午前中から水希はおかしかった。
授業中のちょっとした応酬ではどこか覇気がなく、昼休みのお弁当を少しとっても「ふざけんな」と唸るだけで(いつもならこれにプラスして手やら足やらがついてくる)、さらに今も、なかなか水泳キャップをかぶらない水希に「かぶらないのか? あ、かぶれないのか」と遙が嫌みったらしく突っかかったのに対し、水希はちらりと遙を見ただけでスタスタと彼の横を通り過ぎてしまった。
いつもなら買い言葉なり舌打ちなり飛んでくるのに。
さすがにこの異変には真琴も気づいたらしく、「ハル、喧嘩したの? 水希と」と問うた。
いつもの2人のやりとりだって十分ケンカに値するのだが、真琴の中では単にじゃれあっているにすぎない、という認識であることが明確に表れた瞬間だったが今は置いておく。
真琴の言葉にムッとした顔をして「してない」ぶっきらぼうに言うと、遙はプールサイドで準備運動をする水希のもとに向かった。
どうやら水希本人に直接文句を言うらしい。
子供っぽいなあと真琴は苦笑する。
水希と遙、個人個人が幼稚なわけじゃないのだが2人セットになるとどうしてあんなにもレベルが低くなるのだろう。
不思議で仕方がない。
「水希!!」
「水希先輩!」
プールに入る前のシャワーを浴びようと踵をかえしていた真琴は、遙と怜の叫び声にはじかれたように振り返った。
その先に広がったのは、激しい水しぶきが、2つ。
誰かがプールに飛び込んだ影と、誰かがプールに――落ちた、影。
前者は遙だ。それは見間違いがない。……なら、後者は――?
「――水希!」
気付いたら弟の名を叫びプールに飛び込んでいた。
冷たい水にいきなり触れて心臓が驚いているのも気に留めず、真琴は夢中で水をかき分けた。
♯
「……37度9分」
呆れ、怒りを孕んだ声が鼓膜を揺らす。
水希はトロンとした目でしかめっ面をする真琴を見上げた。
「完全に風邪だよ、水希」
かぜ? かぜ……ああ、風邪。
確かに朝起きた時から体が重いような気はしていた。
とはいっても朝に弱い水希にとってそれはいつものことなので気にしちゃいなくて。
まさか熱があったなんて、思うわけないじゃないか。
水希は何か言おうと口を開くが掠れた音が1つ2つとこぼれるだけで言葉にはならない。
容体は水希自身が思っているよりも危ういらしい。
存外ぼんやりとしている水希を怒るにも、病人に怒鳴ることはとやはり憚られて、真琴は遣る瀬無さやらなんやらから深いため息をついた。
「……バカ水希」
きついのならきついと、言ってほしかった。
でも何よりも水希の異変に気付けなかったことが不甲斐ない。
「……ごめん」
謝って水希の額を撫でる真琴。
なんで謝るんだと、水希は不思議そうに目を細めた。
今寝かされているのは更衣室の長ベンチの上だろうか。
水希は身を捩ってバスタオルに包まろうとする。
「? 寒い?」
そこまで心配されると頷きにくいがイヤな寒気はごまかせず。
小さくうなずいた水希に、やはり真琴は眉を顰めた。
「頭は?」
「……いたい」
どうしようかと真琴は悩んだ。
家に帰るには徒歩しかない。
タイミング悪くも先日から家族は出払っているのだ。車での迎えは望めない。
徒歩となるなら水希をおぶることになる。
おぶる側としては何ら反論はないが、問題はおぶられる側の水希である。
ゆらりゆらりと長時間背中の上で揺られて、はたして持つだろうか。……いや、確実に無理だ。
「真琴」
うんうんと唸る真琴を少し息切れした遙が呼んだ。
「天方先生に、車、頼んだ」
「!」
なんとも手際が良い。
ありがとう、と真琴は遙に告げて立ち上がる。
あと、と遙が口を動かしたのを見るところまだ続きがあるらしい。
「緊急で部活動会議がはいったらしい」
「えっ」
「各部部長が呼ばれてる」
遙はどこか気まずそうに目線を落とした。
遙が悪いわけではないが、水希を取るべきか会議を取るべきかと悩むであろう真琴にどこか申し訳なさを感じたのだろう。
案の定真琴は目をウロウロと泳がせ、終いには困ったように頬をかいた。
「……真琴、俺が代理でいくか」
「えっ、ええ……それもなんか不安だなあ……」
「……いけよ。真琴」
「……水希」
「おれ、誰かの看病がどうしても必要ってほどじゃ、ないし」
ふらついてプールに落っこちた挙句気を失っていたやつがなにを言うと、現にも舌足らずで、苦しそうにする水希に嘘を言うなといってやりたかったが、水希が必要ないといえば必要ないのだ。
彼は頑固だからその意見を変えようとはしないだろう。
それに真琴が水希の意見を受け入れず彼のそばにいれば、迷惑をかけてると水希は気負うに違いない。
無愛想で人でなしにみえて、水希は案外そういうところをひどく気にする。
この場に真琴と遙以外がいないのもそれが理由だ。
はあ、と深くため息をつき「わかった」と真琴は頷く。
「だけどハルに看てもらって」
「……いらないって」
「水希、さすがに怒るぞ」
真琴のぴりっとした雰囲気にさすがの水希も黙り込んだ。
どうやら彼は水希が自分の体調管理を怠って周りに心配をかけたことを許しているわけではないらしい。
「ごめん、わかった」と弱々しく返事をした水希だが、やはりどこかで誰かに頼ることを拒んでいるのか「でも遙は」無理だろと付け加えようとした。
「俺は構わない」
「……は?」
「だって、水希。それじゃあハル、よろしくな」
幼なじみの遙ならば安心して任せられるということか、真琴は優しく水希の頭を一度撫でて、制服を羽織り始める。
「先生は外でまってるから、車までおんぶする。乗れるか?」
「あ、……うん」
「……ゆっくりでいい」
ぐ、と上体に力をいれてみるが、なかなか起き上がらない。
見かねた遙が水希の背中を支え、ゆっくりと彼を起こした。
「汗、すごいな」遙が独り言のように言う。
水希はよくわからないまま、なんとなく、頷いた。
「午前中からきつかったんだろ? 気付いてやれなくて…………悪かった」
「……なんで謝んの? おれだってよくわかってなかったのに、遙がわかるはずないって」
「……それはそれでムカつく」
「意味わかんねー……」
水希になりにフォローしたつもりだったが、遙が顰め面をしたのを見るに言葉を間違ってしまったらしい。
やっと上体を起こした水希は力なく足を地について、ふらふら、ジャージを取りに行く。
遙は驚きから目を丸くして、おい、と水希の腕を引っ張った。
力のでない水希は逆らうことなく後ろにふらりと傾きそのまま遙の胸元におさまる。
やっぱり、水希は熱い。
「なにしてるんだ」
「……ジャージを着ないと」
「言ってくれれば俺が取る」
「いいよ……そういうの」
「……水希」
どすのきいた遙の声に水希は思わず指先を震わした。
勢いで遙を見上げれば数分前の真琴と同じような瞳をしているので慌てて目を逸らす。
こわい、いやだ、かまうな、そんな言葉が脳裏をよぎった。
「お前がいらなくても、俺たちは頷いてやれない」
「……」
「ちゃんと頼れ。それでもっと――」
そっぽを向く水希の顔をつかんで向かい合わせる。
一度遙は水希をじいっと見つめて、ため息のように「俺に甘えろ」と。
水希は目を丸くした。
遙の言葉が何かの気まぐれでも程度の過ぎた冗談でもないことは彼の瞳を見れば一目瞭然。
なんと返事をするか戸惑った。
「……そういうのは、よくわからない」
与えられる厚意は極端に苦手だ。
それに見合うものを必ずは返せないから。
「……とりあえず、ジャージ」
遙の手が棚に伸びて意外にもきちんとたたまれていたジャージを掴むと水希の胸元に押し付けた。
水希は素直に礼を言って、遙からすこし離れると、腕を通しジッパーを首元まであげる。
「……おんぶはいい。歩けるから」
「……はあ」
聞こえるぐらい大きなため息だった。
怒らせただろうか、いや、通り越してあきれか。
どちらにせよ良いものではないことは確かだ。
自分が間違っているのだろうかと水希は不安げに遙の頭を見たが答えなんかあるわけがない。
歩き出す遙につられる。
――いや、俺は間違っていないのだろう
水希は視線を落とした。
更衣室を出ると外でじっと様子を窺っていたらしい渚が飛びのいた。
ドアに耳でも引っ付けていたのか。
「わるかった。歩けるぐらいには、平気だから」
「……うん」
聞かれずとも自分のせいで晴れない顔をしていることぐらいわかる。
なので余計な憂いを取り除くために口にしたのだが、渚は腑に落ちないようすだ。
「怜もこうも、ごめん」
「……本当に平気なんですか?」
「ん……心配するほどじゃない」
「……うそも大概にしろ」
遙の低い声に肩が跳ねたのは水希だけではない。
「立ってるのもしんどいくせに。さっきから足が震えてる」
遙はきつく水希を睨みつけ、すたすたと歩き出した。
そのせいで後輩との別れはすっきりしないものになった。
遙が怒っているのは明確だ。
掴まれた手は、居心地が悪かった。
美帆は車を少し歩いたところに待機していたらしく、2人の姿を見つけるとひらひらと手を振った。
大丈夫? と存外心配そうに尋ねられ水希は多少たじろぎながらも頷いた。
それから、迷惑をかけてごめんなさいとも。
別に迷惑なんかじゃないわ。美帆は困ったように笑った。
「橘くんのお家まで送ればいいのかしら?」
「お願いします」
「でもお家にご両親はいないんでしょう?」
「俺の家で、真琴がくるまでは面倒を見ます」
どちらにも答えたのは遙だ。
車を発進させた美帆はミラー越しに遙を見て、それなら安心ねと笑った。
また熱が上がってきたのかもしれない。
車が揺れるたび喉元まで胃液があがってきて、その酸っぱさに咳が出る。
「……なあ、なんでそんなに怒んの」
相変わらず繋がれたままの手をどうにかしようとしたが遙は離す気がないらしく結局そのままだ。
遙は横目で水希を見たが何も答えなかった。
「病人は寝とけ。ついたら起こす」
「……」
寝とけと言われたって眠れる気がしない。
遙が答えてくれる気がまったくないということだけはわかったので、水希ももう口を動かさなかった。
学校からはさほど距離がないので家にはすぐについた。
それがどれくらいのものかというと眠る時間のないぐらいだ。
送ってくれた美帆に礼を言い、遙の手助けを受けながら石段をのぼりきった後の難題は、この気まずい空気なのだろう。
遙が部屋に床を敷いて、そこに横になって早数十分。
水希は面白いほど寝付けないし、遙は無言で水希を見下ろしている。
遙に背を向けているので目が合うことはないが、視線はつきつきと嫌でも感じることになる。
「部屋に入れておいてもらってあれだけど……うつしたらわるいから、下にいてよ」
「お前の風邪をもらうほどヤワじゃない。し、ここにいるのは俺の意思だ。水希にとやかく言われる筋合いはない」
「……」
なんだかやけに棘が多い。
水希はもぞもぞと動いて胎児みたいに身を丸めた。
寒気がするのは体調を壊したせい、だけではないのだろう。
こんなに遙と一緒にいたくないと思ったのはこれが初めてかもしれない。
「…………俺のときは怒鳴ったくせに、いざ自分がその立場になると何もわからないんだな」
ぽつりと遙が言った。
なんのことだろう。水希は息を潜めて続きを待つ。寝返りをうちそちらを向くことはしなかった。
「甘えるよう要求するくせに自分が甘えるのはそんなにいやか」
「……」
「頼らせるくせに頼るのはいやか」
遙の口調は厳しい。
水希はそっと目を伏せた。
「そんなに弱い自分を見せたくないのか。そんなに……頼りないか」
「……違う」
「信用できないか」
「違う!」
思わず怒鳴ってしまい、焼けたような喉からは乾いた咳が出た。
頭が痛い。くらくらする。万全じゃないこの状態ではたして冷静になれるだろうか。
今は何も考えなくない。考えなくないのだけれど。
「相手が信頼できるできないなんかじゃない。誰かに甘えるのも、頼るのも、絶対じゃないだろ」
「いや、絶対だ」
きっぱりと言い切られ、水希の中で膨らんでいた憤りがしおしおと萎んでいく。
「好きなやつに頼られたいのは普通だろ?」
「、」
「俺だけじゃなくて渚も真琴も、怜も江も」
のっそりとした動作で寝返りを打つ。
遙は優しく目を細めていた。
「水希もそうだろ?」
「……」
「好きなやつのことだから心から怒るし、泣ける」
「……自惚れんな」
「別に俺の憶測じゃないだろ?」
「憶測だよ」
「図星なくせに」
ぐうの音も出ない。
「……泣くな」
「泣いてない……」
とは言ってみたが頬を滑るなにかは遙の指摘通りのものなのだろう。
「……水希が不器用なのは知ってる。相手にはなんでもあげるくせにその見返りを求めないのも、むしろ何か返されることをひどくきらうのも」
「美化しすぎだ」
「いや、お前はそういうやつだ」
「……」
くしゃりと頭を撫でられる。
「そんなに、綺麗な人間じゃない」と水希は弱々しくつぶやいた。
遙が静かに水希の髪に手を通す。
「じゃあ、その綺麗じゃない水希も見せてくれ」
「、」
「頼むから、……」
遙の今にも泣き出しそうな顔に、きゅうっと胸が締め付けられる。
わからないわからないと拒否し続けたが、水希には遙の気持ちが痛いほどわかっていた。
好きな人に頼られないのは辛い。そんな、単純なことをここまでややこしくしたのは、自分が遙の気持ちを、みんなの気持ちを素直に受け止めようとしないせいだ。
どうしても不器用で。みんなの優しさに、素直になれなくて。
ぎゅ、と布団の中で拳を握り、水希はかすれた声を出した。
「……遙、水、持ってきて」
今の水希ができる、最大限の甘えだった。
遙が徐々に目を見開いていく。
「……ああ。わかった」
遙がゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていく。
ぱたりと戸が閉まる音を聞いて、水希は目を伏せた。
単に怖がりなのだ。人に甘えること、イコール迷惑をかける、と決めつけて、優しい手からいつだって逃げ出している。
だからつっけんどんな態度になる。皮肉ばかり言ってしまう。
それを全て分かった上で、遙は手を伸ばしてくる。それをはたき落としても、彼は、優しいから。
まだ難しい、でも、いつまでも怖がっててはいけない。
ちゃんと、向き合いたい。遙への気持ちにも、みんなの優しさにも。
だからまずはあした、みんなに謝ろう。
熱でぼんやりする思考が蕩け出す。
優しい手が髪を撫でる感触は、まだ残っていた。