時刻は7時近いが、空は未だ明るい。片手に引っ掛けたビニル袋を弄びながら水希は海を眺める。もうじきすればこの海岸も人で賑わうだろう。
「水希」
「?」
不意に呼ばれた。水希が声の主を向こうとした矢先、目の前に腕がにゅっと伸びてくる。
素早く身を引いた。
「いいって」
ビニル袋に触れさせる気はない。左隣を歩いていた遙から伸びてきた手を、水希は軽く払った。
今度こそ遙の顔を見れば、眉を寄せ、拗ねたような表情をしている。
「もうすぐそこだろ」
「……」
黙ったまま遙はぷいと反対を向く。厚意を無下にされたのだ。機嫌を悪くするのも無理はない。
とはいっても、実はこのやり取り、3回目だ。スーパーを出てすぐに1回目。水希は「俺が持つからいい」と断った。信号で立ち止まって2回目。水希は「まだいい。疲れたら変わって」と首を振った。そして3回目。どれにも遙は腑に落ちない顔をしていたが、そっぽを向いたのは3回目だけだ。
「拗ねるなよ。遙」
ちょうど石段の前に来た。足を止めて、遙は視線をついっと水希に向ける。その目はどこか恨みがましい。
水希も同じように立ち止まり、遙をジッと見る。
2人の目の高さは一緒だ。
「……。可愛げがない」
「は」
水希は声を裏返した。遙の口から彼に似合わない言葉が出てきたせいだ。
主語もないし脈絡もない。しかし、遙が誰のどんな態度にそう言ったのか水希は容易にわかる。
「……俺にそんなもの求めるなよ」
ため息まじりに言って階段を上る。遙の答えは待たなかった。
自宅を通り越してさらに上に進む。向かう先にあるのは遙の家だ。後ろからは家主のついてくる足音がする。
「鍵は?」
「開いてる」
「相変わらず無用心だな」
「余計だ」
一発小突いてきそうな声を背中に、引き戸に手をかけた。
「?」
心なしか一瞬、夕食前のいい匂いがした。水希が玄関で不自然に足を止めたが、遙は特に気にせず彼の肩にかかった軽いカバンをひったくる。
「部屋に置いてくる」
「あ。うん」
遙は水希を追い越してスタスタと行ってしまった。遙の姿が階段を上って見えなくなってから、水希は足元に視線を落とす。
見慣れない靴が一足ある。自分たちのより小さい。女物だ。
「……?」
大きく瞬き。
閉じた居間の扉。その先は見えない。
遙からそのような話は聞いていないが、誰かいるのだろうか。
「……。ん」
ずっと玄関に突っ立っていても意味がない。それに、ビニル袋にはアイスが入っているのだ。ぼうっとしていたら溶けてしまう。
水希は不思議に思いながらも家に上がった。
戸を開けて居間に入る。
ふわりと食欲をそそる香りがした。
「おかえり。遙」
「! ……」
台所から聞こえてきた声に目を丸くした。慌ててそちらを向くと、ちょうど声の主も水希を振り向いたところであった。
「あら。水希くんだったの?」
「……あ。と、おじゃまします」
「ええ。いらっしゃい」
軽く会釈する水希に、彼女は微笑みかける。
遙と同じ、黒髪の、女性。遙の母親だ。エプロンをつけ、片手にはおたまを持っている。玄関の靴は彼女のもので、この香りは彼女が夕食を作っていたからだったらしい。
「久しぶりね」
「はい。……お久しぶりです」
「ふふ。少し見ないうちにかっこよくなっちゃって」
「え。あ、いえ……」
深い意味はないのだろうがなんと返せばいいか思いつかない。水希は言葉を詰まらせ腕をさすった。
「……。遙、二階です。すぐ下りてくると思います」
なかなか苦し紛れな話題の変更だった。
遙の母親は一瞬不思議そうにしたが、「そうそう」と。何か思い出したように声のトーンをあげて言う。
「遙に帰るって連絡したのに返事がこなかったのよ」
「見てないと思います。携帯」
「やっぱりそうよね……」
彼女はため息と一緒に肩を竦めた。なんだか水希もため息をつきたかったが、ふと目に入った鍋に意識は完全にそちらへいく。
「あの。鍋……」
「あら。いけない」
吹きこぼれそうになっている鍋を見て、彼女は火を慌てて止めた。
カチ、と音がした後は静かだ。
遙はまだ下りてこないのだろうか。水希は廊下の方を見てゆっくり瞬きする。
「……遙、中学のとき低血糖で倒れたでしょう? ちゃんとご飯食べてるのか、心配なのよ。だから少し様子を見にきたの」
「……」
そういえばそんなこともあった。水希はその場に居合わせなかったが、真琴が「ハルが倒れてすごく驚いた、怖かった」と話していたのをぼんやり覚えている。
水希は中学では水泳部に入らなかった。真琴や遙と完全な疎遠であったわけではないが、その辺りの出来事は詳細には知らない。
「どう? 水希くん。遙はちゃんと食べてる?」
「……。あ。はい」
抜けた声が出た。もやのかかった過去を回想していたので反応はもちろん遅れた。
「朝昼晩……。鯖ばっかり食べてます」
「あら……」
とりあえず何か言おうと焦りながら答えたせいで遙の母親を不安にさせるようなことを言ってしまった。水希は慌ててフォローを入れる。
「けど、夕飯はわりとしっかりしてます。野菜とか肉も。いろいろ」
「……そう」
彼女の表情が柔らかくなった。
遙の微笑を彷彿とさせる表情だったので、水希はほんの少しくすぐったさを感じた。
「遙と一緒に買い物してきたの?」
「はい。あ、すみません。冷蔵庫借ります」
自分が未だビニル袋をぶら下げていたことと、その中にアイスがあることを、彼女の一言で思い出した。会話の途中ではあったが、水希は台所に入って、袋の中から二つのカップアイスを取り出し、冷凍庫に直す。
野菜やそのほかの材料も冷蔵庫に入れる。寂しかった冷蔵庫はそこそこ充実した。ついでに賞味期限切れのものがないかも確認。以前はヨーグルトの期限が切れていたが今回は大丈夫だ。
「……。ふふ」
「?」
笑い声。水希が遙の母親を見ると、口元に手を当てて笑っている。
「遙とはよく一緒に料理をしてくれてるのね」
「え?」
「すっかり自分の家って感じだもの。水希くん」
笑い混じりに言われた言葉をすぐには受け止められなかった。水希はぽかんと遙の母親を見つめ続ける。
「……」
パタン。冷蔵庫の扉が勝手に閉まった。
「前より道具が増えてるけど、これも水希くん?」
「! あ。はい。……その。すみません、勝手に……」
「やだ。責めてるわけじゃないわ。謝らなくていいのよ」
顔を俯け声を暗くした水希に、彼女は慌てた様子で手を振った。
「今日も一緒につくる予定だったのかしら?」
「ん。と、はい。遙のお母さんが帰ってくるとは聞いてなかったので……」
「遙ったら……。ごめんなさいね、せっかく材料も買ってきてるのに」
「いえ。大丈夫です。遙も、そっちの方が喜ぶと思います」
「あらやだ」
彼女は口元に手を当てて笑った。照れたような笑いだった。
水希としては本心だ。遙も、なんだかんだで母親の手料理の方が嬉しいだろう。
トントンと階段を下りる音が聞こえる。やっとだ。水希は居間の出入り口の方を見遣って小さく息を吐く。
その仕草を、遙の母親は、水希が自宅に帰ろうかとしているように思ったようだ。
「よかったら食べていかない?」
「え?」
「遙も、その方が喜ぶわ」
水希は不意を打たれたように目を瞠った。一度薄く開いたはいいものの、返答に詰まった口は、次第に真一文字になる。
自分の発言をそのまま真似て返されたようだが。自分がいた方が遙が喜ぶ、なんて。他意はないにしても妙に気恥ずかしい。
些か頬のあたりが熱い気がする。パタパタ。シャツの首元を揺らした。
遙の母親の視線が水希から逸れた。水希の、さらに後ろを向いている。
「おかえりなさい。遙」
「え? あ。……。ただいま……?」
「久しぶりね」
「ああ……」
水希も遅れて振り向いた。ぽかんと、惚けた様子で母親を凝視している遙がいる。
彼も驚いた顔ぐらい、日頃、そこそこするが、喫驚をここまで全面に出してきているのはかなりレアだ。
「連絡したのよ?」
「え」
遙の視線が彼自身の手元に落ちた。そこにあるのは、うんともすんとも言わなくなっていた携帯電話と、その充電器。数週間使わず放置していたことについ先ほど気がついて、確認してみれば案の定電池切れ。使えるようにするために充電器を探し、部屋から持ってきたのだ。
「……ごめん。見てなかった」
遙は気まずそうに目を泳がせた。
「元気そうで良かった」
「ん……」
親子同士の会話になってきたようだ。そばに突っ立っていては邪魔になるだろうと、水希は遙の母親に向けて軽く会釈して、居間の方に動いた。
水希の背中と遙とを交互に見て、彼女は目を柔らかく細める。
「真琴くんじゃなくて水希くんが遊びに来てるのはちょっと意外ね」
「? ……」
「遙、昔は水希くんと喧嘩ばかりだったでしょう?」
「……。うん」
今もわりと言い争いをしていることは言わないでおいた。
「遙がちゃんと食べてるのか心配だから数日こっちにいる予定だったけど、明日帰っても良さそうね」
「? なんで」
「水希くんがついてるみたいだから」
後ろを向いた。遙は母からの言葉を理解しようとするより先に、名前の挙げられた水希の姿を探していた。
縁側で猫の相手をしている。見える横顔。表情が優しい。日頃、遙に向けるのよりも優しいかもしれない。
……自分相手にはまったく甘えないくせに、猫相手にはだらしない。
「……。俺は別に頼んでない」
ぽつりとぼやいた。頑なにビニル袋を渡さなかった水希を思い出したせいで、声音はどことなく拗ねたものになっていた。
言葉こそ水希の存在を突っ撥ねるようなものになってしまった。けれどそんな気持ちが少しもないことは、相手は母親だ、バレているだろう。遙の小声に母親は何も言わなかったが、表情が語っている。
「もうできるから……。遙、水希くんと居間で待っててくれる?」
「わかった」
遙は頷いて、母に背を向けた。
縁側に近寄ると水希より先に猫の方が遙に気がついてニャアと鳴いた。それで水希も振り向いた。
ばっちり目があった。
名前を呼ぶ気でいたのに。なんだか猫に邪魔をされた気分だ。
「もうできるって」
「? そう」
水希が腰を上げる。
にゃあん。寂しげに猫が鳴く。
「また後でな」
「……」
だから、なぜ、動物相手だとそうも簡単に表情を優しいものに変えるのか。猫に向かって微笑みを見せた水希に遙はいささか納得がいかない。
「遙。俺、夕飯ご馳走になったら帰るよ」
「は? 泊まらないのか?」
「積もる話があるんじゃない?」
親子水入らずの場を邪魔しては悪いと言っているようだ。遙は少し眉を寄せる。
「……。水希がいてもいなくても変わらない」
遙としてはそんなことは気にしなくていいと言ったつもりだが。
「? なにそれ」
遙の発言の意図はあまり水希に伝わらなかったようで、水希はかすかに困った表情をした。かといって意味を追求することはなく、遙を追い抜いて台所に入っていった。
遙は居間の真ん中で立ち止まって水希の様子を見つめる。
「あの。運ぶの手伝います」
「あら、水希くん。ありがとう」
流しで手を洗った水希が料理の盛り付けられた皿を持って居間に戻ってくる。それを座卓に並べたかと思えば、また台所に戻って、今度は水谷箪笥から箸やコップを持ってきて座卓に用意するのだから、なんというか。
「……馴染んでる」
遙は思わず呟いた。
水希のあまりに自然な様子は、ここに突っ立っている自分よりもこの家の人間らしい。
手伝いも準備も、遙の家に足を運ぶたびにしているせいでくせになっているようだ。遙の母親からは「水希くんは良い旦那さんになれそうね」なんてからかわれている。
水希は「そんなことないですよ」と、当たり障りのない返答と苦笑をしていた。遙が彼女と同じ言葉を言えば、きっと水希はもっと違う言葉を吐いて、露骨に表情を歪めただろう。
……にしても出遅れてしまった。水希の手際の良さを見ていると、遙が手伝うことはなにもないように思える。
遙は、また一品持って居間に来た水希に視線で訴える。
水希は気がついた。
「なに?」
「随分猫被りだな」
「は?」
「お前もっと口悪いだろ」
一瞬ぽかんとした水希だったが、すぐ愉快そうに鼻を鳴らした。
「俺が素でいるのはおまえの前だけだよ」
「は。……」
にこりと、逆に気味が悪くなるぐらい綺麗に笑って、水希は何往復めなのか台所に行ってしまった。
最初こそあっけにとられたが。よくよく考えると水希は真琴に対しても口が悪いし、凛に対してもああだ。遙相手にだけと言いつつ、なんだかんだ、近しい人にはあんな調子だ。
……からかわれたのだと、遙はようやく気がついた。
台所では、ピッチャーを片手に持った水希が遙の母親となにやら言葉を交わしている。他人の家で、他人の親とのやりとり。もう少しこう、手を貸してやりたくなる感じがあっても良いと思うのだが。相変わらずの馴染みようだ。
(本当、可愛げがない……)
遙は胸の内でため息をした。
まさか2人の会話の話題が遙のことで、「これからも遙をよろしくね」という彼女の言葉に、「はい。ずっと一緒にいます」なんて、わりと素で一言、やらかして水希が焦っているなんてことは知る由もない。