みんなが眠気と戦う午後の授業で、家庭科の教師が「次回は洋菓子の実習です」と一言言った途端に、右斜め前の水希が肩をぴくりと揺らしたのを遙は見逃さなかった。
 そんなに、好きか。
 遙は心内鼻を鳴らした。あの水希がお菓子関連になると僅かに目を輝かせる瞬間を不意に思い出したのだ。
 そこまで好きなら高校では家庭クラブにでも入ればよかったのに。噂では、週に2度3度、料理に取り組んでいると聞く。
「よかったね、水希」
「……おう」
 席替え以来、前後になった双子がこっそりと会話しているのが、水希の左斜め後ろに座る遙にはよく聞こえていた。
 なぜ双子が同じクラスにいるのかと聞かれると何も答えようがないし、そもそも双子だと同じクラスになれないのかもわからないが、あの2人はさっぱり似ていないので、きっと教師も特に判別に困ることはないのだろう。
 クラスに同じ苗字の生徒がいるようなものだ。
 教師がプリントを回す。
 どうやら実習の班と、その役割が割り振られた紙のようで、見ればその班も係りも、なんのひねりもなく出席番号順であった。
 紙が全体に行き渡り、教室が騒がしくなる。
 ぴったり割り切れたのか班構成人数は男女比1:1の6名で、橘2人は同じ班のようだ。
 女子はともかく男子のもう一人は津田とかいう生徒であった。
 水希はあまり面識がないだろうが、真琴がうまくやるだろう。
 かくいう遙は間に数名挟むため、水希たちとは別の班だ。
 水希たちは4班、遙は5班。ちょっぴり面白くないと思ったが、こればっかりはどうしようもない。
「なに作るの?」
「“アップルシナモンケーキ”だって」
 書いてあるのにわざわざ聞くあたりが真琴らしい。
 それと、いつもなら「書いてあるだろ」と疎んずる水希が律儀に返事をするあたり、浮かれているのだ。
「ハルは、別の班だね」
 こちらを向いた4つの目。
 遙は真琴のその言葉には「残念だね」なんかじゃなく「水希と一緒がよかったでしょ」なんていう続きがあるように感じて、「別に」と素っ気なく一言、そっぽを向いた。
「名前順だし、しかたないよ」
 水希は振り返りざま、「俺は遙と一緒がよかったけど」なんて言うと、また熱心にプリントを見つめた。
 遙も真琴もそれにはぽかんとした。
 当の本人は何もわかっちゃいないで、レシピをじっとみているのだけれど。
「……だってよ。ハル」
「…………うるさい」
 くく、と笑った真琴を水希は不思議そうに見上げたが、なんでもないのだと言われるとすぐにまたプリントに目を落とした。深追いしないあたりが彼らしい。
 後ですごすご拾いにいくことになるから惨めなのだが、遙は無言で斜め右前の水希に消しゴムを投げた。コツンと当たったそれに水希は振り返りもせずにサムズダウンをくれただけだった。
 遙の隣と、水希の隣の席の人がそれは自分に向けられたものなのかと揃ってちょっとだけきょどっていたのに遙はかすかに笑ってしまった。
 ちなみに消しゴムは、ちょうど足元に落ちたのか水希の左隣の席の人が拾ってくれた。


 翌々日に、50分の授業を2コマ取って実習が行われることとなり、その当日、それぞれの班が衣服などの点検を受ける中、水希と遙は互いに微妙な顔をしていた。
「あ。七瀬くんと橘くん、三角巾一緒だね」
 真琴が背中を揺らして笑っているのが、しっかり目に映っている。
 遙と同じ班の女子生徒の一言に、揃って2人が嫌そうな顔をした。
 水希と遙の頭には、明るい水色のペイズリー柄のバンダナが結ばれている。ペイズリー柄のバンダナをした生徒など他にもいるのだが、明るい水色のそれは、遙と水希だけだった。
 たとえば真琴もペイズリー柄のそれなのだが、色は深緑だ。
 機嫌を悪くした2人に「何か悪いこと言っちゃったかな?」と女子生徒が慌てる。
 遙は答えなかった。
「別に。大丈夫」
 真琴がそうであるように、こういうときは、水希が答えることになっている。
 3人が揃っているときの受け答えの頻度といえば、真琴>>水希>遙なのだ。
 3人がいればほとんどの受け答えは真琴の役目となるし、その真琴がいなければ、大概水希が返事をするのが基本体制だ。
 女子生徒はほっと胸をなでおろした。
 それ以上会話は弾まず、2人の間には妙なやるさなさだけが残った。なぜお揃いなんだなんて、言わずとも思っていることは互いに同じである。
 水希はなんの腹いせか、遙の足を軽く蹴って、真琴の方に歩いていった。
 遙は仕返しは後にすることにして、いつも自宅で使っている青のエプロンを着衣した。
 事前の説明であったように、腰巻きタイプではダメなので、みんな胸当てタイプのエプロンを着衣している。
 ふと、遙は水希を探した。そういえば彼はどんなエプロンを着ているのだろう。
「5班は七瀬以外の男子が休みなんですね」
 その前に衣服の確認に教師がやってきたので、水希のエプロンを見ることも後回しとなる。
 遙と同じ班の女子3人が揃って頷いたが、遙だけはきょとんとしていた。そんなこと、今の今まで気づかなかったのだ。
 朝の連絡で遙と同じ班の男子が休みであることはクラス全体に、もちろん遙もいる中で伝えられていたのだが、遙は知らなかった。
 水希が聞けば、「おまえ周りに無関心すぎ」と呆れられただろう。
 教師は少し悩んで「橘」と、遙の幼馴染を呼んだ。
 しかしそれに反応したのは2人だ。
 緑と淡い緑がじっと向けられている。
「橘水希」
 教師は付け加えた。
 真琴の視線が教師から外れた。
「5班の人数が足りないので、移動してください」
「え、水希行っちゃうの? 頼りにしてたのになあ」
 真琴は確かに残念そうにしていたし、彼が水希を頼りにしていたというのは嘘ではないようだったが、どこかにやけていた。
 遙には、それがわかった。ついでにその理由もだ。
 水希は何度か瞬きしたが、教師に急かされたので慌てて遙の横に駆け寄った。
 何と無く「よう」と声を掛けると「おう」と簡素に返される。
 水希はシンプルな黒一色のエプロンを着ている。
 似合ってると遙は思った。口には、出さなかったが。
 程なくして点検は終わったのか、実習が始まった。それぞれ初めに割り振られていた役割に取り掛かる。
 自分の役割としてまず、オーブンを180度に予熱と書かれていた遙はいそいそとそちらに向かうとなんら躊躇いなくオーブンを操作した。
 それから次の作業に入る前にふと周りを見ると、なにやらクラスメイトたちは悪戦苦闘しているようだった。
 りんごの皮むきだ。どうやらスパルタなことに、そんな作業が男子に当てられているらしい。
 ほとんどの班では見かねた女子が変わっていた。といっても、誰も彼もがうまくいくわけではない。
 りんごの皮むきに、というよりも料理のうまさに男子だから女子だからなんてないのだ。
 ピーラーがあればまだマシだったに違いないのだがあいにく用意された器具は包丁のみだ。
「え。え、橘、すっげえ!」
 不意に4班の男子が声を上げた。遙がつられて真琴を見るが、彼はりんごの皮むきをしていない。
 すぐに水希を見た。
 同じ色の、同じペイズリー柄のバンダナをした幼馴染が器用にくるくると皮を剥いていた。
 きちんと均等に保たれているのか、一枚の皮に余計な厚みも薄さもみられない。
 さすがの遙も、おおと感嘆した。
「お前の弟、料理できんだな!」
「あはは。まあね」
 本人ではなく兄の真琴が得意げにしていたのだが、そうなるのもなんとなく頷けるので遙は黙っておいた。
 そうこうしているうちに皮を剥きおえた水希が、次はりんごを半分に切り芯をくり抜いてスライスしにかかる。どうやら彼はりんご係りらしい。
 その手際の良さに他の生徒の手が止まっている。
 見かねた教師が手を叩いた。
 それでみんなはっとした。遙も例外ではなかった。
 遙は調理台の前に戻ると、ボウルの中身をかき混ぜるのに疲れていた女子に加勢した。
 こういうのこそ、男子にやらせれば良いのに。
「遙。おまえ、もう半分を切ってくれる?」
 よくすり混ぜたボウルに卵を入れたあたりで、水希が遙に声をかけた。
 質問してきた割に拒否権はないようでまな板にちょんと半分になったりんごが乗っている。
 遙が少し迷っていると、「わたしたちは大丈夫だから、手伝ってあげて」と女子に背中を押され、遙はまな板の前に立った。
 そのときの女子たちの目からは真琴と似たようなものを感じたのだが、気のせいだろうか。
 遙は包丁を取りちらりと水希を見る。
 水希は器用に包丁を扱ったまま遙を見向きもしない。「厚さ3ミリぐらいな」聞いてもいないのに聞きたいことに答えてくれるので、楽ではあるのだが、なぜわかるのだろう。
 それに聞けば「プリントに書いてあるだろ」と言われる気がしていたのだが、どうやら随分機嫌が良いらしい。
 とりあえず遙は取り掛かった。
 横で水希が機嫌良さそうに口元に弧を描いた気がする。
「5班の男子やべえ……」
 いろいろな班からその声は聞こえてきた。
「器用だな」「嫁に欲しい」冗談混じりの声なども遙にはよく聞こえてくるのだが、水希には聞こえていないのか彼は始終無反応だった。
 遙が取り掛かって少しした頃に水希は作業を終えた。それで、女子が生地を型に入れてヘラでならしている途中なのを見て、じっと遙の手に目を向けた。
「やっぱり遙、器用だよな」
 遙は少しだけ手を止めて、それでもすぐ作業に戻る。
 さっき皮をきれいに剥いて見せたやつが、一体なにを言っているんだか。
 曖昧に返事をしておくが水希はまだ遙を見ている。
「おまえの料理とか、すっごくおいしいし」
「……」
「犬小屋も組み立てれるし」
 とんとん、とんとん。まな板には順調に厚さ3ミリのりんごが並んでいく。
「人間関係では不器用なとこが多いくせに。そういうの、器用だよな」
 それをお前が言うか。
 りんごを切り終えたこともあって、一つ口を挟んでやろうと、遙は顔を上げた。同じバンダナをつけた幼馴染と目があった。
「でも、なんだろう。俺、やっぱ遙のこと好きだよ」
 ふ、と静かな笑みを添えて。
 驚きで目を丸くしたのは、遙だけでなく5班の女子生徒もだった。
 どうしてそんな結論に至ったのか、いろいろと飛躍しすぎである。遙は顔に熱が集まるのを感じて舌を打ちたくなった。
 水希はいっぺんに突き刺さった視線に小首をかしげ、それから自分の口が何を紡いだのか潔く理解したのか、いや今のはとかなんとか、あたふた手を動かした。
「や、あの、好きってのは言葉の綾で、違……わないけど、だから、えっと」
 泣きそうになり始めた水希に、同じ班の女子生徒は母性本能をくすぐられたとか、違うとか。
「水希。少し黙れ」
 これ以上水希を喋らせてはもっと余計な言葉が出てきそうだったので、遙はスライスしたりんごを一切れ摘み、水希の口に放り込んだ。
「なにすんだよ」と文句を言いつつも泣きそうな顔のまま口をもぐもぐと動かしりんごを咀嚼する水希に、ああでも食べるんだと班員が笑った。
 遙はただ、シュールだと思った。
 切り終えたりんごを生地に乗せるため女子に手渡す際、「水希くんと七瀬くん、仲良しだね」とからかわれる。
 このクラスで遙と水希は微笑ましいペアとして公認されているらしい。少し複雑な気分だ。
 仲良しだね。言われて遙は横の水希をちらりと見た。
 顔が赤いままだ。
 その赤色をどこかでみたような――ああ、りんごか。
「嫌いじゃない」
 ぽつりと言うと、聞こえたのか、女子生徒はくすくすと笑った。
 加えてめっきり喋らなくなっていた彼にも聞こえていたのか、余計なことは言うなと、水希に小突かれる。
 そもそも初めに余計なことを言ったのはお前だろうと遙は水希の頭をはたいた。
 そのせいで水希のバンダナがずれる。
「七瀬くん、橘くん、ケーキ焼くよー?」
「ああ……ほら行くぞ、水希」
 未だ頬の赤みの引かない水希の腕を引っ張って、遙は班員が集まるオーブンの前に向かう。
 水希はバンダナを直すのに紛れて顔を隠していた。
 まだりんごを乗せている途中らしい4班の生徒と目があった。真琴だ。
「よかったね」口パクで伝えられたそれ。何がなんて聞くまでもない。
 大方愛されてるねハルとかなんとか、言いたいのだろう。ほっとけと同じように返してやった。
 返事は待たず目を逸らす。
 どうやら水希という人間は、好きなことをしているときにはとことん気分が上がり、普段思っていたって口には出さないようなことを、無意識に、言ってくるらしい。
 遙は今しがたそれを学んだ。
 それと、あまり水希を人前では料理をさせたくないななんて、無理なことも思うのだった。