見つめて、ゆっくりと目を細めた。
「どうだった? 居酒屋」
「夏休みだから。多いよ」
「そっかあ」
 しっとり、額に浮いた汗を真琴は拭う。
「忙しいんだね」
 人混み、とまではいかずとも、人の多いところが苦手な水希に居酒屋なんかでの接客業は無理だろうと、正直真琴は思っていたが、反して水希のバイトは随分と長く続いている。
 この間かの幼馴染と様子を見に行ったのだが、彼は随分と楽しそうにこなしていた。お客さんの注文を取るとき、会話をするとき。笑顔という言葉を知らないのではないかと思ってばかりいたのに、水希はきらきらと目を輝かせていた。もちろん、真琴たちに気づくと、打って変わって、いつもの目に戻ってしまったわけだが。
「真琴は暇だよな」
「その言い方、俺のこと貶してない?」
 真琴が不満を灯して水希を見ると――彼はアイスの棒を咥えたまま、真琴に“それ”を突きつけていた。
 数秒の間、飲み込めず、ぽかんと口を開けてしまっていた。
「……早いよ」
 やっと真琴の口から出たのはあきれ声だ。
 アイスを食べ終わるのも、花火をするのも。自分はまだ半分しか食べていないし、まだ日は落ちていないし。
 真琴からあらかたぬるい視線を受け取った水希は、店頭でよく見る花火セットを下ろし、口に含んだままの棒を軽く上下させる。すぐに飽きたのか、棒はアイスの包装よろしく、ビニル袋に移動された。
「わざわざコンビニで買ったの?」
「うん」
 バケツは、ロウソクは、どこにあっただろうか。蓮と蘭も喜ぶだろうなあ。そんなことを真琴は思惟した。
 真琴の目は優しく、あの、海を見つめるときの憂いは、今だけなかった。水希は一度唇をきつく噛み、やめるべきかと飲み込んだが、しかしそれを嚥下できることはなく、やはり口先に戻ってきてしまった。
「海」
「え?」
 この双子の弟は、誰に似たのか、突飛だし、言葉だって足りない。
「海がいい」
 それでいて、頑固だ。
 真琴は体ごと水希へ向け、驚いた様子で見つめる。水希も、その目を見つめ返した。
「アタリだし」
 真琴は咄嗟にあと半分残ったアイスを見た。けれども真琴に見える面には何の文字もない。ということは裏面にあるのだろうと、ひっくり返そうとしたときに、残り半分を、ひょいひょいっと寄ってきた水希ががぶりと一口で食べるものだから。
「水希!」
「溶けてた」
 思わずあがった真琴の非難の声も気に留めず、水希は上唇をなめて、真琴の足元に花火を置くと、ベランダから室内へ戻っていった。
 灰色になった蚊取り線香がぽとりと落ちる。一瞬でこの場は静かになった。
 水希に言われた通り、真琴の手には溶けた薄黄色が付着している。それに、裏返した棒には、『もう一本!』と書かれてもいる。
 真琴はため息をついて、海を眺めた。その拍子になんと行動の早いことか、玄関から出て行く水希が目に入った。彼は振り向きもせず、すたすた、歩いて行ってしまう。
 行きたくなければ追わなければいいのだ。問題といえば後で水希が不機嫌になるぐらいで。
 だけれど真琴は手を洗うために部屋に戻らなければならない。置いてけぼりになった花火を水希に届けなければならない。バケツとライターと、それとロウソクを持っていかなければならない。アタリを交換しに行かなければならない。
 どれも後でするか、或いはしなくてもいいのだろうと他人が聞けば言うだろうが――ともかく、ここにずっといるわけにはいかないのだ。
 真琴は海に背を向けた。
 ちりん。金魚が鳴いた。


 海には水希と同じようなことを思いついたのであろう人がちらほらみられる。
 真琴は広い砂浜でぽつんと一人立っていた水希の横に並んだ。多分、真琴でなければすぐには見つけられなかっただろう。
「来たんだ」水希が真琴の顔も見ずに薄ら笑う。真琴は少しムッとした。
「あのなあ、水希――」
 文句を言ってやろうとした口に、人差し指を当てられるものだから、口を噤むほかない。水希の突飛な行動に真琴の怒りはぴゅんとどこかへ飛んでしまった。
 しいーっ。水希が目を細めて、まるで子どもをあやすかのように言う。それから、ゆっくり、彼の瞼が下りた。
 真琴が目を閉じるのは、ほんの少し遅れた。
「……聞こえた?」
 真琴が目を開けると、すでに水希は目を開けていて、人差し指すら離れていた。
 真琴は、はく、と口を動かした。声はどうしてか出なかった。
 へこんだ夕日が真琴を見つめている。
 バケツには、ロウソクと花火と、ライターしか入っていないのに、何か加えたわけじゃないのに、ずんといきなり重くなる。
 水希は真琴の返事に興味がないのか、穏やかな目で夕日を見つめていた。肌は、茜色に染まっていた。
 聞こえなかったと、真琴は言えなかった。


 完全に日が落ちるまで、真琴と水希はベンチに腰掛け他愛ない会話をして過ごした。やっとだ、と言わんばかりに水希が立ち上がり、花火の封を切る。真琴も立ち上がったが、その拍子に水を汲んだバケツに躓いてしまい――危ないと、水希に腕を掴まれ、大事には至らなかった。
 珍しく水希がカラカラ笑うので、あまり強い反撃はできず。真琴は笑うなよと、口を尖らせた。
 ぽつんとロウソクに火が灯る。ぽつんと足元が照らされる。もっと早くにつけてくれたらよかったのに、なんて。真琴はまだむくれていた。
「真琴」
「……ん」
「線香花火だけしよう」
「え?」
「他のは家に帰って、みんなでしよう」
 なんで。小さな真琴の声を聞き漏らさず、けれども答えは言わず、水希は真琴に線香花火を一つ手渡した。
 締めとも言えるそれを、なぜ初っ端にするのか。というより、それだけのためになぜ、わざわざ海に赴いたのか。
「先に落としたほうが、家に帰って相手の肩もみな」
 真琴はたくさんの疑問符を飛ばしたが、やはり水希は、気づいているくせに答えなかった。だから真琴が折れた。しょうがないなあと笑えば、水希も笑った。
 ぽつ、ぽつ。小さな2つのあかりが灯る。目を凝らせば派手にはしゃぎ花火を振り回すのも見えるので、この2つは随分静かだった。
 2人の間に会話はない。あの適当な水希の発言に、どちらも実は本気になっているのかもしれないし、儚い灯火に目を奪われているのかもしれない。或いは、ぼんやりとした光を見ているうちに、どこか遠くへ想いを馳せてしまったのだろう。
 水希の方はわからないが、真琴は後者だった。はっきりしない灯火は、遠くから帰ってくる漁船の提灯に似ていたから。
 平気になった。そう思ったし、きっとそうだ。だけれど、どこかにやはり、寂しさは永遠に巣食っている。ふとした瞬間に現れる。
 ゆらり。提灯が風に煽られた。
 あ、と真琴が言うが早いか、ぽとりと火が落ちる。横の水希のは、まだ続いていた。
 ぷっと水希がふきだしたのがわかって、真琴は今度こそ動いた。えいと水希の肩を押してやったのだ。
 あ、と水希が言うが早いか、ぽとりと火が落ちる。さすが双子、火が落ちるまでの動作は同じであった。
「まーこーとぉ……」
「んー?」
「……おまえ意外と負けず嫌いだよな」
 水希は生暖かい目で真琴を睨み、やれやれと肩を竦めた。
「まだするの?」と真琴が聞くと、水希が首を振る。それからバケツを自分と真琴の間においた。おかげで真琴は動く手間を省けた。
 礼を言って終わってしまった線香花火をそこに入れようとすると、「真琴」と水希から待ったをかけられる。なんだろうか。不思議に思って見た水希の瞳は、ロウソクの火に塗られている。
「しー……」
 横に引っ張られた唇。
 もうしないと言ったのに、水希は袋からもう一つ線香花火を取り出して、それに火をつけた。
 真琴がきょとんとする。ぱちぱちと跳ねるまあるいそれはオレンジとも赤とも取れない。
「きれいだ」真琴はため息のようにつぶやいた。多分、水希は笑った。
 ちりちり、ぱちぱち。火花が跳ねる。
 水希はそっと手を動かして、水面の上で線香花火を手放した。
「…………聞こえた?」
 音は、一瞬だった。
 線香花火がバケツの水の中に落っこちた音。それは、夕日が海に還る音。幼い真琴が聞き逃した、漁夫が聞いていた、あの音だった。
 真琴は何度も何度も瞬きをした。目が乾いたのかと水希がからかうほどだ。真琴が弱々しく首を振った。水希は鼻を鳴らした。もちろん、そうじゃないことは水希だって知っていた。
「はは、やっぱ泣き虫」
「……うるさい」
 つうと頬へ伝った生ぬるい滴は乱暴に拭った。
 ――バイトから帰ってきて、真琴がベランダでぼうっとしているのを見たときから、気づいていたのだろう。いや、むしろずっと前から気づいていたのかもしれない。
 やることが妙にロマンチストめいている。凛の影響じゃあないのか。なんてことを嗚咽しながら真琴が言っても、水希は優しく笑うだけで。
 この歳になって泣くのが悔しくて、水希の優しさが嬉しくて、どうも涙を飲み込めそうにない。
「帰りはコンビニ寄ろうな」
「……うん」
「半分ちょーだい」
「……もう、お腹壊すよ?」
「鉄の胃袋」
「うそばっかり」
 真琴は水希の肩に頭を預け、そっと瞼を下ろした。
 潮風が頬を撫でる。舌をくすぐるしょっぱさは、多分、これのせいだ。そうだと言い訳させてほしい。
 自分の頭を撫でる手は、まだシワでいっぱいになってもいないし、自分のより小さいのに、大人のように大きくて。
「真琴」
「……ん」
「平気じゃなくてもいいよ」
「……うん」
「……」
「……水希」
「んー」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 お前が兄弟で、本当に良かったよ。なんて言葉はお互い口にできなかったけれど、言わなくたってきっと、伝わっていただろう。