※仄暗い
いつものようにベルが鳴り、プシューと空気の抜ける音。遠目にだが、わらわらと降りてくる人集りの中に見慣れたポニーテールを見つけて、またそれがキョロキョロと頭まで動かしているのにも気づき、ひらひらと手を振った。
手を振った、といってもそれこそ渚みたいにブンブン振ることはしない。控えめだったので気付きにくいと思われたが、彼女は、気づいたみたいで。
「!」
ぱあっと顔を明るくして、江はわかりやすいぐらいに嬉しそうにすると、いつもみたいに会釈、改札口に向かう波に紛れた。
江は可愛い。具体的になにが可愛いのかと聞かれると、あげるべき例と適切な言葉に迷うので時間がかかる。つまりうまく説明できないのだけれどとにもかくにも江は可愛らしいのだ。
「水希先輩!」
「おはよ」
「はい! おはようございます!」
やっと人混みから抜け出した江が一直線に走ってきた。へらりと笑う彼女が可愛らしくてつられて俺まで笑いそうになる。
なんだろう。こう、子犬みたいな愛らしさがある。とか本人に言うとむくれてしまうので内緒だ。
「こう、後ろ向いて。電車の中混んでただろ?」
「えっ、髪、ボサボサですか?」
肯定も否定もせず素直に背中を向けた江の髪留めを解いて一旦髪を下ろす。
江はうなだれて「水希先輩に会うからきれいに結んできたのに……」なんてつぶやいた。
一度髪を結う手を止めてしまった。らしくもなくふっと出た笑い声は彼女に届いてしまったらしく、「あ、先輩、今笑いました?」とか拗ねたような口ぶりとは裏腹、どことなく俺をからかうように言ってきた。
「別に?」
「残念です。向き合っていたら、水希先輩の笑った顔、見られたのに」
「……」
「照れましたか?」
「……生意気」
結わえた髪を整えて肩をぽんと叩く形で伝えると、江はくるりと身を反転させた。「しかめっ面じゃないですか」困ったように眉を下げる割りに、やはりからかいがこもっているのだ。
それが不快だと思わないのは、江だから、なんだろう。
「……ほら、いくよ」
「わっ……」
なんて我ながら恥ずかしくなって、やや乱暴に江の手を取って歩み出した。江が驚いた声を出すので焦ったけれど、すぐに調子を取り戻した足音に杞憂に終わる。
俺が乱暴に繋いだ手を、江は優しく繋ぎ直す。
俺の目線より下にある頭がゆらゆら、そのポニーテールを揺らしているのを見てきゅっと胸が苦しくなった。
江は、可愛い。なによりも、誰よりも。
告白はされた側だった。多分江は告白する気はなかったのだと思う。なにせ彼女はうっかり口に出してしまったのだ。
タイムを記録しバインダーに挟んだ紙をにらみつける江の横に立って、お疲れと頭を撫でてやったときに、ぽつりと。好きです、って。
最初はなんのことかわからなかったけれど、ぽかんと間抜けヅラをする俺を潔く認めた江がみるみるうちに顔を赤らめるものだから。なんでもないです、と慌て首を振って、なにも聞かなかったことに、とかベタなことを言う彼女に、「それって自惚れていいの」なんてことを聞いた俺もなかなかだったと思う。後になって考えると鳥肌ものだ。
俺は江が好きだ。それは間違いなく、胸を張って言える、事実。
江と一緒に学校に来て、教室で真琴たちと合流し、午前の授業を流せばすっかり昼休み。弁当は水泳部のメンツで揃い屋上で食べるのが、いつの間にか普通になっている。
一つやりたいことがあったので弁当は真琴に任せて、遙と彼には先に上がってもらった。といってもそんなに大層なことじゃあない。飲み物を買いたいのだと言えば2人はついて行くよと言ってくれたけど、それじゃ待たせる後輩たちに申し訳ないから首を振った。
自販機で好んで飲む缶のミルクティーを選択し、ガコンと音を立てて落ちてきたそいつを拾う。
買ったのは自分の分だけだったが、ボタンを押した直後に江にも同じものを買おうと思いついた。まだ買ってもいないのに彼女がふにゃりと笑うのを想像して、胸のあたりが暖かくなる。
どれにしようかと自販機を見て、ふっと一つの飲料に目がいった。つめた〜いと書かれた青のラベルの上には、山の恵みと書かれたペットボトル。ただの水だ。
ついでだし、遙にも買おう。
なんでそこに至ったのか自分でも不思議だが、手のひらの小銭を数える俺は、飲料2つ分のそれを探していた。
偶然ポケットに入っていた小銭を使ったので、残りは1つ買えるだけしかない。手のひらには180円しか乗っていなかった。我ながら準備が悪いやつだと思いため息をつく。どちらにしか買ってやれないのだが、どうしようか。
と、決まりそうにない問題にぶつかりかけたちょうどそのとき、遙に水を買ってやって、俺自身のために買ったミルクティーを江にやればいいのだと、画期的な案が浮かんだ。特別飲みたくて仕方ないとかいうわけじゃない。俺の考えにどちらかには買わないというものはなかったのだ。
そんなこんなでペットボトルを右手に、缶を左手に持って屋上へ。まず迎えたのは「水希ちゃん遅いよ!」頬を膨らまして言う渚だった。わるいと小さく謝っておく。きょろと見渡せば江はすぐに見つかった。彼女は俺を見ていた。
俺が来るまで律儀にも弁当をあけないで待ってくれていた江の頭を撫でる。お腹空いただろ、ごめんな。そんなことを言うと江は平気だと笑った。
「ほら」
「えっ?」
弁当箱を膝に乗せる江に先ほどのミルクティーを突き出す。
江は缶と俺とを視線で行き来して困ったみたいに眉を下げた。意図が読めないらしい。横で真琴が言葉が足りないよって苦笑したのを睨んで、やる、と付け足した。
「……いいんですか?」
「いいよ」
「これ、水希先輩がいつも飲んでるやつですよね?」
「ん」
「……」
「……別に食べ物飲み物に執着心なんてないってば。やるって言ってんだから素直に受け取れよ、江」
「! ゴウじゃありません!」
俯けた顔を勢い良くあげた彼女は、決して俺の言葉を聞き逃さず一つ指摘してみせた。
こうでもごうでも可愛いと思うんだけどな。とか頭の片隅で思っていると缶を持ち直した江はそれを大事そうに両手で包んだ。
「……ありがとうございます」
にへら、なんて効果音がつきそうな、柔らかい笑みを浮かべた江に、渡したかいがあったものだと報われる。どういたしまして。小さく口にしてむずかゆいのをごまかすようにそっぽを向いた。
「真琴、俺の弁当」
「届かないだろ?」
「こっちに投げてよ」
「ええ? それはちょっ……ってハルゥ?!」
弁当を投げると中身が云々言いたかったのだろう。
双方が動く気などないことを察し、かつ焦れったく思ったのか、真琴の横に座っていた遙が真琴から弁当箱をぶんどって、俺の方へ投げた。
ぽーんなんて柔らかい放物線を描かず一直線に飛んできた弁当箱を慌てて受け止める。ここでもし俺が受け取ることができなかったのならそれこそ真琴の危惧した事態に発展するところだった。
ちょっと雑じゃあないか。ジロリとした目で恨みがましく見てやると遙はなぜか俺を睨み返してふんと鼻を鳴らした。……なんで怒ってんの?
「あ。遙」
弁当の蓋を外そうとしたときにペットボトルの存在を思い出して遙を呼ぶ。
遙は俺を無視したがっているようだが、しぶしぶと俺を見た。それを確認して、ペットボトルを投げる。ちなみに遙と同じように、不親切に、だ。
「危な……っ!」
慌てた遙だけどうまく受け止めたようだ。ばしんと手にペットボトルが当たる音に驚いたのは、どちらかというと遙ではなく、真琴の方だった。ペットボトルと俺とを交互に見る遙に既視感を覚える。
「やる」
そのあとの遙を見ることはしなかったので、彼が喜んだのかは定かでないが、後頭部にペットボトルが投げつけられなかったのを考えるに受け取ってはもらえたのだと思う。
正面を向くとどこか曇った表情をする江がいた。どうしたのだろうかと首を傾げたが、声をかけても聞こえそうになかったので彼女の弁当から卵焼きを拝借する。
「……あ! ちょっ、水希先輩!」
さすがに気づいたのか江が慌てた。その頃には卵焼きはすっかり俺の口に入っていたのでどうしようもない。もぐもぐ口を動かしつつじっと江を見ると、諦めたのか肩を落とした。
「おいしいよ」飲み込んでから伝えた。
江が目を丸くしたあとに恥ずかしそうに俯いたのを見るところ、彼女の手作りだろうという読みは外れていなかったらしい。
「……ずるいです」
「?」
何がずるいのか。聞きたくもあったがなんとなく聞かなかった。先ほどの晴れない顔よりもそういう顔の方が可愛い。江が俺にからかわれた後によくするいじけた表情にほんの少し口角があがるのを感じた。
その後ご飯を食べ終えてからは、渚が鬼ごっこをしようよなんて突拍子もないことを提案した。曰く食後の運動らしいのだが、こんな狭いところで鬼ごっこもくそもないだろう。
俺は丁重にお断りし壁に寄りかかった。巻き込まれたのは3人。怜は勿論、押しに弱い真琴、筋肉云々、わけのわからない説得に折れ(騙され?)た江だ。
遙はしれっとした顔で断った。いつもならなんだかんだいってのるくせに、珍しい。多分、俺も含み、遙にも断られた渚は最初こそ落ち込んでいたが、4人で鬼ごっこを始めてからはすっかり夢中になっていた。
「水希」
午後の初っ端はなんだっただろうかと、時間割を思い出していたときに声をかけられた。渚たちはきゃいきゃいと小学生みたいにはしゃいでいる。
「どうかした」
次の授業なら体育だと思い出したのは遙の目を見てからだ。理由なんてない。ぽっと思い浮かんだのだ。
「水」
「うん」
「……嬉しかった」
「……おう」
「……ありがとう」
「……おー」
小さな声だが聞こえていた。
恥ずかしそうにする遙につられてこっちまで声が震えかけた。
なんだか見ていられなくて遙から目を逸らす。ちょうど鬼が渚から怜に変わるところだった。
「……水希」
「?」
また呼ばれたので首をひねる。
遙の青い目がやけに真剣にしていた。
まだ何か用かとか、そこだけ聞けば喧嘩腰なセリフは喉に引っかかって出てこなかった。そっと近づいてきた顔に、鼻先の触れるぐらいの距離に、何をされるのか理解していたはずなのに。頭は冷静だった。なのに拒まなかった。
唇が触れ、離れてから、しばらく無音、世界は目の前の遙以外、真っ白であった。
「ああっ! あんなところに素敵な上腕二頭筋がーっ!」
「えっ?! どこどこ?!」
渚と江の声でやっと返ってきたも同然だった。弾かれたみたいに渚たちを見ると、江が渚に騙されたところであった。素敵な上腕二頭筋とやらを探すために渚の指差す方向を見ていたところに、後ろからきた怜が彼女の肩を叩いた。鬼交代だ。
真琴も渚も、怜も。怒る江に笑っている。
時間が再び動き出す。彼らを認めてかあっといっぺんに顔に熱が集まった。あれは、多分誰にも見られていない。
咄嗟に口を手の甲で押さえつける。なんの助けにもならないのに。
わからない。なんでキスなんかされたんだ。どっどっ、打ち付けるみたいな鼓動。驚いたからこんなに心音が騒がしいのだろうか。わからない。なんで気持ちわるいと思わないんだ。どうして嫌悪感が湧き上がってこない。
手は震えた。横の遙なんて怖くて見られなかった。
そのうちに予鈴が鳴ったことはぼんやりとしか覚えていない。渚たちが息を切らして戻って来るのも。記憶は朧だ。反応の悪い俺を心配した江に気分が悪いのかと聞かれてなんと答えたのかすら。
ただただ遙はいつも通りだった。よもや白昼夢でもみたのではないかと錯覚してしまうぐらいに。それだけは、はっきりしていた。
江が好きだ。俺にからかわれて子どもみたいに口を尖らせる彼女も、バインダーを持って真剣な目をしている彼女も。筋肉のこととなると饒舌になるのも、全部、全部。
俺の名前を呼んで駆け寄ってくるときの、しんから嬉しそうな表情が愛おしい。守ってやりたいし、幸せにしてやりたい。大事に、したい。
遙はなんなのだろう。彼は幼馴染だ。小さい頃から一緒にいたから、気にかけるのは当たり前な存在。兄弟みたいなものだと思う。
その遙にキスをされたとき、どうして俺はやつの頬を引っ叩いてやれなかったのだろう。どんなに彼が近い距離の存在だろうと、そんなことをする間柄じゃないはずなのに。
それとも、負の感情が生まれなかったのは、近い間柄ゆえだろうか。混乱とは裏腹、あのキスもちょっとした戯れ程度に片付けてしまっている?
だとしたら今、江に対して湧き上がっている罪悪感はなんなのだろう。あれがおふざけだったのなら、江に申し訳ないなんて思わないはずなんだ。
俺は遙にキスをされたあと、混乱の最中でどう思った。少し舞い上がったんじゃないか? でもどうして? わからない。自分のことなのにわからない。
「水希」
「、」
「早く部室に行くぞ。真琴は鍵を開けないといけないから先に行った」
ぼんやりしているうちに終礼は終わっていたようだ。遙に肩を叩かれ過剰な反応をみせてしまったが、彼はなんら気にしていないようで、至っていつも通りであった。
遙も先に行けばよかったのにわざわざ待っていたのは真琴にそう言われたからだろうか。いずれにしても彼に迷惑をかけた事に変わりはない。
「……わるい。ぼうっとしてた」
やっぱり、気にしすぎ、なんだろうか。もやは晴れない。けれど遙は「至っていつも通り」だから。
なかなか水に触れられないことにイラついているのだろう、眉を顰める遙に謝って立ち上がる。机の横にかけたエナメルバッグを肩に担ぐだけなのにその動作さえもたついた。
いらいらする、いらいらされている。遙の視線に落ち着くことができない。
「……水希」
急にネクタイを引っ張られ体勢を崩す。足はもつれ、悲鳴を上げる暇もなく遙に飛び込んだ。抱きつくような感じだった。流れで遙の胸板に手をついてしまった。熱い、体が熱い。どうして。
離れろという指令は難なく出た。それなのに、従えなかった。
「……っ、遙」
「本気で拒まないと」
あれは白昼夢なんかではなかったのだ。すました顔をする遙はいつも通りをうまく装っていた。
耳元で言われ身が固まる。それなのに心臓だけ別の生き物みたいにばくばくと跳ね上がっていて。
「“そういうこと”だって、受け止める」
口内はからからだった。息すら怪しいのに声なんか出るわけがなかった。
背中に回された手が熱い。俺の名前を呼んで嬉しそうに笑うあの子が眼前にはっきり見えて、消えそうにない。
両手は自由なのにどうして遙を突き飛ばさない。どうして拒絶しない。どうして、どうして。
揺らめく赤、滲む青。
大切なのはだれだ。一緒にいたいのは、喜ばせたいのは、守ってやりたいのは、名前を呼んで欲しいのは、今俺が心に強く思うのは。
「――――」
自分自身のことなのに、何を発したのかさえ、わからなかった。とにかく俺はとんでもなく厄介な感情に足を突っ込んでしまったらしい。
江は好き、遙は――。
「水希、好きだ」
江とは別れろとか。言われてカッとしたのは嘘じゃない。言い返そうとも思ったのだ。なのに。
もう一度触れた口先。絡められた手のひらは、熱い。
◆
水希先輩はわたしのことが好きだ。断言してしまえるのは彼の双子の兄である真琴先輩がそう言っていたからでもあるけれど、なによりわたし自身、思われているというのをひしひしと感じるからだ。
水希先輩は優しい。彼はきっと無意識だけれど、大事な人は、自分も相手もダメにしてしまうぐらい、どろどろに甘やかす。身内贔屓の激しい人なのかもしれない。傍から見ていればわかる。うちとそととでは、彼の態度はまったく違った。
付き合い始めてからは真琴先輩たちと登校するのをやめて、駅まで迎えに来てくれるようになった。ずっと一緒にいた先輩たちから無理して離れさせたようで申し訳なかったけれど、反面、わたしを優先してくれていることはどうしようもなく嬉しかった。
名前を呼ぶとゆっくり振り返ってくれる。優しいその目が大好きだ。髪を結い直してくれるその手が好きだ。キスをしたあとにはにかんでみせるのが好きだ。
腹筋が素敵ですよねってうっかり言ってしまったときの、照れているとも呆れているとも、あのなんとも言えない表情を知っているのはわたしだけだといい。
遙先輩は読めない人だ。
わたしが水希先輩と付き合うことになったとき、彼のいない場所で祝福してくれた水泳部のみんなの中に、もちろん遙先輩もいたのだけれど、心からお祝いしてくれる渚くんたちとはどこか違った。おめでとう、とは言ってくれた。だけどそれだけだった。もとからあまり笑う人ではないのだろうけれども、あのときは特段笑っていなかった。
水希先輩は水泳部のみんなのことを大事に思っている。先輩は不器用だから言動が素直になれないことも多々あるけれど、みんなちゃんとわかっている。中でも幼い頃から一緒にいるあの2人には、もっと甘いものを抱いている気がした。厳密に言うと、水希先輩がより大切にしているのは、遙先輩だ。遙先輩には、もっと優しくて、もっと甘えたで。
男の子同士の強い絆とかいうものがあるのだろうかと、お兄ちゃんに聞いたこともあった。そうするとお兄ちゃんは、ハルと水希はしょうがねえよって電話の向こうで笑っていた。何がしょうがないのかまったく理解できなかった。
「あいつらはしょうがねえ」もう一度言ったお兄ちゃんは、それでどうして急に2人のことを聞いてきたのかと、探るような声音で言った。まさか水希先輩と付き合っているなんて、そのとき咄嗟に言うことは、心の準備ができておらず不可能で。なんだか2人は特別な関係みたいだからって、あとあと考えればわけのわからないことを言った。
数拍間をおいて返ってきたお兄ちゃんの言葉はひどく心にのしかかることになる。
「まあ、あいつらはお互いが特別だろうな」お兄ちゃんはなんてないように断言したのだ。
水希先輩は見ていなかったけれど、水希先輩にペットボトルを投げ渡された遙先輩はぐうっと喜びに耐えるように唇を真一文字に結んでいた。
水希先輩に渡されたミルクティーを握りしめる。さっき舞い上がった感情は一瞬にして撃ち落とされていた。
わたしだけ特別というわけではなかったのだ。いつだってそう。水希先輩は、わたしと遙先輩に、優しさを二等分する。
お兄ちゃんの言葉は嘘ではない。
水希先輩がわたしを大切にしてくれているのを充分に感じるのと同様、彼が遙先輩も大事にしているのは十二分にわかるのだ。
――いやだ。
わたしだけが特別でありたいと言ったら水希先輩は困るだろうか。面倒くさい女だと眉を顰めるだろうか。
嫌われたくない。そのためなら都合のいい女でいられる。いい子でいるのはきっと苦じゃない。
ふと意識が戻ってきたときに目に飛び込んできたのは穏やかな淡い緑色。わたしだけを映すその瞳は優しすぎて、息が詰まった。
水希先輩は、遙先輩が好きですか? 出かかった言葉を飲み下す。聞くべきではないと思った。聞いてしまうと、反って水希先輩自身も気づいていない、余計なものを喚び起こしてしまうような気がしたから。
代わりに出たのはずるいです、なんていう非難。水希先輩はわけがわからないと首を傾げたけれど、その柔らかい表情を崩さなかった。愛しいものを見る目、わたしだけが知っていたい瞳。わたしだけに向けて欲しい。この人が大好きだ。大好きなのだ。だから不安がつきまとう。恐怖で弱くなってしまう。
万が一、水希先輩の中にある天秤が振れてしまったら、水希先輩がわたしから離れてしまったら、あの人の元に行ってしまったら。わたしは果たして冷静でいられるだろうか、水希先輩を、壊してしまわないだろうか。
想像しただけでぞっとする。わたしから先輩が離れてしまったとき、きっと彼の前に立つわたしはもうわたしではない。
愛情と憎悪は紙一重らしい。
いつか水希先輩の細い首を絞めてしまいそうだ。今だってそう、水を飲み上下する喉仏をぼんやり追う自分が自分でないようで、ああ、どうしようもない。