※報われない


 くしゃりと頭を撫でられて、俯いていた水希の目が大きく見開かれ次第次第に細まった。
 それが大層潤んでいたのに気づいた途端、軋んだ音を心臓が立てた。


 それを水希本人の口から聞いたのはほんの数ヶ月前のことだ。
 最近気分の浮き沈みが激しい彼に、何かあったのかとしつこく尋ねて、やっと口を割った。
「好きな人がいる」
 水希が言ったのはそれだけだった。
 それ以外は言おうとしなかったし、なにより、俺が聞けなかった。
 何年も一緒にいただけあって彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
 色恋沙汰に興味がある様子は微塵にも見せなかったし、彼の性格はそういったものとは疎遠な関係だとばかり思っていたから、俺は不意を衝かれた。
「好きな人がいる」俺にそう伝えたときの水希は平生の彼ではなかった。皮肉を言うときとは程遠く、苦しんで苦しんで、やっと声にしたようなものだった。
 そのときに相手は誰かと聞かなかったのは後に悔いることになる。
 時間をおけばおくほど、あのときの話を掘り返すようなまねをするのはどうも気が引けた。
 気になるが、迂闊に触れられないでいた。
 水希は相変わらず浮き沈みが激しい日が続いた。
 真琴も心配して水希に声をかけていたが、どれもはぐらかされていた。
 どうもあの件に関しては真琴には言いたくないらしかった。
 ならばなんで俺には言ったのだろうかと、不思議に思ったのも確かだった。
 けれど俺に胸の内を一つ打ち明けたところで、悩みは解決していないようだった。それどころかむしろ、俺の方まで彼の気に当てられたのか、落ち着かなくなっていた。
 過剰なまでに水希の人への応対を気にするようになった。
 水希が誰とどんな話を、どんな顔をして行なっているのか。そればかりがひどくつっかえていた。
 どうしてこんな気持ちになるのかはまったくわからなかった。
 ただただ、「好きな人がいる」そう告げた水希の表情と声色とがこびりついて離れなかった。
 妙な蟠りが募る日々が続いたある日、いつものように真琴と水希と一緒にプールに向かっていたときのことだ。
 その日は真琴が図書室に用事があったため、いつもは通らないテニスコートを横切った。
 もともと真琴しか口を動かしていなかったので、ぴたりと黙ったとか、そういうわけではないのだが、何か水希の空気が変わったような気がして、真琴の話を聞きながらもちらりと横を盗み見ると、水希もまた横を見ていた。
 もちろん水希の見る横とは俺ではない。彼の視線はテニスコートに向いていた。
 それだけで、水希はただ久しぶりに横切るテニスコートを眺めていただけだったのかもしれないのに、水希が誰を見ているかなんかわからないはずだったのに、つられてコートを見た俺には一人の人間だけが妙に色づいて見えた。
 ボールを高く上げてラケットを振りかぶる男。
 水希の視線の先にあるのがあの人なのだとわけのわからない確信を持っていた。
 その顔には見覚えがあり、同じクラスの人なのだと程なくして思い出した。
 何の委員だったか忘れたが、水希と同じ委員の男子生徒だ。
 名前は思い出せなかった。
 水希の視線はそう長くは彼に向いておらず、むしろ彼を見ていたのが嘘だったかのように素っ気なく外された。
 それから何事もなかったかのように、水希は真琴の言葉に相槌をうつようになった。俺が口を挟まなくてもそれはいつものことなので、2人は気にしていないようだった。
 確信があった。だって、水希のあんなに真剣な横顔を俺は見たことがなかったから。
 心持ち、彼の歩調がコート前で遅くなったのを、感じ取っていたから。
 俺が見ているのに気づいた水希が、何と首を傾げる。
 俺は何でもないと呟いてそっぽを向いた。
 水希は不思議そうにしただけで何も言わなかった。
 同じように素っ気なく逸らされた視線に居心地の悪さを覚えた。
 やはり、理由はわからなかった。
 またしばらく日が経つ頃には水希は普段の彼に戻っていた。俺にあんなことを告げたのも忘れているかのようだった。
 そんな水希を見ていると、俺だけ取り残された気分だった。
 その昼休み、決まりごとのように屋上に上がり弁当を置いてまだ来ていない後輩たちを待っていたとき、真琴が教室に箸を忘れたと言って俺たち2人を残してかけていった。
 あきれ顔になった水希と同じ心境でいたのだが、不意に、今なら聞けるのではないかとそんな気持ちになったのだ。
「それで、どうなんだ」と俺は尋ねた。
 水希は空を仰いでいたのだがゆっくりと目を俺に向けた。言葉が足りないと淡い緑が細められる。
 なぜだか、何も沸点に至る要素はなかったはずなのに、ふつふつと苛立ちが募った。
 はぐらかされている気がしたのかもしれない。
「この間、好きな人がいるって言っただろ」
 水希は2,3度目を瞬いて、「ああ」と半ばため息のような返事をする。そのまま伏せ目がちになった。
 構わず俺は続けた。
「それって、同じクラスのテニス部のやつだろ」
 うまく語尾があがらない。
 問いただし、無理やり吐かせようとしているようだった。
 何か得体の知れないものに、俺は焦っていた。
 水希が瞬時に俺を見て、ああしまったと顔を歪める。今さら目を逸らそうが、こんな反応をしては誤魔化せないとすぐに後悔したらしかった。
 俺は俺自身の読みが正しかったことに、やっぱりなと妙な充実感を得ると同時、無性に息苦しくなった。
 やっぱり、あの人が好きなのかと、水希が好きになったのが同性の人間であるという事実よりもまず先にそちらが重くのしかかった。
 水希は本当に好きな人がいるのだと、胃を握りつぶされた気分だった。
 水希は暫時重たい沈黙の中で口をもごもごと動かし、腹を括って「そうだよ」泣そうな声で肯いた。それからぽつぽつ、言葉を続けていった。
 彼とは高2、つまりは現在のクラスで始めて顔を合わせ、委員が一緒なこともあり、それなりに話す仲になったらしい。
 最初こそコミュニケーションが苦手な水希は委員の仕事のたび彼と2人になるのが億劫だったが、彼の面倒見の良さや洋菓子好きという共通点も助けになり会話が弾むようになったのが知り合って2カ月過ぎた頃からだ。
 彼には弟が2人いて、その点に関しても、兄弟を持つ水希とは気があったとか。
 そこまでを話した後、ふ、と悲しそうに笑い、次第次第にひかれていったと水希は言う。
 初めのうちは、こいつには優しくしてやりたいとか、甘やかしたいとか、特別な友人として彼を見ていたけれど、気づけば彼を目で追うようになっていて、他の人と楽しそうにしているのを見ると胃がキリキリすることもあったと。
 本格的に好きだと思ったのは、彼が部活をしている姿を見たときだと、水希は続ける。
 一つのことに真剣な、その姿に、自然と足が止まったんだって。
 彼を好きだと自覚してからは、舞い上がるとかきゅんとなるとか、そんなことまったくなくて、不安でたまらなくなり、泣いた。
 だって相手は同性だった。同じ、男だった。
 水希自身どうして同性を好きになってしまったのかと受け入れられなかった。でも好きだ。だから泣いた。
 身内には言えないと思った。どんなに綺麗事を言おうったって、どこかでは同性愛者に対してわずかな抵抗があるはずだと思ったからだ。
 水希自身でも受け入れられないものを、他の人が受け止められるわけがないと、そう思った。
 誰にも、言えない、言いたくない、ひたすら苦しいのは自分一人で消化した。それが、浮き沈みが激しかったあの期間の出来事だと言う。
「……今は」
 聞くと水希はほんの少し笑い「ふっきれた」と答える。
「好きになったんだ、もう、しかたないよ」
 返す言葉がなかった。
 しかたないよともう一度繰り返す水希の声を、静かに聞いておくことしかできなかった。
「どうして俺には話したんだ。誰にも言いたくなかったんだろ」
 聞き方はどこか責めるような口調になってしまった。
 そしてそのまま伝わったのか、水希が申し訳なさそうに眉を下げる。
 弁解しようにも、「どうしてだろうなあ」と水希が言うので、完全にタイミングを逃してしまった。
「遙には、どうして言えたんだろうな」
 こればっかりは「聞き返すな」と不機嫌に言う。
 水希は「それもそうだ」と肩を揺らした。
「遙なら、話していいかって。思ったんだよ。多分」
 俺も水希も黙る。
 そう間を置かずにまた水希は口を開く。
「受け入れてもらえるとか、もらえないとか。そういうのじゃなくて。遙には、本当のことを言いたかった」
「……なんで」
「……おまえは大事な人だから。嫌われたって気持ち悪いって言われたって、自分を隠したく、なかったんじゃない」
 鈍器で頭を殴られた気がした。
 大事な人。大事な人。
 ぐわんぐわんと頭が揺れる。
 大事な人と好きな人の、その差は一体なんなんだ。そう考えると気付きたくもなかった感情がにんまりと笑みを浮かべ始めて、また頭が痛くなってきた。
 すっかり黙り込んでしまった俺をどう思ったのか、水希はごめんなと一言謝った。
 俺は首を左右に振った。それ以外どうしようもなかった。
 その後は真琴たちがやって来たため、この話は打ち切りになった。
 俺と水希の間にあった変な空気に彼らは揃って首を傾げたが、またどうでもいい喧嘩をしたのかと冗談を一つ言っただけだった。
 食事中ちらりと水希を見てみたが、彼はやはり普段と変わらない態度をとっていた。
 隣にいる水希が、随分遠くに思えた。
 放課後、真琴は天方先生に用事があるため俺は水希と2人で会話をしながら昇降口にいた。
 会話の内容は別に午前のものではない。今日のメニューはとか、他愛ない部活の内容だった。
 慌ただしく誰かが昇降口までかけて来て、あ、と声を上げた。
 2人揃って目を向けて、「水希じゃん」と続けられたそれには、それぞれ違う反応をした。
 俺はまた、わけのわからない焦燥に駆られた。
 きっと話を聞いた後だからわかってしまうのだろう。水希は、少し頬を、本当に少しだけ紅潮させていた。
「水希もこれから部活? 水泳部だっけ?」
「……おう」
「そっか。がんばれよ」
 俯きがちになっていた水希の頭をくしゃりと撫でて、そいつは笑った。
 俺は確かに、水希の目が大きく見開かれて、徐々に細まってゆくそれが潤んでいるのをみた。
 ぎしりと心臓が軋む。
 息が、息が苦しい。
「……おまえも」
「ん?」
「……がんばれ」
「ん。ありがと」
 おしまいにぽんぽんと水希の頭を軽く叩いて、彼は靴をスリッパばきにしたまま外に飛び出した。随分、急いでいるらしかった。
 ――好きなんだ、そんなに。
 そう思い知らされた。
 つきつきとした痛みが胸を襲う。
 水希は俯いたままやっと靴を履き替えた。
 その顔を覗くことなんて恐ろしくてできなかった。
 水希のことは、ずっと、幼馴染として大事なんだと思っていた。こんな形で自覚させられるなんて、思ってもみなかった。
 しかも、自覚した途端失恋だ。
 だって、こいつ、あんなにも思ってるんだ、あいつのこと。付け入る隙があるわけないし、俺を大事な人だと言った、俺を信頼している水希を無理やり振り向かせてやろうとかそんなひどいことができるはずがない。
 大事な人、好きな人。一体その差はどこから生まれたんだ。
 似たような苛立ちに水希も苛まれていたのかと不意に思う。
 じっと見過ぎたのか、水希が顔を上げて首を傾げる。
 咄嗟の言葉はすぐ思いついた。
「……遙?」
「……水希、さっきのはわかりやすすぎるだろ」
「…………っ」
 てっきり、うるさいなとか、言われるとばかり思っていたのに。
 そんな、顔を真っ赤にされたら、俺はどうしたらいいんだよ。
 すっと胸が寒くなり、それから、鋭い傷みが素早く走る。
 やめろよ、やめろよ、そんな顔、するな。
 気付かなければきっと幸せでいられたのに。苦しみは、始まったばかりにすぎない。