※大学生、暗い
付かず離れずという言葉が脳裏を過る。水から引き上げられ、塩素臭いプールサイドのベンチに腰を下ろしている時だった。近すぎてはいけない。かといって遠すぎてもいけない。人と人との距離の取り方というのは一度意識してしまえば存外難しいものに思えた。
高校を卒業し大学へ進学し、のらりくらりと生活していれば、早いもので飲酒なんかも優にできる年齢になっていた。俺は競泳の道を、真琴は指導者の道を、その弟は水泳なんか少しも関係ない洋菓子店で毎日しまりのない顔をして働いている。この間は新作のことで常連さんと語り明かしたんだって真琴が言っていた。
そんな極度の甘党ヤロウ(かといって苦いものや辛いものが嫌いなわけじゃないらしい)と同居を始めたのは上京してすぐで、「付き合ってるんだろ」と揶揄されるのは高校からで。おかえりを言い合えることが幸せだったのはつい数か月前までだった。
最近無性にイライラする。帰宅したときに玄関に一足きれいに靴がならべてあるとどうしてかため息が出てしまう。ああ、先に帰ったのかって。
当然のことながら水希は俺の異変に気づいて「おまえ最近どうしたの」って、抑揚なく、けれど心なしか心配そうに俺に聞いてきた。曖昧にはぐらかしても、腑に落ちない表情。水希が俺へと伸ばす手はやけにゆっくりで。
「……っ」
空気の乾燥した拒絶の音は耳にこびりついて何度も反響した。俺が水希の手を払ったというのに、俺自身が気づくのには多少時間がかかった。
お互いに呆然とする。水希は信じられないものを見る目で俺を見つめ続けて、それを何度も失敗しながらやっとのことで理解して、俺の頭の中に浮かんだのは謝罪。けれどもその文字はばらばらになって、他の物とも羅列して、とっさには口まで持ってこられなかった。
「……風呂、沸いてるから」
「あ……」
「今日も疲れてるんだろ。寝る前に入っておきなよ」
ほんの少しだけ笑った水希は俺の横を通り抜けてソファへ向かう。慌ててその背中を振り返って彼を呼んだ。
「その……」
「気にしてない」
こちらを見る水希の目に嘘はない。寸前までやってきたごめんなさいは喉に引っかかって出てくることなんて二度となかった。
水希の視線が俺から外れ、彼は本来の目的であるソファの上に腰を下ろすと、机に置いてあったリモコンを手繰り寄せ、テレビのチャンネルを変える。しっしっと片手で追い払われた。それでやっと俺の足も動き始めた。
その日はもやもやした気持ちのまま一夜を明かしたのだけれど、翌朝の水希はいたっていつも通りで何も気にしちゃいない様子だったので拍子抜けだった。
「マンネリ化ってやつじゃねえの?」
「マンネリ化……」
翌日大学内でわりと頼りになる友人に相談してみたところ、得られたアンサーが上記の通りだ。
「七瀬と彼女は小さいころからずっと一緒なんだろ?」
「……。まあ」
……彼女っていうか。男だ。訂正はしないけれど。
「距離が近くなりすぎたんじゃね? 嫌いではないんだろ?」
「……ああ」
「あんまり近すぎて苦手意識が出てきちゃったんだよ。毎日同じもんを食べてたら飽きる的な。ま、ちょっと距離置いたら?」
「……」
食事のたびサバの載った皿が運ばれてこようが俺は飽きることなんてないと思うのだけれど、言えば目の前の友人が困ってしまうことは目に見えていたので黙っておいた。
距離を置く、か。
頬杖をついて窓の外に視線を飛ばす。なかなか減らない俺の皿の上の料理を、目の前の友人が一つつまんだ気がしたが、騒ぎ立てる気は起きない。
「遙」優しく名前を呼んでくる彼のことが嫌いになったわけじゃないんだ。でも、どうしてか、俺が優しくなれなくて。
「彼女とは同居中……だよな? とりあえず今日、俺ん家来る?」
確かに少しだけ距離を置いた方がいいのかもしれない。友人に向けて頷けば、「おーい! 今日の合コン七瀬も来るってよ!」と彼が大声で言う。隣のテーブルにいる友人たちに向けたものだったらしい。
盛り上がる人々に慌ててそんなことは言っていないと否定しても、かの友人はまあまあと俺をなだめる。
「ちょっと息抜きしようぜ!」
息抜き。その言葉はひどく魅力的なもので、俺の中の罪悪感を一気に打ち負かしてしまった。息抜きなら、別にいいか。とか。
次第に家に帰る日が少なくなった。帰る日であってもいつもより大幅に遅いことばかりになった。
ラップのかかった皿を見るたびに胸を詰まらせた罪悪感が、なくなっていったのはいつからだったろう。すっかり冷えてしまった湯を温め直すのが当たり前になったのはいつからだったろう。それでも水希はなにも言わなかった。ずっと、ずっと、いつも通りだった。
大学の友人と過ごす日が常になり、同じ家に住んでいるはずなのに、水希とは随分疎遠になった。朝は水希が早い時間から出勤することが週何回かあるので、おはようも途絶えがちで、俺も合宿なんかがあるので顔を合わせる回数もめっきり減ってしまった。
それから1カ月経ったくらいに、あれは起こった。いつもよりほんの少し早く家に帰ると水希がまだ起きていて、「おかえり。風呂なら沸いてる」と、存外懐かしい言葉を口にした。
ちらりとリビングの机を見ると、つい数週間前からのことだが、ラップのかかった皿は一つもない。水希はソファに腰掛けた。「寝ないのか?」聞くとこちらを向かず「見たいテレビがあるから」と。
意外なこともあるものだとか。そんなのんきなことを思って風呂に入った。
あがるころには0時を過ぎていたが、水希は変わらずソファに腰掛けテレビを見ていた。そこに映されるものはただのニュース番組だ。あれ、こいつそんなものに興味があっただろうか。違和感が胸を掠める。
「あがった」
なんとなく声を掛けると水希はちらりと俺を見て、そっかって。ゆっくり立ち上がって俺のところまでやってきた。
不思議な気分だった。胸に抱えていた苛立ちが、そっけない一言を与えられた瞬間にふっと消えて。ぼうっとその場にたたずんでいれば、彼は穏やかに目を細めて、ほんの少しだけ笑った。今まで見てきた中で一番優しい笑みだった。
「 」
聞こえなかった。読唇術を心得ているわけでもないので、彼の薄い唇の動きから読み取ることもできなかった。
聞こえなかったんだ。本当に聞こえなかった。テレビの音も水希の声も全部全部消えてしまって。
俺が聞き返そう口を動かしたのと、彼が俺の横を通り抜けたのは同時だ。「水希」すとんと胸の中から何かが抜け落ちた。思わず口にしたのは存外弱弱しく飾った彼の名前だ。
なあに、なんて、真琴と同じようにやさしい返事。眠たさに負けているのだろうか、そんな反応、普段はしないのに。
「どこ、行くんだ?」
「コンビニ」
「もう0時過ぎだ。行くなら朝でいいだろ」
「すぐ帰るよ」
まだ拭い切れていない生暖かい滴が首の付け根に落ちる。
背中を見せる水希を追うとあっけなく玄関にたどり着いた。
「先に寝てていいよ」
「……。でも、鍵……」
「持ってるから」
「……気を付けて行って来い。夜は危ない」
「はは、女じゃあるまいし。むしろ俺が不審者だろ」
「……」
「疑うなよ……別に誰かを襲ったりしないよばあか」
「早く帰って来い」
スニーカーを履きながら水希が軽く鼻で笑った。ただそれだけ。返事はくれなかった。
「じゃ。おやすみ」
「……そこは行ってきます、だろ」
水希はドアを押し外に出ていた。
空は暗いといえど、眠らない街はぼんやり明るい。上京する前はよく見ていた星も、この大都会じゃ顔を見せない。ドアがほとんど閉まりかけていたときに、水希が俺を振り返った。
「夜更かしするなよ」
「……」
ぱたんとしまったドアになんだそれってため息をついた。
少ししてから鍵を閉めた。ぼうっと玄関で突っ立っていたってしかたない。あいつだって大の男だ。そんなに俺が過保護になることはないだろう。
そっと視線を落とす。水希のスニーカーひとつがなくなったぐらいでなんだか閑散としている。
もう一度ため息をついて部屋に戻った。
コンビニに行くと言った水希は、すぐ帰るよという言葉に反して、翌朝俺が目覚めたって、いつも通り几帳面に、玄関に靴を並べちゃいなかった。
テレビを自分で消した覚えはないので勝手に切れたのだろう。静かだ。ベランダで鳥の鳴く朝は随分穏やかなのに心内は荒れに荒れていた。
水希がいない朝なんて慣れたはずだったのに、なんで。
――「すぐ帰るよ」
なにか。あったんじゃないのか?
慌ててスマートフォンを手にして電話をしてみても続くのは呼び出し音ばかりでそれが鳴り止む様子もない。ばくばくと心音が異常にうるさくなった。どうしようどうしよう。何かあったんじゃないのか。まともな思考回路はそこにはなく、冷静になることは不可能で、当てもなく家から飛び出した。
近場のコンビニに足を運んだが水希の姿はない。朝っぱらから息を切らして店内に飛び込んできた客を不審な目で見る店員がいるばかりだ。どこか、水希の行きそうなところ。想像して見てもどれもこれも黒く塗りつぶされてなにも思いつきやしない。以前ならぱっと思い浮かべることができたのに。
舌を打ってダメもとで水希の勤務先に向かう。もしかするといるかもしれないし、いなくとも、何かつかめるかもしれない。
少し走れば懐かしい外装が目に飛び込む。ああ前までは帰りにここに来ていたんだっけ。そんな些細な思い出が胸をえぐる。思わず心臓を押さえて店に駆け込んだ。
からんころんと鈴が鳴る。一瞬固まった店内の空気は、すぐに解かれた。
「……いらっしゃいませー」
そう俺に声をかけて来た店員を見た途端、体の力が抜ける。商品の陳列を行っているそいつは俺が探していた人物だった。
よかった、ちゃんと、いた。けれどもほっと胸を撫で下ろした後に徐々にわいてくるのは怒りだ。なんで帰って来なかったんだ、なんで連絡をよこさなかった、そんな文句はいくつも浮き上がる。
ずんずん大股で水希に近づく。彼はほんの少し口を引きつらせたみたいだけど後退はしなかった。
「おい」
「え、はい。何か?」
「『何か?』じゃないだろ」
眉間にシワを寄せ、水希は戸惑いを隠しきれない様子で辺りを見渡した。他に客がいないことを確認したのだろうか。「ちょっと場所を変えましょう」と、職場だからだろう、敬語で話す水希に苛立って胸ぐらを取る。これにはさすがに驚いたようだった。
「っ」
「なんで帰って来なかった」
「は……?」
「『すぐ帰る』って、お前言っただろ」
水希はだんまりになって俺をじっと見つめた。変わらない薄緑が揺れもしない。2度3度と瞬きをして、彼の手が俺の手に触れた。
「……失礼ですが、お客様。僕を誰かと間違えていませんか」
「は?」
彼の制服を掴んでいた手から力が抜ける。耳を疑った。お前、一人称おかしいぞとか、そんなことを言いたくもなった。
冗談がきつい。なのに水希の目を見ても、そこにあるのは微かな苛立ちと、強い意志だけで。水希がふざけている様子なんて微塵にもない。
「……落ち着つきましたか?」
「なに、言って……」
「おい、水希! 怒鳴り声が聞こえたけど……って、七瀬じゃん」
奥から慌てて出て来たのは、この店の経営者でもある水希の数個上の先輩だった。彼は俺を見た途端にほっと息をついて「なんだなんだ、痴話喧嘩かよ」と揶揄しながら俺たちに近づく。彼は俺たちの関係を知る数少ない人だ。
「水希、七瀬と喧嘩?」
「え……いや、先輩」
「喧嘩するほど仲がいいっていうけど、さすがにここでされると困るなあ」
「先輩」
「朝からいちゃつかないで……」
「先輩!!」
らしくもなく水希が怒鳴った。ぽかんと口を開ける彼の前には、存外焦った表情の水希がいる。からかわれて羞恥しているとか、そういうものではなかった。純粋な焦り、それと苛立ち。
「先輩まで何言ってるんですか? 俺、そういうのは嫌いだっていったでしょ。からかうのも大概にしてくださいよ」
「わ、わりぃわりぃ」
「朝から度の過ぎた悪ふざけだろ……先輩のご友人と言ったって、俺は知らない人なんですから、いきなり胸ぐらを掴まれて怖くないわけがないじゃないですか」
ぎゅっと拳を握る水希の前で、俺たちは石のごとく固まった。今、なんて。
「待て、水希、お前今なんて」
「え?」
「七瀬だろ?」
「?」
「お前の、恋人、だろ?」
「はあ? まだおふざけの最中ですか。この人のことは知らないって言っただろ、それなのに恋人? 笑えませんけど」
水希は相当苛立った声色で彼に言うと、おもむろにこちらを向き、軽く頭を下げる。「先輩、悪ふざけが好きなんです。七瀬さん……ですよね。巻き込んですみませんでした」それだけ言うと、この場から離れようと踵を返す。
すっと俺の横を通り過ぎる水希。昨日の光景がフラッシュバックする。「 」聞こえない、なあなんで? なんで聞こえなかったんだ。なんて言ったんだ。俺は何を聞き逃した。
「……っ待ってくれ」
「、」
店の奥に戻ろうとしていた水希の腕をつかむ。ぐっと引っ張られた彼は一度息を飲んで不審がる目を向けた。
偽りも罪悪感もなにひとつ灯さない水希の瞳は一途を辿る。わかっていた、度の過ぎた悪ふざけじゃないんだって。でもどこかで驚いたかって嫌味っぽく笑う水希を期待していたんだ。だからだ。力強い眼差しに心が折れそうになった。
「おい、水希、本当に七瀬がわからないのか?」
「……? 先輩のご友人じゃないんですか?」
頭が冷えたのか、水希も話を聞く姿勢を見せ、体ごと俺たちに向け直す。「七瀬……」小さく口にされどくりと心臓が嫌な音を立てる。違う、お前はそう呼ばない、お前は――
「遙」
「、」
「七瀬遙だぞ、わからないか?」
見計らったかのように俺の名前を呼んだのは、けれども水希ではなかった。「……俺の知り合いなんですか?」とまだ疑いの抜け切らない声色で水希が問い返す。
「知り合いもなにも……幼馴染だろ? 同居もしてる」
「え……? は、同居……?」
信じられないといった様子で俺をちらりと見て水希は口元に手を当てる。ゆらりゆらりと揺れ動く眼差しは確かに動揺していた。
真琴に電話をかけたのは混乱した場を一時的に治めた先輩の提案からだ。都合良くも真琴は午前が空いているらしく、連絡をしてすぐにこの場にやって来た。そこで場の統治役は真琴に代わる。
まさか真琴のことも忘れているのではないかと思ったが杞憂に終わった。
今日は家に帰れと言われた水希は、真琴と俺との数歩後ろをついてきている。信号待ちになってピタリと足を止めても、俺たちの間やら横やらには来ず、やはり数歩後ろで歩みを止めた。
「水希」
真琴が呼ぶと後ろでほんの少しだけ空気が揺れた。
「幼馴染のハルだよ」
真琴にはあの場で現状を話してある。現状といっても俺たちだって詳しいことはわかっていないのでひどく曖昧だ。
「……」
「……わかんない?」
「…………ごめん」
一つはっきりしているのは橘水希の中から七瀬遙という存在が完璧に消えていることだけだ。
水希は俺に気を遣っているのか、わりと婉曲に真琴の言葉に肯定した。婉曲だろうとなんだろうと、彼が俺を忘れている(という自覚すらない)のが事実だ。もともと俺がいなかったみたいに、水希の中から俺がすっぽ抜けてしまっていた。
風穴でも開けられたかのように胸が寒い。
「昨日は……どうしてたの?」
道すがら水希に質問を繰り返す真琴は、なるべく空気が重くならないようにと気を遣っているのだろう。いつもなら痛くない沈黙も今ばかりは苦しいものなので、助かるといえば助かるのだけれど、水希の回答にその都度胸をえぐられるので大して意味はない。
「……昨日は、夜に家を出て……コンビニに行って……」
「コンビニに行って?」
長い沈黙が走る。ぶつぶつとつぶやく水希ははたから見れば随分な不審者だが、それをからかう余裕が俺にはなかった。
信号が赤から青に変わり、人々が一斉に歩き出す。
「……ごめん、わからない」
俺たちも例外ではなかった。「そっか」と独り言のようにつぶやき、真琴は横の俺を気にしつつも歩みを進める。
変わらず俺たちと距離をとって歩いている水希の空気もどこか重たいものになっていた。思えば自分の記憶が曖昧であることに焦りを感じたのだと思う。
「家の場所はわかるんだよね?」
「……うん」
「何か思い出せるかもしれないな」
真琴が俺を見るが応える気力さえなかった。
住み慣れたアパートにつくと部屋番号をたがえることなく水希はドアの前に立ち、しかしポケットを数回探ると困ったように真琴を見た。「鍵がないの?」真琴が首を傾げ聞くと、水希は気まずそうに頷く。
え。そんな間抜けな声さえ口には出ない。それぐらい不意を衝かれた。うそだろ、だってお前、鍵は持ってるから先に寝てろって言ったじゃないか。
「ハル」
真琴に呼ばれてハッとする。水希は俺と目が合うとすいっと逸らした。主に心を許していない相手に対してする行為だともう何年も彼と一緒にいる俺は知っていた。
今の水希にとって俺は赤の他人なのだということをまざまざと思い知らされて胸が潰れる。こっちを見ろよ。ぐっと拳をきつく握ったことにさえ水希は気づいてくれない。
「……」
俺がこの部屋の鍵を出したあたりから水希は不安そうにしていたのだが、いざ鍵を開け足を踏み入れ、明らかに2人以上の住む室内を目の当たりにした途端、がくんとその場に崩れ落ちた。
「水希?!」俺も真琴も慌てて水希を取り囲む。水希の顔は青白くなっていた。
水希は額に手を当てて「わるい」と弱々しく謝罪する。今にも泣き出しそうな声で。手が小刻みに震えていた。
「俺、先輩も真琴も、うそついてると思ってた、七瀬さんに声をかけて質の悪い冗談を言ってるんだって」
「っ」
「でも、おかしいよな、こんなん、数時間じゃ準備できるはずないよ。俺、ここに一人だったはずなのに、でも七瀬さんはここの鍵を持ってるし、家具も小物も揃ってて、」
「落ち着いて、水希、大丈夫だから……!」
「わからない、わからないんだ、まだ、本当は冗談なんだろって、でも……」
真琴に肩を揺すられながら、水希が俺へと視線を向ける。
「……七瀬さん。俺とあんたは、なに?」
水希の問いに真琴が息を詰めた。俺はそれに対する答えをいくらでも持っていたんだ。お前と俺は、幼馴染だ、同居人だ、よく喧嘩するけどそこそこうまくいってる、……恋人だ。でもどれも言葉にできず、ぐっと拳を握る。動かせない。言うことを聞かないんだ。
水希は俺のことを七瀬さんなんて言わない。あんたなんて呼ばない。お前は俺のことを――。後頭部を強く殴られたみたいに頭が揺れる。
真琴に背中をさすられ、水希は俺から視線を外す。その頬には一筋光るものがあった。俺は、ただただ、唇を強く噛むことしかできなかった。
#
この家で一人で夜を過ごすのは2回目だった。混乱した水希を真琴が引き取ったのは妥当な流れだったと思われる。
翌日の昼頃、ちょうどご飯を食べようとしていたときに真琴から電話がかかってきた。彼女からか? なんていう冷やかしに手を払って騒がしくないところまで移動する。その間に着信音は途切れてしまっていたので掛け直した。
「病院に行ってみたけど、やっぱりハルのことだけわからないみたい」
「……そうか。水希は?」
「まだ混乱してるみたいだけど、目立つ支障はないからって、仕事に行ったよ」
「……」
「今度またハルも一緒に来て欲しいって先生が言ってたんだけど、ハル、暇はある?」
「……ああ、確認する」
「あと、家のことなんだけど……しばらくは同居のままでいいかな? その方が何か思い出せるかもしれないって、本人も言ってて」
「……構わない」
「…………ごめんね」
「なんで真琴が謝る?」
「いや、あはは……」
真琴の苦しさの混じった笑い声が消えると、居心地の悪い沈黙が鎮座する。電話での沈黙ほど嫌なものはない。なにせ相手の顔は見えないし、長年の仲だからといっても、なにを考えているのかさっぱり読めないからだ。
「……この話は、また、顔を合わせるときに」
「……そうだな」
長い沈黙の末もあまり気持ちのいいものではなかった。通話を切ってぶらんと手を垂らす。……目立つ支障はない、か。
口元に浮かぶのは自嘲のそれだ。俺のことを全て忘れても「目立つ支障はない」のか。自分が悲観的になりすぎていることぐらい自覚はあったが、考えてみてほしい、いきなり存在を消されて全くの他人行儀になられて、正気でいられるか?
「な、な、せー! あれから彼女とはどうよ?」
食堂に戻る気にはなれずしばらく壁に凭れてぼうっとしていると、以前俺にアドバイスをくれたかの友人がポケットに手を突っ込んだ状態で、なんとも腕白にこちらに駆け寄ってきた。
意外と強く肩を叩かれ体が揺れる。ゆっくり彼を見ると彼は「え、お前顔色悪くねえ?」と戸惑った様子を見せた。
「彼女となんかあった?」
「……」
触れられたくない琴線をデリカシーなく引っ掛けていくのだから苛立ちは募る。真琴や水希なら、そんな聞き方はしない……って、あいつらと比べてどうするんだ。
「もしかして……彼女と破局?」
そろそろうるさいので友人の脛を蹴った。すっかり水希のくせがうつってしまっていると蹴ってから気づき、現状を思い出し、自分で自分の首を絞めた。呻く彼を放って歩き出す。彼には悪いけれど若干の八つ当たりも含まれていた。けど、今のはあからさまにあっちが悪い、と思う。
「破局、か……」
そうなのかもしれないと、やっぱり自嘲の笑みが浮かぶ。
午後は設備の整ったプールでメニューをこなし、いつも以上に疲労した体を引きずって家に帰る。と、家の前でばったり水希と出くわした。まさかここで出会うとは思っていなかったので目を丸くしていると、正気に戻ったのはあっちが先だったらしく、水希は頬をかきながら気まずそうに目を逸らした。
「……とりあえず入るか?」
「あ。はい……」
俺の後ろを何処か警戒しながら水希がついてくる。もう、横に並ぶことはないんだろうか。
「……あの、七瀬さん」
「?」
「俺といることで、つらいですか」
手のひらから鍵が滑り落ち、コンクリートに当たって、からんと冷たい音を立てた。
水希が屈んで鍵を拾おうとするのを制して自分で拾い上げる。目を合わせても彼はいたって真剣であった。
ばくばくとうるさい胸を押さえつけて問い返す。
「……なんでそう思う?」
「俺といるあんたはつらそうだから」
「わかるのか、俺のこと、知らないのに」
「……」
しまった、八つ当たりだ。非難するような言い方になってしまったことに即座に気づいて謝ろうとすると、先に水希が口を開く。「ずっと」ふっと水希の口元に笑みが浮かぶ。さみしい笑みだった。
「ずっと苦しそうだった」
「、」
耳元の血管が唸り声を上げる。どっどっと激しく脈が打ち付けて、心臓は今にも皮膚を食い破り飛び出してきそうだ。背中やら手のひらやらには嫌な汗が浮かび、口も自然と引き攣る。
「七瀬さんの負担になるなら、俺ももう少し一生懸命に探して、早ければ今週中にはここを出ます。ただ、今日明日は、許してもらえませんか」
口の中はからからに乾き切っていた。
「水希は」
「?」
「水希は俺といてつらくないのか?」
今にも消えそうな声で尋ねる。水希は拍子抜けしたようで一度真剣な表情を崩し、ふっと柔らかく目を細めて、
「つらくないよ」
ここにいるのは俺のことを知っている水希じゃないのに、彼がそこらに面影を見せるから。思わず彼に伸ばしかけていた手は寸前のところでドアノブに持っていく。今の水希に今の俺が触れることは、きっと、許されない。
そうかって、そっけない返事だった。それぐらいにしておかないと、泣きそうだったから。
水希が俺を忘れてしまってから、なす術もなく、気づけば1週間が過ぎていた。
相変わらず洋菓子店で働き、たまに診療してもらいにいくのが日課になった彼は、1週間も同じ屋根の下で俺と暮らせば次第に慣れてきたのか、あの堅苦しい敬語はどこかに消え去って、小生意気な橘水希という人間が俺の前に現れ始めていた。けれども彼は一向に俺を思い出そうとはしなくて、俺の前に戻ってきたのは、単に口の悪い水希なのであり、幼馴染の、そして思いを通じ合えたはずの彼は……いない。認めてしまえば楽なのかもしれないが、七瀬さんと、あの呼び方で呼ばれるのは気持ちが悪いのだ。
今日は久しぶりの外食でその相手は幼馴染、兄の方だ。水希に夕飯はいらないと伝えるのもまた久しぶりだった気がする。以前はすんなり送ることのできたその主旨のメールも、今じゃためらってしまった。震える指先で送信を押した俺なんか自分でも忘れてしまいたい。「りょーかい」って、そんな簡潔なメールしか返ってこなかったんだから。人の苦労も知らないで、のんきなやつだって。ちょっとだけ笑った。
話を戻すが真琴の用件なんてわかりきっている。が、話の方は真剣なものなのに場所が場所だ。古くからのラーメン屋で、周りにはほんのり顔を赤くしたスーツ姿の大人ばかりではどうも真面目になりきれない。
「決まった?」お品書き越しに真琴を見ると、彼は頬杖をついてこちらを見ている。ああと頷いてそれをもとあった場所に立てた。真琴に聞かれるずっと前からなにを頼むか決まっていたことは言わないでおく。
真琴が店員を呼び注文する。俺も適当に便乗した。
「水希、最近どう?」
「『またサバかよ』って言えるぐらいには元気だ」
「あはは、それはなにより」
真琴は軽く笑って水の入ったコップを手に取る。「……でも」なんの意味もなく壁に貼られた紙に視線を飛ばした。アルバイト募集、時給840円、高校生可。全うどうでもいい。
「それだけだ。水希は、俺に慣れただけで」
「……」
ことんと木に硬いものが当たる音。十中八九真琴がコップを下ろした音だろう。
「ねえハル」いつになく真剣な声は無視できない。振り返るとやはり期待を裏切らない眼差しが俺を射抜く。
「聞いていいのか、ずっと迷ってたんだけど……」
「ああ」
「あの日の夜、それよりずっと前、なにかあったんでしょ?」
「……」
「……無理に話してもらおうとは思ってないよ」
「…………悪い」
言うべきだったと思う。だけれどなにがあったのか、それは漠然とし過ぎていて、どうしてあのときはあんなにも水希との距離に苛立っていたのか、今となってはわからなくて。うまく話せる気がしなかった。
もちろん真琴が俺から綺麗な回答を求めているわけではないことぐらいわかっていたが、俺の矛盾した感情を真琴に全て見せるには心の準備が足りなかった。
「おまたせしました」
少し重くなった空気を割いたのはお盆を抱えてきた店員だ。彼は俺たちがそれぞれ頼んだものを確認すると伝票を机に伏せ、会釈して去っていく。
割り箸をとって圧をかける。ぱきんと音を立てたそいつは不恰好に割れた。
「……水希は、俺のこともハルのことも大好きなんだよね」
「……?」
いきなりどうしたのだろう。気になって下げていた視線を上げる。ちょうど真琴は箸を割るところだった。
ぱきん。真琴の箸は綺麗に割れた。
「口では誹るけど、本当は、優しいから」
知ってる。
「嫌がる表情は豊かなのに、自分が追い詰められてるときは一個しかないんだよ」
「……」
「笑うんだよ、水希。苦しいときに限って、きれいに。いつも不満を言う口はなにも言わないで」
真琴は一度箸を置いて、眉を八の字に下げる。「ハルのお箸、割れ方、変なの」って、言いたいことはそんなことじゃないだろうが、多分、彼なりの深呼吸なのだろう。だから俺も黙って頷くだけにした。
すいっと真琴の目が泳ぐ。行き着いたのは位置から察するに先ほど俺が見たのと同じものだ。
「水希さ、東京に来る前から、ハルと一緒に歩いて行くって決めたときからずっと言ってた」
「、」
聞かなければいけない。けれど、聞いたらいけない気がした。耳を塞ごうにも手はいうことをきかない。嫌なぐらい聴覚が研ぎ澄まされる。
「ハルとずっと一緒にいられるといいねって、そう言ったら水希、ちょっと困ったみたいに笑ってた。『そうだね。だけどもし俺が遙の重荷になるんなら、俺は離れることを厭わないよ』って」
「、」
「ね? 大事な人の幸せのためなら自己犠牲なんてどうだっていいって言ってたのかもしれないけど、あまりにも素っ気ないよね。そんな、あっさり、ほんと……バカだろ」
きっと真琴は俺に、俺たちになにがあったのかぼんやりと把握しているのだ。
しりすぼまりになっていった真琴の声は、ほんの少し嗚咽が混じっていた。なんでお前が泣くんだよって言ってやりたかったのに、ぐず、なんて鼻をすする音が自分から聞こえてきて。
「なにヤロウが机を囲んで泣いてるわけ、気持ち悪い」って、抑揚もなければ遠慮もない罵声が飛んできてくれればよかったのに。
思えば人に優しくなるほどの余裕がなくなっていたのだと思う。高校時代と比べ遥かにきついメニューや期待の眼差しに、自分でも気づかないうちに追い込まれていた。
「潰れるまで飲むって、こいつらに思慮分別の4文字はないのか……」
「まあまあ……羽目外したかったんだろうよ。許してやれって」
ゆらゆらと体が揺れる。
「……ったく」
「わりぃなあ、ちょうど車は妹に貸しててさあ」
あたたかい。なんだろう。でも、安心する。
「……先輩が謝ることはないです。というより、その、すみません」
「いーよ。暇だったし、運動不足解消にもなるからな! ……よっと」
「……あ。タクシー……」
「……。乗せてるな」
「……はあ」
「ま。しょうがねーって。電話しても今は空きがないって言われたんだし」
「なんでこういうときに限って……」
水希の声だ。それと、確か水希の職場の先輩の声。なんだろう。ゆっくりと瞼を持ち上げる。時折通る車のライトや街頭に照らされてはいるが暗い。外だ。
「こっからだと俺ん家の方が近いから兄貴の方は家に運ぶけど……水希、どうする?」
「さすがに何人も押しかけるわけには行きませんよ。真琴のことだけ、頼みます」
「まったく、ぜんっぜん甘えてくんねーんだから……家まで持つの? そのほっそい体で」
「……確かに先輩や真琴と比べると頼りなく見えるかもしれねーけど、七瀬さんを運ぶぐらいなんてないです」
ぼんやりと見え始めたのは誰かに背負われている真琴の姿だ。なにやってるんだ、真琴のやつ……そう呆れてから自分も同じ状態であることにふと気付いた。
真琴は水希の先輩に背負われている。じゃあ、俺は……?
「……やっぱり人目を引きますよね」
「今さらだって。写真撮られてたしなあ。呟かれてるかもよ? 『成人男性がおんぶしてるなう』とか」
「なうってまだ言うんですか」
「あれ? 死語?」
あたたかい背中、俺と変わらないくせにやけに大きな背中を俺は知っている。
水希。小さくつぶやくと聞こえたのかほんの少し水希が俺を気にした。
「じゃあ俺、こっちだから」
「あ、はい。本当にすみません。真琴のこと、よろしくお願いします」
「任せなさいな! 宿泊費はあとで領収書渡すからさ!」
「……有料かよ」
「はは、ジョーダン。じゃあまたな」
水希が先輩を見送るのを、俺も水希の背中にひっついたまま真似る。
「で、起きてるのかよこのヤロー」なかなか歩き出さないなあと思っていたら声をかけられた。答えるか答えないか迷っていると、水希がゆっくりと歩き出す。……背中、あったかい。
またまどろみかけると「遙」水希の声が鼓膜を揺らす。
「……起きてる」
「二十歳過ぎて男におぶられる気分は」
「……最高」
「落とすぞ」
「悪かった」
水希の脅しは結構な確率で実行される。さすがにそれは怖い。ケツが割れる。骨的な意味で。咄嗟に謝って落とされないようにしがみつく。はあと大きなため息が聞こえた。
「寝ぼけてるハルちゃんに問題でーす。おまえらの勘定を済ませたのは誰でしょうかあ」
「……水希の先輩?」
「真琴とおまえの財布から抜いたけどね」
「…………それは感謝するべきなのか……?」
「さあ」
ゆらゆら揺られて、気持ち悪くなるはずなのに、どうしてか気分はふわふわとしている。よっと掛け声と一緒に担ぎ直された。
「下りた方がいいか……?」
「おまえの千鳥足で歩いたら昼までかかる」
「……さすがに遅すぎるだろ」
不満たっぷりの声で言うと水希がからからと笑った。その笑い声にそっと目を閉じる。あたたかい、あたたかい。
「……なあ、もう一個質問」
「……なんだ?」
冷たい夜風が頬を撫でる。ゆらゆらり。まだ体は揺すられる。
「遙はどうしたら笑ってくれる?」
ゆっくり、目を開く。寂しい夜の街は先ほどとなに一つ変わりない。
「俺は、俺が遙から離れれば、きっと楽になってくれるんだって。そう思ってたよ」
「、」
「遙にとって俺は重荷だったろ?」
――遙。ハルちゃん。どうして気づかなかったんだろう。そんなことが言えるのは幼馴染の橘水希なのに。
あまりに自然な会話だから。あまりに今まで通りだったから。それが一番のことなのに、どうして失ってしまったのだろう。
「なあ、ごめん、ごめんな、結局おまえは楽にすらなってないんだね」
「……ちがっ」
「……遙は優しいよ」
ゆらゆら、ゆらゆら。口がうまく動かない。言い訳じみたことになるかもしれない、それでも、水希に伝えたいことがたくさんあるのに。
「優しいよ」
もう一度言って、水希は黙ってしまった。俺は水希に強くしがみつくだけで、相変わらずなにも言えなかった。
見慣れた外装の家はすぐ目の前だ。何度も俺を抱え直す水希はそろそろ疲れているのだろう。俺も幾分酔いが覚めてきたので下りることにして水希に声をかけた。
「七瀬さん、起きたの」
ああ、いないのか。
「……ああ」
「……泣いてんの?」
よい、と掛け声と一緒に下ろされて久しぶりに地に足をつく。うつむく俺の顔を覗くことも、無理に返事を聞くこともなく、水希は静かに息をついて優しく俺の頭を撫でた。
「泣き上戸?」
「……」
ふるふると首を振った。多分水希は、困ったように笑ったのだと思う。
願うばかりに見てしまったものなのだろうか。さっきのが夢だったのなら、今までのものもぜんぶ、ぜんぶ、夢であればよかったのに。
ふっと目を覚ますと台所の方から薄ぼんやりとした光がさしていた。しばらく横になったままぼうっとしているとぱたんと戸が閉まる音がして一緒に光も消える。なんだろう。ゆっくり上体を起こして気づくが俺の横には見慣れた人物たちが眠っていた。
右側には渚に足を乗っけられて唸っている怜、左側には半分めくれた布団をかぶる真琴。そうだ、そういえば彼らが俺ん家に泊まってたんだった。みんなでウノやら人生ゲームやら、定番のゲームをしてすっかり眠くなったことを思い出した。
「……水希?」
水希がいない。真琴の横の空いているスペースは、思い違いでなければ水希が眠っていたところだ。
布団から出て立ち上がる。辺りを見回したって狭い居間だ。高が知れていた。
「水希っ」
だんだんと夜目がきいてきていたので眠っている彼らを踏まないように歩くことは簡単だった。
台所で人影が動く。真琴なら息を飲んだに違いないそれを、俺はじっと目を凝らして見た。
「……遙?」
ゆっくりとこちらを振り返った背中はちょうどよく月光に照らされてその顔を見せた。間違いなく水希だった。
「なに突っ立ってんの」
水希の持つコップの中身が揺れる。喉が渇いて目が覚めて、という流れだろう。ゆらゆらと水希の方に近づいて、目の前に立つ。
水希は少し目を細めて、不思議そうに首を倒した。
「怖い夢でも見た?」
泣いているとは指摘されなかった。
「……わからない」弱々しく答えて水希の肩に顔をうずめる。なにか、すごく嫌な夢を見た気がする。でもそれがなんだったのか思い出せない。
水希絡みだった。今よりも随分大人らしくなった彼が横にいる夢だった。
水希はしつこくはきかず、黙って俺の背中に手を回してきた。かたんと軽い金属の音。多分水希がコップを流しにおいた音だ。
「夢だろ」
「……ああ」
ぽんぽんと優しく背中を叩かれる。あたたかい。あたたかい体温。胸の奥底からじわじわと広がる熱。ああ、ここにはちゃんとある。
「水希」
「んー?」
「……いなくなるな」
水希の背中に手を回して強く抱きつく。ぐっと苦しそうな声がしたことぐらいわかってた。咎めるように背中に触れた手に気づかなかったわけでもない。でも離す気にはなれなかった。
「……はあ」
呆れとか軽蔑とかのため息じゃなくて、困り果てたため息だってわかったのは、きっとずっと一緒にいるからなんだ。
水希は俺を引っ付けたまま布団の敷かれた居間まで戻り、器用にも俺を引っ付けたまま布団に横になった。
「遙」名前を呼ばれる。
「いなくならないよ」
ふ、と柔らかく笑ってきた水希に泣きそうになったなんて、悔しいから言わないけれど。