※※大学生


 薄暗い室内の輪郭を捉え、水希は2,3度繰り返し瞬きをする。
 ぐんと寝がえりを打ったはいいが、しばらくは上体を起こす気になれず、ただぼんやりと、デジタルの時計がチカチカとコロンを点灯させているのを見つめていた。
 この世に生を授かり早20年にもなろうとしているが、どうも、朝の気だるさに慣れることはできない。
 ずっと寝ていたいが、そういうわけにもいかない。液晶に表示された数字にやっとあきらめがついたのか、水希はいかにも大儀そうに上体を起こすと、大きなあくびを一つこぼして、床に足を下ろした。
 部屋を出て短い廊下を歩くと少し軋む。
 結構年期の入ったアパートは、比較的きれいな一戸建て出身の水希にとってはなかなか新鮮なものだ。
 それがいいのか、と問われれば、いまいち曖昧なところだけれど。
 あまり広いとは言えないリビングに出ると、律儀にも朝食の準備がしてあった。
 流しには、すでに使用された皿が一枚、水に漬けてある。
 なるほど、ヤツは今日もか、と寝ぼけた頭で納得しながら、目をこすり、椅子を引いて腰掛けた。
 皿にのったパンを手に取ると、まだほんのり温かい。それを一口の大きさにちぎり口に含みながら、水希はテーブルに乗ったリモコンを手繰り寄せ、テレビの電源をつけた。
 静かだった空間に、レポーターの声がフェードインする。
「――本日の東京都内の天気は晴れ、午後も雨の心配はないでしょう」
 もぐもぐと口を動かし、嚥下する。
 ちょうどいいタイミングでテレビをつけたらしい。
 必要かは知らないが、あとで彼にも伝えておくか、と考えて、テレビから目をそらした。
 テーブルに並ぶ朝食も、あと少しだ。
 水希がオレンジジュースでサラダを流し込んでいるとき、ピンポン、と未だ馴染みのないこの家のインターフォンが鳴った。
 もうそんな時間か、と水希は面倒くさそうに目を細める。
 本当ならば無視して食事を続けたいのだが、来客者の目的の人物は戸をあけれるような状態ではないし、来客者が一体誰なのかわかってもいるので、そういうわけにはいかない。
 水希は見ている人がじれったく思うようなマイペースさで立ち上がり、1度インターフォンを鳴らしてから黙っている来客者のもとへ向かった。
 上京しても変わらないやり取りに水希は律儀だな、と、呆れ半分感心する。
 面倒だとか、億劫だとか、そろそろ独りで立てるようにしようとか、思わないのだろうか。
 そんな水希自身の見解を世話焼きなかの人に言っても、どうせ苦笑いで誤魔化されるのだろうから、彼は言わない。
 チェーンまでもきちんとかけられたドアを開き、人も確認せずに水希は言った。
「おはよ」
 そしてこれまた返事も聞かずに室内に戻っていく。単に鍵をあける役目だけをこなしに来たらしい。
 来客者である真琴は我が双子の弟のあまりに淡泊な挙動にしばらく呆然としていたが、せっかく開いたドアが閉まっていくのに気付き慌ててノブをつかむと、ふう、と疲れた息を吐き、「おじゃまします」と一言、部屋に上がった。
 真琴は風呂場に向かう前に、リビングでゆっくりとパンを飲み込んでいる水希の肩をたたき、彼が振り返る前に「おはよう」と先ほど返せなかった挨拶をする。
「うん」
 こくり。
 寝ぼけ眼で頷く水希に真琴は小さく苦笑する。朝の反応が悪いのは、何年たっても変わらないらしい。これでは何か会話を繰り広げようにも、適当な相槌しか戻ってこないだろう。
 真琴はぽふぽふと水希の頭をなでて、本来の目的である人物のもとへと足を向けることにした。
 それにしても、この2人が同居することになるとは。
 軋む床を歩きながら、真琴は思考に耽る。
 遙と水希がルームシェアをすることになった発端と言えば、まず、橘家の仕送り問題だ。
 どちらか一人ならともかく、双子が揃って上京するという事態。しかもそれぞれに家賃などに充てるお金を送っていたんじゃ、まだ幼い子供もいる橘家ではわずかに胃が痛いものだった。
 それを両親が申し訳なさそうに彼ら兄弟に伝えると、きょとんとした顔の水希が言ったのだ。
「じゃあ俺、誰かとルームシェアする」と。なんてない様子で。
 だれかって誰だ、と真琴が慌てたのが夏前半の話。
「同じ大学が進路の友達に聞いてみる。いなかったら真琴でいいよ」と水希は言った。
 “で”いいよ、とはなんぞや。
 真琴はもはや言い返す気力もなかった。
 どうしてこの弟は変なところで無頓着なのだろうか。ルームシェアの案はいいが、相手はもっと慎重に選ぶべきだろうに。
 それなら負担が少なくなるんじゃないだろうか、と水希は両親にいい、ついでにバイトもする旨を伝えた。
 だから自分に対する仕送りはそんなに必要ないと、言いきった。いつまでも親の脛をかじるつもりはないから、大丈夫だと。
 その自信はどこからわいてくるのだ、と気後れするほど、彼ははっきりと言った。
 両親も水希のその堂々たる威勢に打たれ、納得したのだ。
 そしてそれを遙が知ったのが、水泳部の全国大会も終わり、木々が淋しく葉を揺らす季節になってからだ。
「そういえば、水希はルームシェアの相手、見つかったのかなあ」と真琴が半ば独り言のように呟いたのを、彼が拾ったのだ。
「ルームシェア?」すぐに遙は聞き返した。
 真琴は「あれ? 水希に聞かなかったの?」と相槌代わりに不思議そうに言い、頷いた。
「誰とだ?」
「同じ大学に行く友達って言ってた。いなかったら俺とだって」
「……」
 黙りこくった遙を真琴はさして気にすることなかったのだが、しばらくして遙が急に席を立つものだから、いったいどうしたのかと怪訝な目を彼に向けた。
 遙は、妙に不機嫌な顔をしていた。
 不穏な雰囲気を遙がさらけ出す中、ちょうどお手洗いで席を立っていた水希が帰ってきた。
 遙はだれよりも早くその姿を捉えると、ズカズカと歩み寄り、ズンと重々しく水希の目の前に立った。
 これにはさすがの水希も口角を変に上げ、お得意の嫌みが飛び出ないほどに、引き気味であった。
 何を言われるのか、と身構えていた水希に降りかかったのは、「ルームシェアの相手、探してるのか?」と、なんとも拍子抜けな言葉だった。
「あ。うん」
 思わず水希は、抜けた返事をした。
 遙は何かを思案するように眉を寄せ、ジッと水希を見て、ふいっと顔をそらす。
 最初こそ調子を狂わされていた水希だったが、次第に平常のものに戻ったのか「言いたいことあるなら言えよ」不機嫌そうに言い捨てた。
 ああもう、またケンカする、と真琴は額に手を当てたい気分になった。いつでも仲裁に入れるようにと、無意識のうちに2人を見守る。
「……なんで俺に言わなかった」
「? 言う必要がないだろ」
 遙の機嫌がぐんと右下がりする。
「……というより、大学、水希も東京なのか」
「あれ……それも言ってなかったっけ」
 自分をというより遙を訝る水希。遙の機嫌を表す直線は原点を通り、第4象限へと突入した。
 水希も決して鈍くはないのでそれぐらいわかっているのだが、どうも気の利いた言葉は思いつかない。
 真琴がいよいよ間に入ろうと立ち上がった。
「……って、進路の話、おまえが嫌がるからしてなかったんだよ。なんで俺が悪いみたいになってんの」
 閃きすっきりした様子だ。水希が上ずる声で遙に言った。
 ――その件に関しては言い返す言葉が見当たらない。確かに自分の目標が見つかる前までは、タイムや順位に拘りを持つ決意をする前までは、進路の話はたとえそれが他人のものだろうと、自分が突っぱねていた。
 とにもかく遙は水希の言葉に完全に虚を衝かれたのだ。
 いつの間にか隣に来ていた真琴がケンカした日のことを思い出したのか苦笑する。
 ますます遙は立場が悪くなった。
「仕送りの問題で、水希はルームシェアの相手を探してるんだよな?」
「うん」
 なぜ改めて真琴に問われることになったのかと、そんな疑問はすぐに解消した。
 遙が水希に聞きたいことを真琴がそれとなく水希にしゃべらせているのだ。
 遙はどうしてかだんまりになってしまっているので、フォローをいれているわけだ。
「相手は見つかった?」
「まだ。俺と同じ志望校の人、あんまりしゃべったことがない女子ばっかだし」
「……」
「……遙、おまえなんの心配をしてるわけ。さすがにその人たちには提案しないよ」
 貴澄じゃあるまいし、と続けられた言葉に真琴が微妙な顔をした。水希は貴澄を何だと思っているのだろうか。
 しかし遙は依然渋い顔をしたまま水希を見ている。
 水希はいよいよお手上げ状態となって、「でもまあ、一人だけもし受かったら一緒に住もうって言ってくれた男子がいるんだけどさ」この話は終わりだと、2度手を叩いた。
 水希は、とんだ爆弾を放り投げたことに気づいていないらしい。
 遙も真琴も石化しているのに彼だけは涼しい顔をしているのだから。
「……え、それって、誰?」
「隣のクラスの渕上くん」
「ふちがみ? 誰だそれ」
「家庭クラブの人」
 その一言だけでなんとなく、その候補者の友人と水希とのつながりは見えてきたのだが、真琴も遙も素直には頷けなかった。
 真琴はその男の素性を知らないのであまり気乗りしないし、遙は「水希にもちゃんとした友だちがいたのか」と思う反面、やはりどうしてかおもしろくなく不機嫌な顔をするしかなかったのだ。
「だから、大丈夫だと思う。ダメだったら真琴と住むし」
 さっぱりわかっていない水希だけが、次々と爆弾を投下していくわけだ。
 そこでやっと現実に還ってきた遙が、昼ごはんの準備をする水希に質問を投げかける。
「……なんでわざわざ真琴以外なんだ?」
「なんでって、そりゃ大学にもなって真琴と一緒ってわけにもいかないじゃん」
 カバンから出された弁当箱は2つだ。
 それに気づいて「あ、俺もしかして忘れてた?!」と真琴が驚くのを水希が冷静な目で見つめる。
「机に置いてあった」水希に弁当箱を渡されながら、真琴は眉を下げた。
 ならばそのときに言ってくれればよかったのに。
「ブラコン卒業はムリだろ……」
「なんとでも言え」
 ぼそっとつぶやいた遙に水希はハンと鼻を鳴らした。
 いつもならギャンギャンと躾の悪い犬のように吠えてくるのにどうしてか今日は効かないらしい。
 ゆえに遙はムッとする。
 構わず水希は続けた。
「でもまあ可能性としては8割ぐらいあるかな……多分渕上くんと住むと思う」
 最初は見つかっていないといったくせに、すでに決定事項となっているようだ。
 弁当箱を机に置いてイスに座った水希を真琴は呆然と見つめる。
 この弟、やはり重要なところで無頓着なのだ。中学生のころからそこだけはまったく変わっていない。
 水希は遙が擦りむいたり、真琴が発熱したりしたときは過剰に反応して見せるのに、いざ自分が突き指したり火傷したりしようと「痛い……けどまあいっか」で終わらせるようなヤツだ。
 放っておけばそのへんで野垂れ死んでいそうである。
「……いつまでぼーっとしてんの。飯、食おうよ」
 メドゥーサを見てしまったのか、見事に固まっている2人に、よもや自分の発言のせいとは思わず、水希が呆れ呆れ声をかけた。
 それでやっと、真琴がハッと我に返る。
「待って水希、俺はあまり頷けない」
「は? ……なに娘を嫁に出す親父みたいなこといってんの」
「そもそも水希は報告が遅い!」
「いや、なんでいきなり怒るんだよ……」
 眉間にシワを寄せ、親のように自分を叱りつける真琴を、水希は面倒くさそうにあしらった。
 追撃しようにも「つか、ルームシェアの件は真琴も賛成だったじゃん」と言われてしまえば形勢逆転。
 そうだ、そうなのだけれど。
 まさかそんな自分の知らない人との同居になるとは思わなんだと言いたいのに、ぐうの音も出ない。
 水希が弁当の蓋に手を掛けたとき、今まで黙りだった遙が唐突な行動にでた。パシッと、いきなり水希の腕を掴んだのだ。
「なにすんの、はる……っ! か……?」
 その腕をぐっと力強く引っ張り、遙は水希を立ち上がらせた。
 水泳で鍛え上げた遙の筋肉は並のものではないと、ここにかのマネージャーがいたのならアプローズしたに違いない。
 水希は遙が思いの外真剣で不機嫌な顔をしていたので、非難の声は途中で疑問に変えた。
「行くぞ」が、そんな水希を気にも留めず、遙はグイグイ水希を引っ張って教室から出た。
 突然のことに水希はされるがままだ。
 真琴が慌てて後を追いかけた。
「遙! おい、行くってどこに」
「渕上は隣のクラスだったか?」
「は?」
「断るぞ」
 まったく読めないと水希が顔を顰める。
「ルームシェア。俺とするぞ」
 ――真琴曰く、そのあとの遙の対応は早いものだったという。
 渚の家出の件でもそうだったが、顧問である天方に即座に連絡をしたときのように、遙はぼうっとしているようにみえてそういうところでは案外きちっとしている。
 加えて思い切りのよさもあるのだ。
 それが今回の「水希ルームシェア問題」でも発揮された。
 あの後隣のクラスのルームシェア候補生を呼んだ遙は「水希は俺と住むからルームシェアはムリだ」と名乗りもせずに言い、相手が困惑しながら頷いたのだけを確認して、やはり水希の腕を掴んだままクラスに戻った。
 もちろん水希はうるさく文句を言ったが、「俺と住みたくないのか」の一言で黙り込んだ。
「通学だって大学が違う真琴と住むなら、俺と住むのもそう変わらないだろ。……イヤなのか?」と問い直す遙に、水希はそっぽを向いて「……嬉しい、けど」と、伏せ目がちに「遙はそれでいいのか」と。
 遙はぽかんとしてすぐ嬉しそうに目を細めた。
 そのときの2人の雰囲気の柔らかさは言わずもがなだ。
 真琴がこほんと咳払いするまで、その雰囲気は崩れなかった。
 最初からそうすればよかったのにと真琴は心底うんざりしたが、どきまぎする水希と満更でもない様子の遙を見て、やはり微笑ましい気持ちになったのだった。
 後日友人に水希が詳しい説明と詫びをいれることになったのは言うまでもない。


 長い回想をして、真琴はふっとふきだした。
 そういえばそういうこともあったなあと随分懐かしく感ぜられたのだ。
 水風呂から真琴によって釣り上げられた遙が、濡れた体を拭きあげながら不思議そうに真琴に視線を寄越す。「どうした?」
真琴はくつくつ喉を鳴らす。
「いや、ちょっと。水希とハルがルームシェアするまでの件を思い出してて」
「…………」
 遙は真琴と同じものを思い起こしたのか、軽く目を丸くして、真琴からふいと顔を背けた。
 遙らしい反応だと真琴は思った。
 きっと水希に同じ話を持ちかけても、似たような反応をされるだろう。いや、水希の場合しかめ面を、あの相手を射殺さん視線を送るだろうか。
「一緒に住めてよかったね」
「…………ああ」
 てっきり「別に」なんて言われると思っていたので、その返答は不意打ちだった。
 真琴は僅かに驚いて瞬きをする。
 一瞬だけ見えた遙の柔らかい表情は見間違いだったのかと思うほど、すぐに消えてしまっていた。
 余程順調な同居が行えているのか。とか、その答えはわざわざ聞いて言葉にしてもらうまでもない。
「夕食は水希が作ってるんだっけ?」
「ああ……たまには真琴も遊びに来い」
 遙はそれだけ言うとバスタオルをカゴに投げ入れて服を着た。
 ――夕食のお誘い、か。
 それはなんとなく、高校の頃3人で過ごした昼休みを思い出させた。
 たまらなく、居心地のいい、空間だ。
「いつか、渚たちも呼ぼうね」
「……そうだな」
 またあの面子で集まれるならば、きっと水希も素直には表さないだろうが、喜ぶはずだ。
 それは料理の出来に見えてしまうだろう。
 安易に想像がついて真琴は肩を揺らす。
 遙も同じなのか、ほんの僅かに口元に弧を描いていた。
 真琴は未だ口元が緩むのを感じながら、「早く」とリビングの方から聞こえた水希の声に、今行くよと、返事をした。