「行くぞ、遙」
 いつものように水風呂からあがると無人だったはずの居間には、見慣れた幼なじみがふてぶてしさを隠しもせずに仰向けになっていた。インターホンは鳴らなかったから裏から入ってきたのだろう。そのことに関しては水希にしろその兄にしろ今更のことなので文句はないが、家に入ったのなら声をかけて欲しかったものだ。聊か心臓に悪い。
 さておき、それで、冒頭通りの一言を口にするのだから、何のことだと俺は怪訝な顔をするほかない。
「どこにだ?」
 行くぞ、とか言いつつも全く動く気のない水希を見下ろし、首にかけたタオルで髪を拭く。水希はゆるりと右手を持ち上げて座卓を指した。目で追えば――見かけない財布――水希の財布が置いてある。
「その中にある」
 口で言えばいいのに。回りくどい。
 ちょっとだけ眉を顰めつつ、言われた通りに水希の財布を手にとって中身を確認する。あ、諭吉だ。しかも2人いる。
「バイトで貯めた。たまにはそういうのもいいかなって思って」
「……あ」
 財布の中に1万円を忍ばせることがか、と一瞬思ったのは事実だが、そう聞き返す間も無く、俺は財布に2枚のチケットが入っていることに気づいた。
 大人、と大きめのフォントで書かれた長方形のそいつには、並んで泳ぐイルカの写真が印刷されている。
「水族館……」
「そ」
「というよりお前、バイトしてたのか?」
 相変わらず仰向けに寝転ぶ(よくよく見ると腹チラしてる)水希は、きょとんと瞬いた。その顔が「あれ、遙に言ってなかったっけ」であることを長い間彼の幼なじみ……兼彼氏、をしている俺には容易く理解できる。
「親戚の居酒屋でバイトしてるって、おまえに言わなかったっけ」
「聞いてない」
「そ? まあ、バイトで稼いで、それ買った」
 いつからバイトをしていたのだろうかと不思議に思いながらも「そうか」と頷いてチケットを水希の財布に戻す。その頃には上体を起こした水希がジッと、真剣な目で俺を見つめていて。
「……脱ぐなよ」
「脱がない」
 キッと睨めつけるが「どうだか」と、水希はイマイチ納得していない顔で、若干の蔑みを込めて、肩を竦める。
 彼の真剣な眼差しに、ちょっとでも心臓を打ち鳴らした俺がバカだった。
「イルカショーの水槽に飛び込んだりすん……いてっ」
 しつこく続きそうだったので背中を蹴って黙らせた。
 軽い支度をして、(誘ってきたくせに)ごろごろする水希を家から引きずり出し、バス停に向かう。水着を着なかったのは水希に対するちょっとした対抗だったのだと思う。
「来た番号に乗れば着くんじゃないの」とかなんとか、相当適当なことを抜かした水希の頬を引っ張ったのは、バスに揺られる数分前のことだ。
 少し離れたところにある水族館に着くまでに、水希は何度か船を漕いで俺の肩に頭を預けていた。あれだけ稼ぐのに、勉強も疎かにせずにこっそり、頑張っていたんだろう。「たまにはこういうのもいいかな」なんてなんてない顔で言った水希を思い出して、その内には俺のために、なんてものが、少なからず含まれていたのだろうかと考えると、一人笑みを浮かべてしまう。
 面と向かって言うのは照れ臭いし、どうしても言葉がひっくり返ってしまうから、ありがとうの意味を込めて水希の手を軽く握った。水希の口元がほんの少し緩んだように見えたのは、俺の都合のいい妄想なのかもしれない。


 水族館に来るのは、高校になった今では久しぶりのことだ。ちょっとだけ列のなされたチケット売り場には、遠目でも見えるようにか、大きく太い文字で入場料が書かれた立て看板が設置されている。高校生からもう大人料金だ。そしてその値段の存外高いことに俺が唖然としているうちに、前売り券たるものを持っている水希は、まるで優越感に浸っているといわんばかりにしなやかな足取りで入場口に向かっていた。
 いつの間にか止まっていた足を慌てて動かし、入り口目の前で俺を振り返った水希の横に並ぶ。「ん」と言葉足りずに手渡されるのは入場券だ。1枚だけならまだ軽傷だったかもしれないが2枚も買えば諭吉が半吉(5,000円)になるのだから、高校生の俺たちにとってはなかなかの高級品であるそれを、崇めるように見つめれば、さすがの水希も気付いたのか、小さく笑う。
「小学生のときから値上げしたみたいだ」
 ほら行こうと、水希は俺にチケットを半ば押し付けて、駅の改札口と似た機械にチケットを通して行ってしまったので、俺もその後を追った。
 水族館の中に入ると、まるで外の世界と隔離されたかのように、どこかひやりとして神秘的な空気に包みこまれる。水が近い。なんだかもどかしい。
 水希は俺が横に立ったのを確認すると、順路、と書かれた看板を眺める。
「あっちみたいだな」
「ん」
 心なしか嬉しそうだ。彼の手を取るか取らないか迷って、2度3度暇にしている手を見たが、結局半歩遅れた歩みを取るだけになった。最近丸くなってきたといえど水希は、本人は自覚がないのだからなおさら質が悪いのだが、容赦がない。「こんな場所でつなぐな」とか、それこそ蔑みの目で見られたら俺はしばらく立ち直れない気がした。
 それでもやはり消極的になってしまった自分が情けなくて、それゆえの半歩の遅れだ。
「遙、ほら」
「!」
 少しうつむきがちに歩いていたところ、暇だった手を急に取られ、そのままぐいっと引き寄せられた。唐突だったことに驚いたのもあるがまるで図ったかのようなタイミングで手を取られたので、きっと目は丸くなっていただろう。
「ここのガラスの奥、ほら、ジンベエザメ」
 薄暗くなった一角にある、凹状になった丸いガラスの先には、同じように薄暗い水の中を悠々と泳ぐ魚たちがいる。確かに水希の言う通り、ゆったりと泳ぐジンベエザメがいて、その背中には、小さな魚が引っ付いていた。
 水希がそいつを指で追う。
「……コバンザメ」
「へえ?」
「ああやって身を守ってる。それと、引っ付いた相手の残し餌とか……食べてるやつで、まあ、ちゃっかり者だ」
「そうなんだ。あれの子どもかと思った。さすが、博識じゃん」
「誰だって知ってる。常識だろ」
「常識なの? じゃあ俺非常識なんだ?」
 へらりと笑って水希はガラスから離れる。
「一般人に近づけてよかったな」
 倣って俺もガラスから離れ、横の水希に対して目を細める。彼は軽く俺の肩を小突いて「おまえも一般人に近づいたんじゃない」と薄ら笑いを見せた。何のことだろうかと首を横に倒す。説明は即座に入った。
「今日は水着、履いてないんだろ」
 だから俺も即座に水希の肩を軽く殴った。水希はいつもの仏頂面がうそのようにけらけらと笑う。ここでは何か特殊なイオンでも出ているのだろうか。
 そこでふと、先程取られた手はそのまま握られていることに気付き、俺は視線をそちらへ落とす。水希は動かそうとしていた足を中途半端にとめて、つられて俺の視線を追い、潔く気づいたようで、しかしなんの反応も見せない。
「……いいのか?」
「いやなの?」
 言葉に詰まる。遠くまで澄んだその瞳で見つめられると、まるで自分が劣っているようで苦しくさえなった。
「他人の目、とか」
 お前はそういうの、関心なさそうにしていてどこかで気にしているだろとか。さすがに余計な言葉まではつけなかったが、水希から目を逸らして、また水槽の中を意味もなく見つめる。コバンザメは相変わらずジンベエザメに引っ付いている。
「遙が気にしてるんなら、離すけど」
「……俺は別に」
「じゃあ」
 一度ゆるみかけた手の力は再びよみがえり、指と指とを絡めるようにつなぎ直される。
「俺は遙との関係を誰かに後ろ指をさされる覚えなんてないし、誰かの目を気にしながらおまえに接するなんて、遙に失礼だって思うよ」
 力強い声色、眼差し、手先から伝わる熱いもの、彼の目の奥に揺れる穏やかな波。――――大人だと、素直に思った。同時、他人の目を気にしていたのはほかでもない俺自身だったのだと気づかされ、顔が熱くなる。強い自分でいるはずだった。ほかに揺るがされない、他なんて気にしない、強い意志を持った、自分。
「そうすることで導かれるのは明るいことばっかりじゃないだろうね。でも俺はおまえが好きだから」
 水希はきっと、誰よりも優しい。そういったって本人は否定するのだろうが、優しい人だ。
「それにほら」
 水希は握った手を軽く上げ、こてんと首を軽く倒す。その表情にのる笑みは幼さの抜けきらない珍しい笑みだった。
「デートっぽい」
「……バカか」
 水希がいつもするように彼の足を軽く蹴る。「痛いって」と俺を非難する割に、水希はやり返してはこなかった。

 水希が見たいといったイルカショーまでまだ数十分時間があるので順路に沿って歩くことになった。「近くで見ると、水しぶきに濡れるんだって」と誰に聞いたのか口にした水希は、返事をしない俺の顔をひょいと覗くと、すぐあきれ顔をした。
「水に濡れることがメインじゃないんだけど?」
「……俺だってそんなこと言ってないだろ」
「どうだか」
 水に濡れる、とかいう水希の言葉を聞いた途端にわくわくした気持ちが上り詰めたのだが、うっかり顔に出ないように努めたはずなのに、長年の仲の相手を欺くことはできないということなのだろうか、簡単にばれていたらしい。それでも認めるのは悔しかったので言い返してやったのだけれど、このジト目、どういうことだか効果はない。
「まあ、俺は遙がいきなりストリップしたりしないんならそれでいいんだけど」
「人のことを“非常識な人間”みたいに言うな」
「……無自覚? やっぱりおまえって天然?」
 ますます水希にあきれ顔――――というより、それを通り越した憐みの目を向けられた。俺のどこが非常識な人間なんだ。納得がいかないし、なにより腹立たしいのでじろりとにらみつけてやる。「真琴も何十年と苦労するわけだよ」なんて、反ってため息をつかれる羽目になった。
「それ、水希が言えることじゃないだろ……」
「? じゃ、お互い様」
 あっさりと認めるところでもないだろうとあきれてみるが水希には通用しない。こういう自分勝手なところは察しの悪い真琴同様だと思う。大きなため息をつく俺の横で、水希は足を止め、頭上を泳ぐ魚をぼんやりと眺めた。
 頭上はいつもの天井みたいなものではなく、水槽を真下から覗くことができる。
「……俺がタキシードで、おまえがウエディングドレスな」
 上を見ようとしたはずが、水希の顔をまじまじと見ることになった。エイの腹の代わりに、奇怪な顔をした女性客が俺の目の端を通り過ぎていく。今の水希の発言を聞いたのだろうが、俺だってそんな顔をしたい。
「何の話だ?」
「式」
 式、あまりにそっけなさすぎると思った、し、そんな軽い補足がなくたって“式”の話題であることぐらいは容易にわかる。
「なんで俺が女装なんだ」
「おまえ細いから似合うだろうと思って。それに俺の方が背ぇ高いし」
「お前だって俺と同じぐらいだろ。体型も、身長も」
 本当、心底唐突な話題だなあと思いつつも、しれっと流すには難しい発言(俺がウエディングドレスとかいうやつだ。……あ、あと、俺より背が高い云々)が混じっているので安易には相槌を打てない。
 俺の返答は予想した通りだったようだが、返す言葉は用意していなかったようで、水希はすぐには言葉を返さず、少し考えてみせる。
「……正直、俺が見たいだけなんだけど」
 と、小さな声で呟かれたのを俺は聞き逃さなかった。
 バカじゃないのかと眉をひそめる反面、律儀にも、ウエディングドレスを着、タキシードを着こなす(想像ではあるが意外と元のいい水希には似合う。不愉快だ)水希の横に立つ自分を想像しては頭を振る。「ヘンタイか」と水希を罵ってやるのを忘れないが、その言葉は俺自身にも投げつけているようだ。
「似合うと思うけど」
「嫌だ」
「ケチ」
「お前が着ればいい」
「いやだ」
 俺に着ろという癖に自分が着るのは嫌なのかと睨み付けるが水希も同じようなことをしているので不毛すぎる。結局折れた水希が「俺も遙もタキシードでいいよ」と若干頬を膨らませて言うことで、この話に終止符が打たれた。


「イルカー」
 ピタリと額に当てられたのは手で握れるぐらいの大きさのイルカのマスコットだ。俺があたりにいる人たちと同じように休憩所のベンチに座ってぼうっとしていたのは、今目の前にいる、ほかでもない水希の買い物が終わるのを待っていたからで、それももう終わっていいらしい。
 言葉はストレートなくせに、ものを選ぶのには優柔不断になるようで、マスコットの前で唇に手を当て考え込んでいる水希に、俺は一声かけて休ませてもらうことにしたのだ。
「……イルカだな」
 なんと返せばいいのかわからずに、とりあえずわかることを言う。水希はへにゃりと眉を下げて、左手も持ち上げた。その手には、俺の額にぶつかってきたのより少し色の薄いイルカがのせられている。
「どっちがいい」
 おそろい、というやつなんだといわれなくても分かった。拒む理由もなかった。お金を払うとか言ってしまうのは空気が読めていない証拠だ。だから俺は静かに手を動かす。
「こっち」
「ん」
 濃い青の方を受け取る。水希は嬉しそうに目を細めて、俺の横に腰を下ろした。
「乾かないな」
「ああ」
 水希は俺のシャツに触れて、離し、自分の指先をじっと見る。濡れた原因は水希が買い物を始める前に見たイルカショーだ。イルカが勢いよくジャンプし水中に戻った時に降りかかったこれに、子供ばかりの観客は高い声を上げていた。
 水は冷たかった。水希いわく「遙だけは別格。嬉しそうに微笑んでた」らしい。人をヘンタイみたいに言うのだから、本当、失礼な奴だ。
「イルカ、泳ぐの速かったな」
「ああ」
「濡れたな」
「ああ」
「……今日、楽しかった」
「……そうだな」
 くすぐったそうに笑って、ほんの少し水希が俺に寄り掛かる。「また来よう」俺は間に置かれた手を包み込む。答えなんて口にしなくたって水希にはばれてしまっているはずだ。
 不意に脳裏に浮かんだのは、俺の前できっちりタキシードを着こなして、照れくさそうに笑う水希だ。それを俺は、呆れた顔で見つめて、自分だって恥ずかしいのを隠すみたいに自分のジャケットを撫でていた。
「――ウエディングドレス」
「?」
 そっと水希の視線が俺に向けられる。俺は先程まで水希が買い物をしていた店で、親子が品物を選ぶのを、その顔がどこまでも幸せそうなのを眺め続けた。
「着てもいいかもな」
 徐に水希に視線を寄越す。思った通り彼はぽかんと口を半開きのままにさせている。間抜け面だ。
「水希が」
 2、3拍取った後、水希は緊張の糸を切り、肩を竦める。残念がっているというか、期待し損だったと思っているのがまざまざと伝わってきた。
 まさか俺が着るとでも思ったのか、なんて、俺だって随分意地悪い言い方だったことぐらい自覚している。
「……紛らわしい」
 だってそうすれば、またお前が子どもみたいに唇を尖らせて、そっぽを向くってわかっていたから。「俺は着ないって、言っただろ」と拗ねた口調で言う水希は、どこまで俺のウエディングドレス姿を見たいのかとちょっとだけ笑いそうになった。だからといって妥協してやる気などさらさらなかったけれど、彼の表情が、声色が、横のぬくもりがいとおしかったのは嘘じゃあない。