ひゅう、と隙間から吹きつけた風に無意識に足をすり合わせる。
誰だ、教室のドアをきちんと閉めていないのは。
もともと授業を真面目に聞いているわけではなかった遙なので、一旦それが気になると、どうしても意識してしまい、「おい、ドア付近の席のお前、しめてくれ」なんて念を送ってみるのだが、遙と違って授業を真面目に聞いている生徒が気づくわけがない。
あきらめた遙は頬杖をつき、窓の外を見た。
夏までは緑色をしていた葉っぱは、今じゃ茶色に焦げている。
心内、「夏の日差しに長いことあたって日焼けしたか」とらしくもなく葉っぱに話しかけたのだが、これもまた気を紛らわそうとしていただけで他意はない。
ひゅるりと一枚枝から外れた葉っぱが冷たい風を想像させ、遙は嫌になった。身を縮ませ暖を取ろうとしながら、退屈な授業と寒さから逃げるように目を閉じた。
屋外プールや海で泳ぎ放題な炎天下は過ぎ、鈴虫の鳴き声に目を細めるような涼しい季節も過ぎ、今じゃ学校の生徒全員がブレザーの裾をどうにか伸ばして指先まで隠そうとするほど寒い、冬だ。
渚はこの季節は雪が積もるとみんなで遊べるから好きだというが、遙はこの季節になると泳ぎに制限がかかるからあまり好きじゃない。
どこで泳ごうにも水が冷たすぎて、結局は家の風呂に落ち着いてしまう。
冬の屋外プールのプールサイドに水着で突っ立って、「俺は泳げます!」張り切って飛び込み台に立ってダイブすることなんて、さすがの遙だってできないのだ。
(……早く泳ぎたい)
まだ12月。
8月から12月までは意識する間もなく過ぎていったのに、この月になって以来日めくりカレンダーの枚数がなかなか減らない。
あと何日過ごせば広いところで泳げるようになるんだろう。
春の匂いすら感じられないこの季節が、ひどく億劫だった。
一番後ろの席といえど、遙は窓にピタリとくっついた席の一つ横の列なので、窓の外をのぞくと必然的にそちら側の列にいる生徒の姿が目に入る。
窓側に7つ並んだうちの前から4番目とかいう、微妙な位置にいる水希も例外じゃなかった。
今は数学の演習中なので、問題に対する話し合いをこそこそ行うぐらいならば教師に強い視線を飛ばされることはない。
だから無愛想なあいつも、ノートを片手に振りかえるクラスメイトを蔑ろにしないのだろう。
水希はくるくると指先でシャーペンをもてあそぶと、不意にそれを止めて、クラスメイトの見せるノートを先端でつついた。
じっとそれを見たクラスメイトがパッと明るい顔をしたのできっと計算ミスやらなんやら、教えてやったのだろう。
クラスメイトはまた前を向くついで、お礼なのか何なのか、くしゃりと乱暴に水希の頭をなでた。
突然のそれに拒むことをできなかった水希の動きは耳をくしゃんとつぶされたネコみたいだった。
すると、どうだろう。遙はさっきまで僅かに開いたドアから吹き込む風に苛立っていたのにそんなことすっかり忘れてしまっていた。
おもしろくない、とずっと思ってはいたのだがその対象が違う。
今の今まで水希の頭をなでるようなやつ、真琴以外にいただろうか。
答えは言うまでもないが否だ。
そんな奴一人もいなかったし、まず水希に問題の質問をするような人もいなかった。
なんてったってツンドラ気候、なんの防寒具も身につけず足を踏み入れてしまえば即座に凍てついて死んでしまう。
おもしろくない。俺だってそんなに頻繁にはあいつに触らないのに。あんなひょいっと軽く手を伸ばせないのに。
嫉妬以外の何物でもなかったが、遙はそれを嫉妬とは名付けず、水希の頭をなでたクラスメイトではなく頭をなでられた水希をキッと睨みつけた。
あんまり気を許すなよ、俺と、真琴以外に。
口には到底出せそうにないがそれは切実な思いだ。
「、」
と、ふっと水希が後ろを振り返るものだから、しかも何の予備動作もなく目まで合わせてきたので、遙は完全に不意打ちを食らって頬杖をついたまま水希の双眸を見守るしかなかった。
呼んでもないのに振り返るなとやはり心内で文句を言っていると、何を思ったか水希がブレザーの内ポケットに手を突っ込み、そこから冬の心強いパートナーであるカイロを取り出し、ひょいと遙に向かって投げた。
遙はそれをまさか顔面で受け取るわけにもいかないので、咄嗟に頬杖を解いて受け取り、一体何の真似かと水希に怪訝な目を向けた。
単なるいやがらせかとも思ったが、カイロはほどよく熱を持っているのでゴミを投げ渡してきたわけじゃないらしい。
水希は何も言わず微かに笑っただけでまた前を向いてしまった。
その行動にきょとんとしているのは遙だけじゃない。
遙の横の席であるクラスメイトなんかはじっと遙を見て、「水希、笑ったな」とわざわざ言葉にして見せた。
そんなこと言われなくても分かっていると横の彼を疎ましく思いつつ、遙は「そうだな」と素っ気なく答え、半分ぐらいは数字で埋まったノートに目を落とした。
机の上に出しておくわけにもいかないので、カイロは、水希と同じようにブレザーの内ポケットに直しておいた。
#
数学の時間も終わり、待ちに待った昼休みだ。
手洗いに行くためか廊下に出た水希を遙は追いかけた。
暖まった教室と違って廊下はひどく寒い。手の先から冷えていくようなそれに水希が袖に手のひらを隠そうとしたのがわかった。
「水希」
名前を呼ぶと数歩先を歩いていた水希が立ち止まり、後ろの遙を見て不思議そうに首をかしげる。
「なに?」と聞いてじっと遙を見つめる彼は、追いついた遙が自分と肩を並べても歩きださずに遙の返事を待っていた。
カイロ、と遙は聊か言葉の足りないセリフを口にする。
それでも水希は納得したのか、ああと半ばため息のような相槌をしてまた足を動かした。
「遙が寒いだろうと思って」
後ろを見たら妙に身を縮こまらせていたから、と付け加え、水希はどうにもならない手先をスラックスのポケットに避難させる。
遙もまた水希のように素っ気ない返事をして口を噤んだ。
あのカイロにはそこまで特別な意味がなかったらしい。
それがわかった今特に話すべき用事はないのだ。
かといってくるりと方向転換するのもおかしな話なので水希の横を歩いたままでいると、「ついてくんの?」と水希にまたも首をかしげられた。
遙が言葉に詰まるが水希は気にするそぶりも見せず言葉を補ってみせる。
「下でココアでも買おうと思ってるんだけど、おまえも来る?」
「……ああ」
どうやら手洗いではなかったらしい。
まあ他にすることもないしと、遙は頷いた。
屋外に設置された自販機にたどり着くには当たり前だが校舎から出なければならない。
トビラから出る時なんかは強い風が吹きつけてきて、揃って身を震わせたが、外に出てしまえばそんなものはなくなる。
しかし寒いことに変わりはなかった。
うーっと肩を縮こまらせる水希を見ているとただでさえ寒いのがもっと寒く思えてしまって、遙は水希の腕とわき腹との間に手を滑らせ、彼のブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
はじかれたように水希が顔を上げ、「……目敏いな」とつぶやく。
ぽかぽかと温かい右ポケットには、カイロが潜んでいたらしい。
そんなこと予想もしていなかった遙は呆れた顔で水希を見た。
「何個持ってるんだ」
繰り返しになるが、目敏い、と言われた遙は水希のポケットにカイロがあることを知っていたわけではない。ただこの冷たくなってきた手先を庇うために、彼の体温で暖まっているであろうそこを利用させてもらおうと思っただけだ。
もしここで誰かにそれならどうして自分のポケットじゃなかったのかといわれると遙は言葉に詰まってしまうだろう。
遙にはその理由がしっかり分かっていたし、その理由こそ子どもみたいなものなので口にするには恥ずかしかったのだ。
「遙にあげたのと、ポケットに入ってるのだけだよ」
「本当か? 貼るカイロとか」
「さすがにまだだって」
これから貼る予定がないわけじゃないらしい。朝からせっせとカイロを肌着に貼りつけている(はたまた真琴に貼ってもらっている)水希を想像するとそれはそれはシュールで遙はつい笑ってしまった。
水希のように何か温かい飲み物を飲みたいと思う生徒はちらほらいるようで2人が歩く道には、2人と同じように肩を上げて歩く生徒がぽつぽつ歩いている。
時折吹く風に地面に落ちた枯れ葉がカサカサ音を立てて踊った。
水希のポケットの中にあるカイロをぎゅっと握ってみる。
ちょっと、熱くなりすぎなそいつは外にいる遙にはちょうど良かった。
――なんで水希のポケットに手を突っ込んだかって、そりゃ、平然と彼の頭をなでていたクラスメイトに負けていたくなかったからで。
「まだ泳げないな」
自販機がやっと見え始めたころにぽつりとこぼした水希は遠目に見えるプールを見つめていた。
遙も同じようにプールを見る。
きっと今頃、藻を浮かべるプールでは微生物がふよふよと泳いでいるのだろう。水泳部創立のときの掃除だって半端なものではなかったが今年も大変そうだ。
「遙、500円取って」
「?」
「そっちのポケットに入ってるから」
自分は手を出したくないのだと暗にそう言っているのだろう。
ちょっと指先を動かすと小銭とはそう苦労せずに出会えた。
彼もまたこのポケットで暖を取っていたらしく、金属らしい冷たさはない。
遙がそれを握って水希に手渡しすると「ありがと」といって水希はそれを右手から左手に移し、宙に浮いた遙の手ごと、右手は己のブレザーのポケットに突っ込んだ。
遙は驚いて水希を見るが、彼はほうと白い息を吐いて何食わぬ顔をしている。
遙がすれば学校だからと渋る水希が一体どうしたのだろうと思考回路がついていかない。
遙が混乱するのをよそに、ポケットの中で手が恋人つなぎに組み直された。
「水希」たまらず名前を呼ぶと、遙に一瞥をくれた水希が「寒いから」と小さく口許を動かす。
「でも、お前」
「これならあまり目立たないだろ」
何か不満、と疑問符すらつきやしない言葉と一緒に軽く睨むような視線を投げられてしまえば遙は黙るしかなかった。最近お目にかかれなかったデレが発動したらしい。
「いや……別に」なんて、それだけ言ってそっぽを向くと緩んでしまいそうな口を遙はしっかりと結んでおいた。
自販機の前に立って、迷いなく小銭を入れればぴかっとボタンが点灯する。
水希は赤く光るボタンを押した。宣言どおりココアを選んだらしい。
ガコンと落ちてきた缶の横ではカラカラと小銭の戻ってくる音がする。
水希に頼まれたわけではないのだが、彼がかがんでココアを取り出すうちに遙も小銭を取りだした。
ちなみにその間もブレザーの中に潜めた手はそのままだ。
「遙もなんか買えば」
「持ってきてない」
「お釣りが戻ってきただろ」
すなわち奢ってやるということだろう。
「……」
いいのか、と目だけで訴えると「寒い中ついてきてくれたんだし」と水希がふっと目を細める。
それでも遙が決められずにいるときゅっと左手を握られた。
ああもう、遙は内心頭をかきむしる。
やめろよ、そういう、ちょっと可愛いなとか、思ってしまうじゃないか。
「ついでに真琴のも選んで」
あげて落とすとはこのことか。
このブラコンめと言いたかったが、遙には水希を睨む余裕もなく手を強く握り返してやるので精いっぱいだった。
ただただ自販機の前に突っ立っていると、「はやく」としまいには急かされてしまい遙は戻ってきた小銭を投入口に滑らせた。
つないでいない手まで温かく思えてしまうのはなんなんだか。我ながら呆れる。
憎らしくてしょうがなかった幼馴染が今はこんなに愛しいのが悔しい。
遙が飲み物を選ぶ横で水希は先ほど買ったココアを頬にあて、あったかいと誰に言うわけでもなくこぼしている。
なんとなく、遙は水希の手をぎゅっと握った。
遙を見た水希が、自販機の点灯したボタンを見て「おまえもココアにすれば」という。
決まらないと訴えたとか、そう言う意味じゃなかったのだけれど。
まだ夏が、いや春の匂いがしなくてもいいかもしれないと、こっそり思うのを叱りつけるように不意に吹いた冷たい風が遙の頬をなでた。