それはまだ、怜が水泳部に入部したての話だが、水泳部の2年生について彼は悩んでいた。
 真琴については悩むまでもない。むしろ、彼は頼りになる上級生だ。
 遙もまあ、あの独特の雰囲気に慣れてしまえば怖くなかった。
 そう、だから残るは一人。
「……」
 今、更衣室で2人きりになっている、水希だ。
 怜は水希がとても苦手だった。入部してから今の今まで、会話という会話をこなせた試しがない。彼を除いた部員全員とはもう世間話ができるぐらいまで慣れたのだけれど。
 怜は水希にいい印象をもっていない。
 というのも無理はなく、怜が見てきたのは、遙の脛を蹴る水希や、遙と口喧嘩する水希(しかもお互い悪態がえげつない)、渚につっけんどんな態度をとる水希、優しい真琴にさえもしかめ面をする水希なのだから、近寄りがたい以前に、彼は本当に真琴の双子の弟なのだろうかとも疑っていた。
 唯一江にはマシな態度をとっていたのだけれど、もしや下心ではあるまいかと、最近ではそんなことを思ってしまうぐらいに、印象が悪かった。
 閑話休題。
 水希の方は特に気にしていないようだが、怜はこの2人きりの空間がとても気まずかった。
 早く着替えて外に出たいのに、そういう日に限って、ゴーグルが見当たらない。
 水希はついさっきここに来たばかりなので、もう少しかかるだろう。
 最悪のパターンだ。怜は一人気苦労から心内ため息をついた。
「……おまえ」
「?!」
 あまりに絶妙なタイミングで声をかけられたので、まさかため息が表に出てしまっていたのかと、怜は過剰に驚いた。
 もちろん怜が驚いた理由はそれだけでなく、まさか水希に声をかけられるとは思っていなかったこともある。
「えっと、あ、はい、な、なんでしょうか?!」
 怜の異様なまでの慌てように水希は眉を顰めた。
 それは水希や水希をよく知るものにとっては何てない、ただの疑問から出た表情なのだが、怜にとっては恐怖そのものだった。
 機嫌を大層損ねてしまったと思った。
 良くて舌打ち、悪くて肘鉄、最悪脛蹴りか。
「おまえさ、その店、好きなの」
「っ?」
 ああやられる、ととっさに目を瞑ったのに、水希からかかってきたのは思いもよらない言葉で、怜はぎゅっと瞑った目をすぐに開いて、何度か瞬きした。
「そ、その店……?」
「それだよ。おまえが持ってる、ストラップ」
「?」
 怜は水希が指差す先を辿り、己のリュックにちょこんとぶらさがった、クマのストラップをみる。それは学校の帰り、なんとなく寄ったケーキ屋でキャンペーン中だからとプレゼントされたものだ。
 なぜつけてるのかと言われれば、美しいからとしか言いようがない。
 かわいい、ではない。美しいのだ。
「それ、駅近くのケーキ屋で先週までもらえたやつだろ」
「え、はい……」
「あそこのケーキ、好き?」
「お、おいしかった、です」
「……」
 返答をまずったか。黙ってしまった水希に怜は途端に冷や汗をかく。
 何とか、何と言えばいいのかさっぱりわからないが、とりあえず言い直そうと怜が口を動かしたとき。
「そっか」
 ふにゃりと、水希が笑った。
 怜はぽかんと口を開けたまま固まった。なにせ、あの水希が笑ったのだ。
 いつも不機嫌そうな顔をしていて、遙とだって嫌みの応酬ばかりをしている彼が。笑うなんて思ってもみなかった。そんな柔らかい笑みをつくれるなんて、思わなかった。
 つまり、とんでもない不意打ち。怜の脳はうまく情報処理ができなかった。
「せ、先輩も……」
「ん?」
「水希先輩も、ああいうお店とか行くんですか?」
「うん。甘いもの好きだし」
 言ってしまった後に今の発言は失礼だったかと気づくのだが、水希が特に気にした様子もなく答えたのでほっと息をつく。
「あの店なら、オススメはタルトかな」
「!」
 奇遇だと怜は思った。実を言うと怜がクマのストラップをもらったケーキ屋の商品の中でも、際立って怜の目を引いたのはタルトだった。
 なんでって、そりゃあ形や彩りがきれいで、ぱっと見すぐ目を引く、美しいものだったから。
「おいしいし、なにより見た目がいい」
「ぼ、僕もそう思います!」
「だよな。おまえ、きれいなものとか好きそうだ」
「!」
「まあ俺は、見た目ってよりもおいしいから好きなんだけど」
 と、水希はどこか必死な様子の怜に対しいたずらっ子のように笑った。
 怜の中での水希像がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。冷血漢だとばかり思っていた。しかし案外、ころころ表情の変わる、普通の青年だった。
「甘いもの、お好きなんですか?」
「言うまでもないね」
「……よかったら、何か作って差し上げましょう!」
「え?」
 どうしてそんな言葉が出たのかわからない。気づいたらそう口にしていたのだ。
 しかも変に気合が入ってしまったし、言い方もなんだか、上からだ。
 きょとんとした水希を見てハッと我に返ったのだけれど、時すでに遅しで。
「……お、お願いして、やってもいい」
 こちらも大層生意気な返事だった。
 軽く自己嫌悪の渦に落ちかけていた怜は、意外な水希の返事を聞き、何度も瞬きを繰り返した。
 目の前で、怜から目を逸らし恥ずかしそうにしているこいつは、誰だ。
(意外ですね……)
 てっきり、情なんてない人だと思っていたのだけれど。むしろ、真逆なのかもしれない。
 怜はすでに水希という人間を考え直し、受け入れ始めていた。
「いいでしょう! 僕の腕にかかれば、水希先輩もイチコロのはずです!」
 ついつい、いつもの調子で高笑いした。
「…………くっ、はは……っ!」
「!」
 水希が笑った。
 ただ笑うんじゃない、表情だけじゃなくて、笑い声をあげて。しんからおかしそうに、怜を見る目は優しいまま。
「ああ、うん、楽しみにしてるよ。竜ヶ崎シェフ」
 ぽんぽんと、水希から頭を撫でられる。
 そんな日が来るなんて、誰が予想できただろうか。
「あ。でもなるべく俺たちの秘密だ」
「なにがですか?」
「俺が甘いもの、すっごく好きなのとか。遙が知ったらしばらくケンカ負けするから、あいつには特にね」
「そんなに仲が悪いんですか?」
「もちろん」
「……嫌い、なんですか?」
 その質問に、水希は目を丸くした。
 怜はよからぬことを聞いてしまったかと思いはしたが、不思議と、怒られたり機嫌を損ねたりすることはないだろうと確信していた。
「…………嫌い、じゃない、けど……」
 ああこの人は極端に不器用なんだな、その考えが、怜の胸に、すとんと落ち着いた。それも、最も好きな人相手となると全然素直になれないタイプの人だ。
 怜の穏やかな視線に耐えきれなくなったのか、こほんとわざとらしく咳払いを一つ。「とにかく、言うなよ」と深く釘を刺し、そっぽを向いた。
 本当に、不器用だ。意外にも愛らしい人だ。
「水希先輩」
「……ん」
「僕の作る最高級のお菓子を、期待しててくださいね!」
 えっへん。胸を張ってみる。それを見た水希が笑うとわかっていたからこそ、彼を笑顔にしたいからこそ、そうしたのだ。何か、作って来るなんて、言ったのだ。
 怜の思ったとおり、水希はふっとかすかに笑った。
「もちろん、期待してる。怜」
 やっぱり、笑顔の方が似合うと、そう思った。
 悩んでいた2年生との関係が緩和され、ルンルン気分。
 ゴーグルも見つかり、先に更衣室を出た水希を追うようにプールに出た怜は、そこで罵声を飛ばし合い、頬をつねり合う遙と水希を見て、ついふきだした。
「いってぇんだよ! 水キチガイ!」
「お前の方が多く殴ってきただろ、ブラコン!」
 さっきの笑顔がうそだったかのようなしかめ面だ。
 今までの怜だったら、またやってる、と恐ろしく思っただろう。
 けれどもう違う。
 怜は落ち着いていた。あれが水希なのだと、水希と遙という関係なのだと、そう思った。
 相変わらずボキャブラリーの少ない連中だ。そんなことを思えるぐらいにはなっていた。
 もう、怖くなかった。
「怜ちゃん、なに笑ってるの?」
「なんでもないですよ」
 渚が不思議そうに首を倒した。まだ2人の言い合いは続いている。
 彼らのえげつない罵声をBGMに、水希になにを作ろうか、そんなことを、考えていた。